女はエヴァリスタを認めるなり、抱えていた荷物を近くにあったテーブルに投げ出して、彼女のもとまで駆けて来た。目を輝かせてずいっと顔を近づけ、喜びも顕に、彼女の空いている方の手を取って、話し始めた。
「うわ! やっぱり。エヴァリスタさんじゃないですか! こんなとこいないで、中入って下さい」そう言うなり、厨房の奥にある階段を指差した。
「お、おお。久しぶり。そっか、二階で暮らしてるのか」
「ええ。シュティムト君、先、上行ってるよ。あと、そこにお野菜置いといたから」
そう言って、階段の前まで歩いて行く。エヴァリスタがついて来ているのを確認してから、ゆっくりと階段を登り始めた。木製の古びた階段がギシギシと音を立てる。どういうわけかネーエは怖くなって、エヴァリスタの肩で顔を隠した。
「落ちないから。大丈夫」エヴァリスタは両腕でネーエを抱え直して、背中をさすった。
「オイサーストまで相当遠いでしょう、どうしたんです? シュティムト君が行った時の事でとか……」
「あー、あれは関係ないよ。ちょっと所用があってね。旧友と会うんだ」
「旧友、ですか? お連れさんも同じ件で?」
「ああそうそう。下に居る男はそうだな」
エヴァリスタがそう言って、ちょうど二階に着いた。彼女はネーエをその場に下ろして、挨拶するよう手で促した。
「ネーエです。宜しくお願いします。その、最近、拾われました」
「おおーっ! 礼儀正しいね、ネーエちゃん。私はフィオーレ。下に居るシュティムト君のお嫁さん……彼のことは知ってるんだっけ?」
フィオーレは彼女の奇妙な自己紹介に対する違和感を押し殺して、大袈裟に明るい声を出した。子どもは褒めて育つと聞き齧った知識で、褒めてもみた。
「うん。こないだ来たから」
「あっ! あの時? ごめんね。迷惑だったでしょ」
「うん」
「結局何で喧嘩したんだ?」
「それは……恥ずかしいので内緒です。まあ、よくある下らない事で……」
「怠け者だからな。どうせ、あいつだけ暇そうにケツ掻いて寝てたんだろ」
「ええっ、シュティムト君が怠け者ですか? そうじゃなくて、私がキツく怒ってしまって……」
「違うのか? まあいいや」
「お話の邪魔をしてすみません。私、レーゲン・ツァオバー・ニュヒタンと申しまして、エヴァリスタとは古くからの友人です」
いつの間にか二階に来てたレーゲンがエヴァリスタの真横で唐突に話し出したので、エヴァリスタは思わず「うわっ、びっくりした」と間の抜けた声を出した。
「フィオーレです。お貴族様なんですね! すごいです」
「はは、所詮は親の七光りです」
「ふふ。謙遜なさらないでください」
「俗物め。鼻の下伸ばしやがって。まったく、七光を褒められて喜ぶ奴があるか」
「あれっ、顔に出てました? 貴方みたいなのとずっと一緒に居ると自尊心が破壊されそうになるので偶にはこういうのも必要なんです」
「おいおい、私のせいかよ」
「そりゃあね! だいたいいつ、法創造のスキルなんて身に付けたんですか。そもそもあんた、数学の専門家でしょうが」
「勇作の専門は法律だからな。その記憶がありゃそれくらいできるさ」
そういう話じゃないんですが、とレーゲンは困り顔になって閉口した。
「あっ、そういえば! お借りしてた本!」フィオーレが思い出したように叫んだ。
「ああ、そんなのもあったな」
「ちょっと待ってて下さい」そう言って、フィオーレは奥の自室に入っていった。
彼女の背中を一瞥してから、エヴァリスタに向き直ると、「本ですか?」とレーゲンが口にした。
「そ。彼女は私の著作のファンでね。わかる人にはわかるもんなんだな、これが」
「エヴァリスタ、すごい」ネーエは何とか会話に入ろうと、大きな声で言った。
「ああ、人気のない数学の本ですね」
「おい。写本だってされてんだぞ」
「正にさっき自分で言った極々少数のファンによるものじゃないですか」
エヴァリスタは黙ってレーゲンを睨み付けた。ちょうどそこにシュティムトがやって来た。何やら不満げだ。
「ちょっとレーゲンさん。勝手に上がんないでよ。話があるって言ったでしょ。ちょっとこっちに」
「失礼。挨拶にと思いましてね。ここでじゃだめなんですか?」
「駄目だ。下で話そう」
「じゃあちょっとだけ待ってください」
「ちょっとね。そんな待ってらんないぞ」シュティムトはそう言ってそそくさと階段を降りて行った。
「せっかちですね。お宅の息子さんは」
「私抜きで話したい事なんだろ」
「自分で言ってて悲しくなりません? それ」
「すみません、お待たせしました!」フィオーレが分厚い本を手に持って戻ってきて、エヴァリスタに手渡す「いやあ、素晴らしかったです。透視図法の幾何学ってね。そう言えば、シュティムト君も隠れて熱心に読んでましたよ」
「へえ。まあ、実際のところ、五巻の内容はあいつからの着想だしな」
「確かにシュティムト君の絵は目で見たものを描いている感じがします」
「それ言うと怒られるだろ?」エヴァリスタは呆れたような笑みを浮かべながら言った。
「えっそうですか? 私がそう言う事を言うと、いつも楽しそうに聞いてくれますよ。で、その本を読む為に、四巻までの写本を私の本棚からコソコソ取ってくんです。面白いでしょ」
「驚いた。子ども頃なんか、すぐそっぽ向いてつまんなさそうにして無視してきたぞ」
「勉強できないんだ」
「それだけじゃないぞ。今じゃあんなに偉そうだけど、すっごい泣き虫だったんだ」エヴァリスタは膝を折って、ネーエの頭を撫でながら言った。泣き虫だったと言う彼女をネーエはじっと眼差している。
「あっ、そういえばお伝えしてなかったですね、その……妊娠したんです」
「えっ、おめでとう。ってか、じゃああいつ、妊婦に重いもん待たせてんのか」エヴァリスタは不満げに表情を曲げた。
「ま、まあまだ一週間程度なので、ちょっとくらいは大丈夫です」
「いやいや、暫くはそういうのは控えないと」
「大袈裟ですって」
「彼女の言う通りです。彼には私の方から言っておきましょう」
「いや、大丈夫ですから」すっかり困った様子で、フィオーレは言う「やめてください」
「レーゲンさん! 早く!」階下からシュティムトの呼ぶ声がする。
「丁度呼ばれました、行って来ます」レーゲンはヘラヘラと笑ってから階段を降りていった。
「ねえ、エヴァリスタ」ネーエがエヴァリスタの袖の辺りを引っ張る。
「ん? どうした?」
「妊娠って何?」
「あー、フィオーレのお腹に赤ちゃんが居るってこと」
「お腹がおっきくなるやつ?」
「そう。ネーエのきょうだい……、あれ? この場合ってどうなるんだっけ」
「ネーエちゃんの甥っ子か姪っ子かな」
「あーそうそう、それ。そういうの難しいんだよ。文化圏によって違うし。まあ、ネーエ、何にせよ新しい子が産まれるんだ」
「うん」
「……どうした?」
「何でもない」
「ごめん、無神経だった」
「何で謝るの?」
「泣いてるから。おいで、ほら」
エヴァリスタはネーエを包み込むように覆い被さって、ネーエの脇に腕を通して持ち上げた。
「ネーエちゃん、どうしたの?」フィオーレが心配そうにネーエの背中を見詰める。
「ちょっと、そこの部屋借りて良い?」エヴァリスタは彼女の心配をよそに尋ねた。奥の部屋を顎で示した。
「は、はい。もちろん」何があったのかもわからず、戸惑いながら、フィオーレは答える。
「ありがと」
エヴァリスタはそう言って、部屋に入ってバタンと戸を閉じた。フィオーレは、すっかり一人になってしまった。彼女の態度に不満を感じつつ、それを押し殺そうと自分を責めた。
「ごめんなさい」
部屋の戸を閉めるなり、ネーエが呟くように言った。
「気にすんな。そう簡単に立ち直れるもんじゃないさ」
「でも、お祝いしなきゃいけないのに」
「無理しないでいいから」
「エヴァリスタは辛くないの?」
「え? うん。ネーエが辛そうなのは見てて辛い」
「ごめんなさい」
「違う違う。だから、私と一緒にちょっとずつ元気になっていこ、ってこと」
「エヴァリスタ、好き」ネーエはそう言って、彼女の服をギュッと握った。
「私もネーエが好きだよ」
それを聞いて、ネーエはワンワン泣き出してしまった。これでは埒があかない。
(はあ、めんどくさ。家族を亡くすには大きすぎたし、小さすぎたってことなのかね)
エヴァリスタは疲れに溜め息も吐けず、代わりに辺りをキョロキョロと見回した。どうやら、寝室らしい、彼女の居るドアの辺りから部屋の奥の窓まで、通路を作るように、二人が寝れるくらいの大きさのベッドが二つ並んでいる。ベッドの上には特に何も置かれていないので、エヴァリスタの視線は自然と、窓の方へと収斂していった。
(彫刻? そういえばあいつ、本職は彫刻家だったっけ)
窓枠にポツンと置かれた、手のひらに収まるほどの小さな彫刻が目に入った。エヴァリスタが近付いて見てみると、帝国で語られる神話に出てくる男神と女神の像だった。
(
「揃いも揃って偶像になっちまうってのは皮肉なもんだ」
背後から声がして、振り向くとシュティムトが居た。
「話は終わったのか」
「ああ。フィオーレとレーゲンは下に居る。ネーエちゃんは……寝てる?」
「あ、ほんとだ。なあこれ、お前が造ったのか?」
エヴァリスタはネーエが寝ているのを確認すると、彫刻を指さしてシュティムトに尋ねた。
「まあな。書かれないほどに超越的な神も、書かれるほどに偉大な神も、それが実際に居たとなれば、
「へえ、よく勉強してるんだな。
「あんたが送ってくるからな。それより、
「ボールペン? お前が小っちゃい時に全部使い切っちゃったんだろ」
「そうか、惜しい事したなあ、あれは造るの難しいだろ?」
「またレーゲンに頼んでも良いけど。な、これ貰ってもいいか?」
「は? 良いけど、そんなん何に使うんだ?」
「お土産」エヴァリスタは端的に答えた。これ以上は詳しく話さないという雰囲気をシュティムトは感じ取った。
「ま、持ってきたきゃ持ってけよ」
「ありがとう。ちなみに最近描いた絵はどこにしまってるんだ?」
「隣の部屋だけど」シュティムトは親指で壁を指して言った。
「見せてくれるか?」
「え? あ、ああ。じゃあ一応、案内するよ」
こんな奴だったっけ、と彼は不思議に思った。彼はその疑問を『自分の描いた絵を見たがるような奴だったか』と言語化する事で、その起源を見誤ってしまった。この場合、不思議を意識に上らしめたのは、小さな違和の集積であり、さればこそ、会話内容だけを遡って、そこに到達する事は能わぬのであるから。