彼女には通常、人間の女性が有する母性本能がない。機会があって、魔物に村を滅ぼされた二歳くらいの子どもを引き取っているが、子育てができない。作る食事の配慮が足らないし、愚図った時にすぐ駆け付けない。子どもの身体の異変に無頓着で、母親であれば考えられない程だ。そういった行為に対する私の指摘に対しても、口ごたえをし、反省がない。私が初めて子どもを連れて帰ってきた時に本人が言っていた事だが、魔物は子育てをしないらしく、現にされたこともないらしい。家族という概念すらそもそもないらしかった。
女の先導で二人は階下にある食堂に着く。白く大きな両開きのドアを女が開けて、中へ入った。奥行きのある細長い部屋に一台の食卓が置かれている。右手には、男二人女三人が奥から順に並んで座っている。
「おお! 初めまして!」
ドアが開いた事に気付いて、ガタッと音を立てて、一番奥に座る男が立ち上がると、鷹揚に両手を広げた。
「ようこそ、オイサースト領に」
エヴァリスタは黙って深々とお辞儀をする。ネーエはその所作を真似すべき事に気付くまでの間、もう片方の男と若い二人の女が驚いた目でエヴァリスタの頭の辺りを眼差しているのを気にしていた。
「ようこそ」とその隣の青年がネーエのお辞儀に合わせて立ち上がって言った。その後、合図があったかのように隣の女が立ち上がって、黙ってお辞儀をする。
「ほら、あんたたちも」頭を下げたまま、小さな声で隣の少女を嗜める。二人の少女は慌てて立ち上がった。一番手前の幼い少女が、「ようこそ」と言いかけてから、急に口籠った。
「いや、驚きました、まさかこんなお美しい女性だったなんて。この地方では聞き慣れない御名前なもんですから、恥ずかしながら男性かと思っていましたよ」
手前の四人の後ろを歩きながら、さながら演説するような口調で男は語った。エヴァリスタの前まで来て、自分の名前を伝えると、握手を求めるように手を差し出す。彼女がそれに応ずると、ニッコリと笑顔を作った。
「お嬢ちゃん、お名前は?」
笑顔を浮かべたまま、今度は膝を折って、先ほどより高い声でネーエに向かって尋ねる。
「ネーエです。その、宜しくお願いします」
「ああ、宜しく」
「とりあえず、食事にしちゃいましょう」男はエヴァリスタに向かってそう言ってから、ドアの前でエヴァリスタの後ろに立っている女に向かって「ほら、ぼさっとしてないで早く配膳なさい」と言った。
男の指示にビクッと肩を震わせて、慌てて部屋の奥にあるドアから出て行った。
「さ、おかけになって」と男が促してから、エヴァリスタが卓に向かう。それを見て、ネーエも後に続いた。ネーエが座るまでずっと、四人の男女はテーブルの前で突っ立っていた。
「すみません。私の家族を紹介しましょう。隣から、息子のフリードリヒ、妻のマルガレーテ。そして、娘のエリザベトとカトリーンです」
「もうご存知かと思うが、一応。エヴァリスタとネーエだ」
「ええ、もちろん。それにしても、ドワーフには逞しい方が多いと聞いてはおりましたが、女性までそうだとは。あ、いえ、体型の話ではありませんよ」
エヴァリスタは特に何も応えず黙っていた。気を遣ったのか、長女が「パパ、サイテー」と言った。
「こ、こら。エリザベト。お客様の前だぞ。ハハ、すみません。エリザベトは十四にもなるのに未だ相手が見つからず、ちょっと問題がある娘なんです」
「男なんてバカばっかだし。結婚なんて尚更バカみたい。ネーエさん、でしたっけ。良い事、男なんて碌な奴がいないんですから」
「姉さんはだから結婚できないんだよ」
「何ですって!?」
「まあまあ、エリザベト、落ち着きなさい。それにしても、厨房は何してるんだ」
「確かに、遅いですね。ちょっと見てきます」
「マルガレーテ。君が行くとつけ上がるだけだ。僕が行くよ」
彼は妻を制止して立ち上がると、先程女が消えたドアを開けて部屋から出ていった。
「エヴァリスタさんは、何でウチになんか来たの?」
「口の聞き方には気を付けなさい。カトリーン」
「えと。エヴァリスタ様、この度のご宿泊はどういったご事情でいらっしゃるのでしょうか」
「フリードリヒ、エリザベト」
ケラケラと笑う両隣の子を諌めて、ハアと思わず溜息を吐く。
「ふふ、私は別に貴族ですらないんだ、言葉遣いはあまり気にしなくてもいいよ。大陸中央部の未開発地を使ったプロジェクトがあってね。私が起案して、政策の実行まで主導したんだ。とりあえずは法案が可決したんで、そのお祝い。宮廷と私の住んでいる村からちょうど良い場所がここだったのさ」
「エヴァリスタさん、すみません。この子達には難しい話だったみたい。私にも、少ししか……」
「いや、簡単な話だろ母さん」彼は得意げな顔で話し始めた「エヴァリスタさんの案を元に、帝国が動いったって事。凄いんだぜ、エリートたちが民衆の良いアイデアを取り入れて、具体的な法律を作るんだ」
「へえ、執政官になりたいのか?」
「あ、はい。だから、勉強頑張ってんです。意外と詳しいんですね、政治の事」
「はは、まあね」
「エヴァリスタさんは、結婚とかされてるんですか?」長女が口を開く。
「えっ、してないけど」
「ええ?! 美人なのに。ドワーフって見る目がないのね。ほら、ママ聞いた? エヴァリスタさんですら独身なんだよ? 私が別に独身でも良くない?」
「そんな事はパパに言ってちょうだい。すみませんね、躾がなっていなくって……」
「良い加減にしろ!」怒鳴り声が壁の向こうから、食器の割れる音と共に聞こえる。
「言えると思う?」と母親に向かって呆れるように笑った。
ドタドタと駆ける音が聞こえて、父親が部屋に戻ってきた。怒鳴っていたとは思えない穏やかな表情で、エヴァリスタを見ると、困ったように笑った。
「すみません。お待たせしてしまって。彼らにはキツく叱っておきましたから、明日からは大丈夫です」
「気にしてませんよ。それより、息子さんは将来、執政官を目指されているとか」
「そうなんです。しかし、勉強は見ての通りからきしで。そうだ、エヴァリスタさんは確か、アカデメイアで教鞭を握られていたんでしたっけ?」
ゆっくりとした足取りで、席まで戻りつつ彼は話した。
「いえ、リュケイオンです。なに、片手で数える程、要はゲストですよ」
「十分です。どうか、時々で良いのですが、彼の勉強をみてやってくれませんか」
「いいよ。一人で勉強する。できないって言ったって、基本はマスターしてるから」彼は目の前の女性に気を遣って、父親の提案にすかざず口を挟む。凡俗な子ども向けのお勉強とは訳が違うのだ。
「そうか。すみません、プライドだけは一丁前なんです。ハハ、十歳の少年なんてそんなものなんでしょうがね」
「エヴァリスタ」ネーエが彼女の袖を左手で摘んで引っ張る。ネーエの顔は不快に翳っていた。
「ネーエさん、嫌がってんじゃん。ねえ! 食事はまだ!」
バンとテーブルを両手で叩いて立ち上がる長女。聞こえたのか、ドアが開いて、エヴァリスタが城に入る時に居た少年が料理を抱えて入ってきた。その後ろで女がドアを押さえつつ、早くしろと小声で叱る。少年がドアを通るなり、彼女は主人に身体を向けて、ペコリと頭を下げた。
「すみません。こいつが調理に失敗してしまって……」
「もう遅すぎ! ていうか、何でお前は手ぶらなんだよ」
「エリザベト、暴言はよしなさい」
「パパもさっきワーワー怒鳴ってたじゃん」
「あれは必要な躾だ」
「躾ですって? じゃあ私のこれも躾けたってこと」
「はあ、姉さん。大人になれよ。子どもみたいな屁理屈言って」
「なに、あんたには話してないんだけど?」
その冷たい声に皆が黙った。少年はおどおどしながら、エヴァリスタの目の前に料理を置いていく。ぶるぶると手が震えていて、今にも落としてしまうかのようだ。整えられていない太い眉毛がグニャっと曲がっていて、額には脂汗をかいている。配膳にも慣れず、目線が手元にばかり集中していた。
「カチャカチャ五月蝿いぞ。もっと、行儀良く運びなさい」
「えっ、あっ、えっ」間抜けな声と共に手元と主人とを見回して狼狽のあまり、遂に溢してしまった「ああ! す、すみませんでした」
「エヴァリスタ、もう行こ。ここやだ」ネーエが叫ぶように言った。
「何やってんだ! もう。エヴァリスタさん、お着替えは大丈夫です?」
「いえ、汚れてませんから。それより、ちょっと、外に出てきて良いか?」
「えと、お食事は……」男はエヴァリスタの顔色を伺うように尋ねた。他の誰もが黙って緊張に表情を強張らせている。
「外で食べてくるから良い」
「す、すみませんでした! どうか、執政官にはこの粗相を……」
我に帰ったと言えば良いか、夫人も立って何も語らずに腰を折った。
「はあ、良いですからそういうの。じゃ。ネーエ、行こ」
エヴァリスタはネーエの手を取って、その場を後にした。
*
城を出て街道を歩く。良い店がないか、確かシュティムトの家は酒場だったはずだと、道中で他のお店を探しつつ、そこを目指す。
「ありゃやばいな」エヴァリスタはネーエの不満げな顔を見て笑いながら言った。
「あそこ嫌い」
「でも、お姫様が二人も居た」
「誰?」
「あのネーエの向かいに座ってた女の子二人」
「ええ、あんなのお姫様じゃないよ」
「あのバカそうな男は王様だぞ? そっちの方が信じられん」
「あれは裸の王様でしょ」
「あー、こないだ私が話したやつ?」
「うん」
「ハハ、確かに。あいつはダメダメだな」
「あと、あの男もムカつく」
「あの汚いガキの事か?」
「そっちじゃない。あのハダカの隣座ってた奴。エヴァリスタの事バカにしてる感じだった」
「ああ、彼ね。まあ、大抵そういうもんだぞ?」
「そうなの?」
「そういうもん。そういや、あいつら私の事ドワーフだと勘違いしてたな」エヴァリスタはそう言って笑った。ネーエも思い出して、ようやく笑顔になった。
「今度、同じ事したら私がぶっ飛ばすから」ネーエは片腕を虚空に突き出して笑顔で言う。
「コラコラ」とエヴァリスタは笑う。
丁度、図書館の前に差し掛かった時、ネーエがそれを見上げようと立ち止まった。
「あんなお城よりずっと立派」
「あのハダカが建てたらしいけどな」
「たぶん嘘」
ネーエが図書館に夢中の間、エヴァリスタは背後の真っ直ぐ伸びる道を見た。街に入れる唯一の門はこの先にある。まるで初日とは思えない程、色々な事があった。暫く見つめつつ、考えを巡らす。そういえば、この道にはどんな店があったか。
(こっちに行って店を探すべきか、シュティムトの家に向かって真っ直ぐ進むべきか。大通りには店がありそうだし前者かな。しかし、ゴールがないのもそれはそれで困る。いや、ネーエを酒場に連れてくのもな……)
「あ、居た」と声が聞こえて、エヴァリスタは思考をやめてその方を見る。
「あ? あれ、ミリアルデじゃないか」
ミリアルデはゆっくりと彼女へ近付いて、顔がお互いに確認できる位置で立ち止まった。
「名前覚えてたんだ。結構探したんだけど。どこに泊まってるの?」
「ああ、この奥行ったとこ」
「うん、小汚いお城」
「こら」とエヴァリスタがしかる「そういや、ネーエは初めましてだったな。挨拶しな」
「こんばんは。ネーエです。エヴァリスタは……私のお母さん、です」
「ミリアルデ。よろしく」彼女はネーエを見下ろして言った。
「ええと、彼女はビーアの村で会った知り合い。今は大陸の中央目掛けて旅をしてるんだ」
「へえ、すごい。遠いの?」
「ああ。馬車でゆっくり旅してたら半年はかかるんじゃないか?」
「だいたいそれくらいね。ねえ、それより城に泊まってるって本当?」
「そうだな。ここの領主の城だよ」
「どうしてそんなところに?」
「え? ああ。私はこう見えて結構偉いからな。あんま良くないんだろうが政務官みたいな仕事してたし」
「ふーん。帝国の事は良くわからないけど、やっぱり君は危険だね」
「いや、実は大した事ない。全然偉くないから」
「別に殺さないから」
「コロ、え? エヴァリスタ、死んじゃダメ!」
ネーエは咄嗟に矮躯を精一杯伸ばして、エヴァリスタの腰の辺りに抱きついたが、自分の背がエヴァリスタを庇うのに十分でない事を思い知らされて、恥じらいを隠すために顔を埋めた。
「ネーエ……」
「その顔。どういう事なの?」
「え?」
エヴァリスタは何を言っているのかわからないという風情で、ミリアルデを不思議そうに見つめる。
「なんでもない。あなたに用があって、ここに来てるって聞いたからずっと探してたの。城に泊まってるなんて思わなかったから」
「そっか、すまんな。あと、腹減っててな。用件を聞くのは飯食ってからでもいい?」
「まあ、いいけど。城ならご飯くらい出るんじゃないの?」
「ちょっとトラブルがあってな……」
「最悪なんだよ、あの家!」
「ま、何でも良いけど。来た道に良さそうなお店あったけど、そこにする?」
ネーエが勢い良く顔を振り向けて叫ぶのも意に返さず、ミリアルデはエヴァリスタに向けて言う。
「おっ、ナイス。もしかして、ミリアルデもまだ?」
「そうね。最近は魔法もあまり使わないし、そんなにお腹減ってないけど」
「まあ、そう言わずにさ。私が奢ってやるから」
「じゃあ食べるわ」
「ミリアルデは今日泊まる宛あるのか?」
(へえ、金欠なのかね。それも、魔法の使用を控える程には)エヴァリスタは探るような目をしつつ、そんな事を考えた。
「……城は?」
「やっぱり。これ、中に金貨四枚入ってるから宿探せよ。金ないんだろ?」
「こんなに貰えないわ。君は大丈夫なの?」ミリアルデは金貨を手に取ってから、わざとらしく彼女に尋ねた。
「普段使うような所で生活してないし、処分に困ってんだよね。この街、確か門の近くに両替やってる商人が居たから、そこで銀貨にでも替えてもらってくれ」
「ありがとう。やっぱり持つべきものは金持ちの友人だね」と彼女は自然と口元が釣り上がるのを必死に堪えながら、上擦った調子で言った。
「なんだそりゃ。で、どこにあんの?」
「うん。確かすぐそこだから。着いてきて」
ミリアルデは身体を翻すと、自分が来た方の道を指して、着いてくるよう合図した。二人も了解して、彼女の案内に従う。ゴツゴツした石畳を足に感じつつ闇夜に包まれた街を歩くのが、ネーエには一世一代の悪戯を仕掛けているようにすら思えてきて、興奮に心が躍った。