生憎、私は私にしかわからない言語で書く事しかできない。しかし、それでもなお、この手記を書こうと思うのは、魔物の生態について身近で観察した限りの事をできる限り後世に遺したいからに他ならない。私と共に生活する魔物は、エヴァリスタと名乗る、人間の女性に似た姿をした魔物だ。側頭部から角が生えている所が、身体的特徴において、人間との唯一の差異だ。身長は170cmちょっととかなり高く、形容し難い程美しい顔をしている。しかしその本質は邪悪そのもので、狡猾かつ冷酷。五年程前、人間を殺す事について何とも思っていないような発言をしていた。
レーゲンと別れた場所から少し先に進むと、石で作られた奥行きのある大きな門が見えた。その両脇に小さな門が二つあって、左側だけが案内するように口を開けている。ランプの灯りが、アーチの中で煌々と輝いている。
「凄いね」
ネーエが呆気に取られて口をポカンと開けているのを構わず、エヴァリスタは先に進んだ。
「これ、レーゲンってやつから貰ったんだけど」
エヴァリスタは灯りの所まで行くと、目の前にいる男に紙を差し出した。男は目元を湿らせた布で覆っていて、こちらを見向きもしない。
「ふーん。どうぞ」布を取ろうともせず、男は気怠げに応じた。
「は? そんなんでいいのか?」
「え、どうぞ。別にあんたはその方が困らんでしょ」
「いや、フードとれとか、顔を見せろとか、そういうもんかと」
男はめんどくさいな、と布を取って、二人を見た。ほら見た事か、女が二人。事前に言い付けられた客人のご来訪だな。男はエヴァリスタの方を見て言う。
「ハハハ、変だね、君。別に俺は仕事が一つ減って、君は検問の煩わしさから解放される。それで良いじゃない」
「まああんたらがそれでいいなら良いが……」エヴァリスタは戸惑いがちに言った「いこ、ネーエ」
門を潜ると、少し先に城が見える。二階建ての横に長い建物だ。それが奥にまで伸びて、中心を囲う壁のような造りになっている。戦間期に武器や馬を供給できた属領は、莫大な儲けを奢侈に投じた。
(デザイン重視で実用を忘れているから、人を収容できなければ、都度増築して、その大半が歪な建築になる。……ここはそうでもないな。外周はそんなに取ってないのに、上に伸びないって事は、人がそんなに居ないって事だ。言ってしまえば、貧しい。こんなのが図書館を作ったのか? あんな立派な)
エヴァリスタがそう値踏みしていると、ネーエが彼女の手を切って、走り出した。ネーエがこんなにご機嫌なのは、初めてじゃないか。彼女はやれやれと小走りでネーエを追いかけた。
「ネーエ、こういう場所ではあんま走らない。いいな?」
「えっ、どうして?」
「貴族ってのは、走るのを嫌うんだ。特に、お姫様になるなら尚更」エヴァリスタは笑顔でそう注意してから「……意味わかんないだろ?」と続けた。
「うん。レーゲン走ってたし」
「えっ。あ、ああ。まあとにかくお姫様になりたいならやめときな」エヴァリスタは誤魔化すように笑った。
「変なの」
「ま、まあ、ちょうどドアの前にも着いた事だし」逃げるように、ネーエから視線を外して、ドアに備えられた金具を打ち付けてノックする。中からバタバタと足音がしてから暫く待って、ドアが小さく開いた。
「エヴァリスタ様とネーエ様、ですね」
女の声と共に、せっかちそうなレーゲンと同じくらいの歳の女中がにゅっとドアの隙間から顔を覗かせた。
「ああ、そうだ。遅くなった」
エヴァリスタが何の気無しにそう言うと、不快そうに顔を歪めて、ドアを奥まで引いた。中の広々とした感じを覗き込むように見て、ネーエは目を輝かせた。女はエヴァリスタの顔を好戦的な目で見つめながら、口を開く。
「ええ。お待ちしておりました。到着したと一報があったもんですから、てっきりすぐに来るもんだと思ってましたよ。ほら、あんた荷物持たんかい」
「はっ、はい。お荷物、お預かりします」
女の陰から少年が現れる。背の小さい、ボロを着たみすぼらしい男の子だ。ネーエと歳も近いだろう、エヴァリスタは少年を見下ろしながらそう思った。
「いいよ、魔法で浮かせてるから。別に重くないし」
「えっ、あっ、はい。失礼しました」
「ほら、モタモタしてないで、そこを退きなさい」しかめ面でシッシッと手を振って、少年をどかした。
「うちの者が失礼しました。新入りで、ドジな子どもなんです。どうか、ご容赦ください」
女は少年を叱り付けた表情のまま頭を軽く下げると、切り替わったようにいつもの、せかせかした調子の顔に戻った。
「で、確か、式典の日までご宿泊されるんでしたか? では、最初にお部屋に案内したいのですが」
「ああいいよ。荷物置きたいし。っていうか早く入れてくんない?」
「これまた失礼。では、こちらです」そう言って、ドアを引いて、二人を中に入れる。
目の前には広い階段があって、その脇に中庭へと続く扉があった。左に行くと食堂があり、右に行くと客間や医務室、浴場があるという説明を女がしている。それを他所に、ネーエはキョロキョロと辺りを感動の目で見回している。
「すごいね、エヴァリスタ。ぜんぶおっきい」
「ああ。そうだな……ネーエはこういうの始めてか」
女は説明を切り上げて「ご案内します」と言って、ツカツカと目の前の階段に向かって歩き出した。
(ボロボロ……というか、掃除が良い加減だな。人目のつかないところにまで行き届いていない。やっぱ貧しいのは本当だったか。もし、図書館を建設させた者と同じ人物なら、とんでもない見栄っ張りかもしれんぞ)
女の背後で、そんな事を思った。
*
階段を登った先には、部屋が幾つも並んでいて、彼女達の部屋は右に曲がって突き当たった所にあった。女がドアを開けるなり、ネーエがその広さに感嘆の声を漏らす。
「ここです。貴女がいらっしゃったことをご主人様に伝えて参りますので、入って待ってて下さい」
ドアを開けたまま、女がそう言うのを聞いて、エヴァリスタは横でソワソワしているネーエに向かって「だってよ、ネーエ。暫く部屋でゆっくりしよう」と言った。
「うん!」と言って、ネーエはエヴァリスタと手を繋ぐのをやめて、部屋の中へと駆け出していった。エヴァリスタもゆっくりと何があるか確認しつつ、中を歩く。バタリと後ろでドアの閉まる音がした。
「ふー、疲れたな。コラ、ベッドで飛び跳ねない」
部屋の奥まで来ると、巨大なベッドの上をネーエが楽しそうにジャンプしていた。
「エヴァリスタ! これ、めっちゃ跳ねる!」
「やめなさい。全く、杖、ここに置いとくから」そう言って、部屋の隅に荷物を置くと、窓を開けて、バルコニーへ出て行った。特別高い所にあるわけでもなく、庭もそれほど広くはないから、見晴らしは良くない。行きがかりに通り過ぎた建物が近くに見える。
「何ここ」
バルコニーの手すりに頬杖をついて外を眺めていると、ネーエがやってきた。エヴァリスタがおいでと手招きをする。
「日、沈んだな。ネーエ、それ危ないから」
隣で手すりから身を乗り出すネーエを横目に、エヴァリスタは言った。
「だって、柵が邪魔で見えないんだもん」
「仕方ないな……ほら」
「うわあ、綺麗」
「街がこんな明るくちゃ星が見えないな」
「お星様、好きだよね。毎日見てる」
「毎日って程じゃないさ。でもそうだな。好きだよ」
「どうして?」
「昔を思い出すんだ。ネーエくらいのうんと小さかった頃の事。大きな高い木に登って、星空をよく一人で眺めてた」
「そうなんだ」
「うん。何なら、木に早く登れるようになりたいって思って、空を飛べるようになったんだ」
「へえ! 良いなあ。木に登った方が魔法使えるようになる?」
「ハハハ、関係ないさ。そのずっと前から一人で狩りをする時に、魔法を使ってた。槍を魔法で出して、魚を獲るんだ。あの時は釣りなんて知らなかったからな、かなりワイルドに狩りをしてたと思う」
「ふーん、数学は?」
「それは星見てた時くらいだな。一人で狩りをして、狼の群れと狩りをして、猿の群れを追い出された後。その時初めて人間に会ってね。そいつが、南方帝国でもかなりの知識人でさ。言葉を覚えたのもその時」
「狼? 猿?」
「ん? ああ、この話、人にするのは初めてだな。私、生まれてからしばらくずっと、一人で生きてたんだ」
「えっ、どういうこと? お父さんとお母さんは?」
「私も後から知ったんだが、どうも私のような魔物は、皆んな一人らしい。だから自分で食事を用意しなきゃいけないんだが、それも大変でね。群れで暮らす動物を見た時にこれだ、って思ったんだよ」
「一人でご飯食べてたの? なんか、寂しい」
「最初から一人だとそんな感情すら沸かないさ。むしろ、お前達こそいつも群れてて、鬱陶しくないのかって時々思う」
「エヴァリスタは一人が好きなの?」
「どうだろう。でも、群れの仲間になれば、色々分担できるだろ? そう言う意味では、一人よりは合理的だよな。まあ、こうして何年も何かの群れの中に居るんだから、何だかんだ私も誰かといるのが好きなのかもな」
「好きなんだ、良かった」
「不安になった?」
「うん。ねえ、エヴァリスタの昔話もっと聞きたい!」
「また今度な。さ、そろそろ中戻ろう」
エヴァリスタはネーエを抱きかかえたまま、部屋へと戻る。戻りつつ、遠い昔の事を思い出していた。狼の群れに迎え入れられるのにどれほど苦労したか、猿のボスに角が刺さった時にどれほど酷い仕打ちを受けたか。そして、あの結節点。首なしの遺体と首吊りの遺体。白骨化した群れの仲間たち。つまり、同族とのファーストコンタクト。
(色々あったな……色々。しかし、まだ始まったばかりですらある。自発的協力が利得を最大化させること。それすら知らない同族の無知蒙昧共。弱いから何だと言うんだ。弱くても人間は問題なく殺せるし、むしろ、弱いからこそ、人間とは協力する方が良いと気付ける)
「エヴァリスタ、その顔怖い」
「えっ、怖い?」
「うん。さっきの人みたい。その、誰だったっけ?」
エヴァリスタはネーエをベッドに降ろして、隣に腰掛けた。
「さっきの人? すまん、名乗ってこないから覚えてないや」
「違う、シュティムトの」
「ああ、フィオーレのこと?」
「うん、その人」
「彼女が怖かった? まあ急に押しかけちゃったしな。気を遣ってたんだろ」
「そうなの?」
「ああ。いつもは優しいお医者さんなんだぞ?」
「お医者さんって何?」
「皆んなの病気を治したり、怪我の手当てをしたりする人のこと」
「うーん、よくわかんない。偉いの?」
「ああ。偉いぞ」
勇作の世界では、とエヴァリスタは内心思う。帝国では医師の価値はずっと軽んじられてきた。さて、どうフォローしたものかと、考えをしばし巡らせる。
「なんていうか、まあ皆んなを助ける仕事なんだから、そりゃ偉いだろ?」
「確かに。凄いかも」
「だろ? あと、今、偉いかどうかで判断しないこと」
「えー、なんで」
「偉くなったり、偉くなくなったりするだろ? 今、偉い奴を探すより、これから偉くなる奴を探す方が大事」
「うん、わかった」
エヴァリスタは思う。事はそう単純でない。現在の社会的な評価に照らして、当該人物の価値は、割高か割安か。割高なら自身の評価を毀損しないように適当な扱いをすれば良い。一方で、割安なら何を噛ませて、その価値を実現してやるか。それは一つの賭けである。しかし、それが協力の醍醐味であり、本質だ。
(現に、シュティムトは私の想像だにしない所で活躍している。それが私の幾何学のアイデアを触発しさえした。ネーエ、お前も同じだ。魔法に関心のあるお前がどのような才能を見せてくれるか……)
(それが、魔物の生きるべき道を照らせば尚良い)
エヴァリスタの顔にネーエはギョッとする。魂が抜けたように無感動な表情を浮かべているのに、目の奥だけはギラギラと野心を湛えていて、ネーエはそれに強烈な違和感を覚えた。
「エヴァリスタ?」
ネーエが恐る恐る手を伸ばして、トントンと彼女の肩を叩くと、エヴァリスタはハッとして、慌てて彼女を抱き寄せた。
「大丈夫?」
ネーエは彼女の背中をさすってやりながら心配そうに呟いた。