シュティムト家①
「エヴァリスタ、起きて。着いたよ」エヴァリスタの肩をトントンと叩いて、ネーエは馬車を降りる準備をする。ビーアの町を発って数ヶ月。彼女は馬車の中で誰にも気付かれず七歳の誕生日を迎えた。
「ん? ああ、もう着いたのか。ありがとう」
あれから、ネーエは自分でも大人になったように感じる。起きてから、いそいそと外へ向かうエヴァリスタの背中をネーエはじっと眼差した。
「早くローブを纏って。ほら、頭も隠して」レーゲンが促すのをエヴァリスタは「はいはい」と頷いて、頭に生える角を布で覆った。オイサーストに近付くと、下車の度にレーゲンがこう言って、角を隠させている。
ネーエもエヴァリスタに続く。若干の期待を携えて、馬車の外に向かう。
何これ。と外に出て感嘆に息を止める。見た事もない石造りの建物。すっかり整備された石畳。見るもの全てが幻覚のようで、まるで昔お母さんの話していたお姫様の住まう国ようだった。
「あれ何?」ネーエは少し先にある、目立って大きい建物を指差す。確か、お姫様はお城という大きな建物に住まうらしかった。
「あれは図書館だったか?」
「ええ、そうです。オイサースト領主は大変な博学でして。若年層の公衆衛生とは、知的精神の育成を整備する事にあるとの考えのもと、建設されたんです」
「属領からの略奪物を管理している場でもある。特に南方帝国の重要な書物の原本は殆どここに置かれたんだ」
「変な事吹き込まないで下さい」
「事実を言ったまでだ」
「その事実がダメなんです」
ネーエは彼らの話しを殆ど聞き流して、期待外れだと図書館に不満げな視線をぶつける。お城じゃないのか。
「さて、予定は?」エヴァリスタが気を取り直して、レーゲンに尋ねる。
「式典までは余裕を持たせてるんです。大体一月は暇ですね。一度、私だけカイザー様の下に行くので、予定も聞いて後でお伝えしますよ」
「了解。ガイウスはもう着いているのか?」
「恐らく。しかし、会談やら式典の準備やらがあって忙しいですから、会うのは式典当日になるかと思います」
「そういうもんかね。そういえば宿は取ってあるのか?」
「いえ。領主の居城に泊まる事になってますから」
「えっ! お城? お姫様いるの?」
「地方領主の姫ですが、居ますよ」
「ネーエ、良かったな」エヴァリスタは喜ぶネーエを見つつ、ネーエの頭を撫でる。その後、顎に指を当てて不思議そうに「にしても、よく魔物を召し上げるな」と言った。
「貴方は自分の事を過小評価しすぎです。属領の長は皆んな貴方に会いたがってますよ。今回も領主が是非会いたいとのことでしたので、暫くもてなすことを条件に許可を出したんですよ」
「そいつらが過大評価してるんだろ。別に大したことは……してるか」
「そもそも帝国の最高権力者とコネのある者なんてそう居ないんですから、本国とのパイプという意味でも会いたがるのは当然でしょう」
「なるほどな。な、ネーエ。先にお城に行きたく無いか?」
「うん! 見たい!」
「随分と観光客気分ですね……まあ別に構いませんが」
「荷物も置いていきたいしな。観光と言えば、図書館にも寄りたいし、カフェにも顔を出したいぞ」
「カフェ。あー、南方から態々取り寄せてる苦い飲み物ですか。貴方あれ好きですもんね」
「ビールと同じくな」
「ビールの方が全然美味しいですから」
「……しばらくは飲むなよ?」
「わ、わかってますって」
エヴァリスタがじとりとした目でレーゲンを睨むと、レーゲンはハハハと笑いながら、気まずさを漂わす口調をわざとらしく作った。
「全く……で? 城までは案内してくれるんだよな?」
「もちろん。迎えを呼び付ける訳にもいきませんしね。さ、こっちです。行きましょう」レーゲンがスタスタと歩き出すと、エヴァリスタが手を差し出してくる。ネーエはその手を取って、エヴァリスタに並んで歩き出した。
*
「あれ?」レーゲンは顎をさすりながら困惑げに表情を歪めた。
「あれ? じゃないが。逆だったんだろ?」
「いやそんなはず……」
「壁も随分大きくなってきたな」エヴァリスタは目の前に聳え壁を指差して言った。それがこの街の端を示している事はレーゲンにもわかっていた。
「ねえ、まだ?」ネーエは途中で疲れてから、エヴァリスタに抱っこをせがんで、今やエヴァリスタの腕の中だ。
「いや、あれ?」
「それ何回目だ。ほら、引き返すぞ」
エヴァリスタはそう言って、くるりと反転して、来た道を戻ろうとして、立ち止まった。
「どうしたんです? 戻りましょう」
「いや、シュティムトじゃないかあれ」
エヴァリスタが指差す、大きな袋を抱えた男性。ちょうど、彼女たちが先ほど通り過ぎた角を曲がろうとしていた。間違いない、あれはシュティムトだ。三人はそう確信した。ネーエを抱えたまま、エヴァリスタが走り出す。「あ、待ってください」と言って、レーゲンも慌ててその後に続いた。
「おい! シュティムト。何だ、買い物帰りか」
「げっ、あんたか」
背後からの聞き慣れた声に呼び止められて、まさかとシュティムトは振り向くと、思わず顔を歪めた。抱きかかえられたネーエが訝しげに彼の顔の辺りを見回している。
「……何の用だよ」
「ガイウスの奴がここで特区関連法案の成立を祝うパーティを開くらしくてな。今日着いて、荷物を置こうと宿に向かってたんだが、レーゲンの奴が道を間違えやがったんだ。それで、引き返そうとしたところに、ちょうどそこの角を曲がるお前を見つけたんだ」
「特区関連法案? それとあんたに何の関係が?」
「あれ? 言ってなかったか? 私に寄贈された土地を有効活用する為に、法案を練った話」
「何だよそれ。ってかあのおっさんも来てんのか」
ハアと溜め息を吐く。エヴァリスタだけでも面倒なのに、レーゲンも来るとなれば……そう考えた矢先、後ろから四十歳くらいの男がゼエゼエと息を切らせながらこちらにやって来る。随分老けたもんだと、シュティムトは思った。
「ちょっと、速すぎですって」レーゲンは息を切らせながら手を膝に付いて言う「もっと人間に基準を合わせて」
確かにネーエの髪は強風にでも当てられたかのようにボサボサだ。敢えて言えば、それだけの脚力を持っているという事。シュティムトは魔物と人間の差を改めて感じた。
「シュティムト君、ご無沙汰です。いやあ見違える程大きくなって。感無量です」
「そっちこそ。随分老けちまって。それで、相応に偉くもなった訳だ、お二人は」
「ハハハ、私はまだ下っ端ですよ」
「ガイウスの奴は独裁者様だもんな。唯一無二ってな」
「それも一時的なものです。今は帝国の立て直しが必要な緊急事態ですから」
「どうだか。レーゲンさん、それよりも。見せたいものがあって。家、ちょっと行った所にあるんだけど、寄れる?」
「えっ、ああはい」レーゲンは曖昧に返事をしてから、エヴァリスタ達の方を見る「お二人が良ければ」
「あー、私は別に構わないが……ネーエはどうする?」
「行きたい」
「どっちだ?」
「シュティムトの家」
「だってさ」エヴァリスタはシュティムトの方を見て言った。
「ま、俺はあんたには来てもらわなくても別に良いんだがね」
「はいはい。ネーエが行きたがっているから、お邪魔させてもらうよ」
これから渡す物はこいつには見せられないが、レーゲンさんに見せるタイミングは作れるはずだ。シュティムトはそう考えてから、家のある方を指差して、「あっちです。さ、行きましょう」とレーゲンに向けて言った。
「聞きましたよ、結婚したんですって? おめでとうございます」
歩きながら、隣に居るシュティムトにレーゲンは言った。エヴァリスタは後ろで何やらネーエと戯れている。
「ああ、ありがとう」
「で、どこの家の娘を娶ったんですか?」
「どこの家? ああ、彼女の家は酒場を営んでるんだ。そいつにさせられてた使いのついでによく寄ってたとこのな」
「あれ、どこかから縁談があったのではないのですか?」
「はあ、これだからお貴族様は。今は恋愛結婚の時代だよおっさん」
「良いんですか? エヴァリスタ。とても
「ごめん、何の話だ?」
ネーエと戯れていて話を聞いていなかったようだ。レーゲンは思わずため息を吐く。
「シュティムト君のご結婚の話ですよ。何でも、平民のような結婚をしたとか」
「シュティムトは平民だろ? それよりも、お前は奥さんをちゃんと支えてるんだろうな? 子どもができたらもっと大変になるんだから、今のうちからそういう体制を作っておかないと……」
「うっせえ、あんたには関係ないだろ」
「エヴァリスタの言う通りですよ。その酒場を継ぐにしろそうでないにしろ、家計を支えるのは君なんですから。そういえば、まだ彼女から仕送りを貰ってるそうですね?」
「いや、そんなの事は言ってない。別に金なんか何も心配しなくて良いが、ちゃんとコミュニケーションは取ってるんだろうな?」
「ちょっと、私はシュティムト君に聞いてるんですよ」
「私はお前に話してる。誤解が多いようでな。私はこいつに帝国の下らん馬鹿げた慣習に迎合しろと言っている訳では断じてない」
「何ですって。下らないとはどういうことですか。馬鹿げた、なんて! 魔物にはわからない尊さがあるんですよ」
「人間のシュティムトがわかっているようには見えないがな」
「わからないなんて事はないでしょう。反抗期が長いだけです」
「二人ともうるさい。ここは住宅が密集してるんだから静かにしてくれ」
シュティムトの静止で漸く二人は黙った。あまりにうるさいものだから、子どもや大人たちが何事かと窓から彼らに視線を送っている。
「貴方が魔物だって事が見られたら不味いんですから、静かにして下さいね」
「減らず口め」エヴァリスタがボソボソと小さい声でそう言うと「何ですって?」とレーゲンの声が大きくなる。咄嗟にネーエが人差し指を立てて、シーッとレーゲンを窘めた。
「ここね」シュティムトはそう言って薄暗い店の奥に入っていく「ただいま。あれ? 居ないのか」
エヴァリスタが店の前で立ち止まる。ネーエは彼女の腕の中で、店外に置かれた大きな樽とそれを囲む背の低い丸太の群れを感慨もなく眺めていた。
「ネーエ、酒には気を付けろよ」
耳元で聞こえる彼女の声に、意味もわからずコクリと頷く。それに納得したのか、エヴァリスタは店内に向かってゆっくりと歩き出した。扉のない大きな入口を潜る。中はビーアの酒場とほとんど変わらない。
(確かビーアは元よりここと同じ領主なんだっけか)
頭に浮かんだ疑問を一人でに解決しつつ、エヴァリスタはシュティムト達が進んでいった店の奥へと向かう。
「別にいいだろ。俺らの勝手だ」
シュティムトがちょうどそう言った時、彼女はレーゲンの隣に並んだ。店に入ってから二人が何やら話して居たのを聞き流していた。
「聞いてました? 奥さん一人で外出ですって。女性の扱いがなっていません」
エヴァリスタが来て勢い良く振り向いてから、同意を求めて話しかけてくるレーゲンに、エヴァリスタはうんざりしていた。
「なあ、こいつに小言を言う為に着いて行ってるなら、早く城まで案内してくれないか?」
「いや、彼が私に用があると言ったんでしょうが。ついでに叱ってるだけです」
「何でもいいが、イチイチ私に共感を求めてくんな。うぜえ」
そういえばそうだったなと思いつつ、負けたような気がして苛立って、彼女は不愉快そうに顔を歪めた。
「言っとくが、あんたは別に呼んでないからな」
「案内人を連れて行こうとするんだから、着いて行かざるを得ないだろ」エヴァリスタはそう言って、やれやれと溜め息を吐いた。
「エヴァリスタ。あれ」
ネーエは抱きかかえられたまま、エヴァリスタの肩を叩くと、入口の方を指差した。確かに、人影が徐々に大きくなってくる。帰ってきたのだろうか。
「ただいまー。あれ、お客さん?」
店内に女の声が響く。野菜が大量に入った茶袋を両腕で抱えながら店内に入ってきた。重いからか、足取りは覚束ない。後ろに纏められた、波がかった長く茶色い髪を揺らしながら、日の光の入らない暗い店内の様子を見ようと、エヴァリスタ達の居る厨房の方までゆっくりと歩いて来る。
「……エヴァリスタさん?」女は確認するように呟いた。