森の中を闇雲に駆ける。人間では到底追いつけぬ速度で。木が目の前に来る度に、何れかの手で払いそれを薙ぎ倒す。その反動で進行方向を変え、また直進する。特に意味のない移動。こんなことをしたのは、生まれて初めてだった。
(何なんだあいつは。もう参ってたのかと思いきや、急に立ち上がって、あんなことを言って。どうせ脅しに過ぎないとでも鷹を括ってたんだろうから殺してやったが)
しかし、どうだろうか。先ほどのスザンヌがそんな勘違いを起こすものかと、エヴァリスタは考え直す。先ほどからずっとそうだ。自分の都合の良いように解釈して、それはおかしいと却下する。さて、目の前に木が迫る。彼女はタイミング良く跳躍し、今度は右に向かおうと左手を右胸に引き寄せ、叩く準備をする。そこをちょうど鳥の群れがバサバサと飛び立ち、エヴァリスタの視界を遮った。彼女は敢えなく木に突進した。
あまりの勢いに木が砕け、勢いを殺されたエヴァリスタは地べたに叩きつけられた。折れた木の下で痛みに喘ぐ、同時に悔しさが込み上げてきた。「そうさ、私は弱い」広大な森でただ一人。誰に言うのでもなくポツリと溢した。
(しかし、だからこそ、知性こそが力をも服従させると証明せねばならぬ。偉大なる
だが、と彼女の思考を取り巻くスザンヌの糾弾が続く。
(お前は獣性から逃れられやしない。その身体から逃れられやしない。だから弱いくせにそんな手の込んだやり方で私たちを襲ったのだろう?)
(お前の言う理性とは自らの野蛮を正当化する弁術にすぎない。お前がグレゴールに言ったのと同じだ。理性とは真理へと至る最良の手段だとして、お前はそれを目的と取り違え、真理から遠ざかってしまった。お前と彼ら。一体何が違うと言うのだ? 獣性に従って精神を行使するか身体を行使するか、それだけの違いしかお前らにはないではないか)
「馬鹿馬鹿しい。ただ人間を殺しただけだ、そんなことは人間が猪を殺すのと同じだ」
(さて、どうだか。お前の思うようにすればいい。雑魚だとバカにされた腹いせにご大層な演技まで添えて人間を殺す。挙句の果てには、ヤケになって森の中を当て所もなく彷徨う。素晴らしい、理性とは本来こういうものを虚飾するためにあるのだと、お前は認めるんだね)
「くそっ、埒が明かないぞ」と悔しげに地面を叩くと、彼女は逃げる様に、持っていた袋から本を取り出した。こう言う時は、本に集中して気が散るのを防ぐに限る。
(へぇ、その本。人間を襲って奪い取ったのか。
本を取り出したは良いものの、一向に読む気にならない。一方で、しまう気にもならなかった。そうやって愚図ってると、ポツリと水滴が頭を打つ。続く水滴が、彼女の身体を何度も打ち、彼女が濡れるのもどんどん早くなった。エヴァリスタが急いで本を袋にしまうと、空が白く光ってゴロゴロと音を鳴らした。それに合わせて、雨足はどっと強くなり、瞬く間に彼女の全身を濡らした。
(結局この身体が濡れるのに併せて冷感し、気分を凍らせていくように、私の理性もまた、この身体の感覚に影響せられているのではないか。野蛮な本能が私を駆り立てる。これもまた同じように、私の知性を操作している)
彼女は豪雨の中、森を駆けつつ考える。どこか雨除けになる場所を探し、暗闇の中を駆けた。バシャバシャと歩を進めるたびに土が跳ねて、足が汚れた。それが彼女には堪らず不快だった。まるで世界が、彼女を呪っているかの様に感じられて、自分の情けなさに顔を歪ませた。まるで、顔中を濡らす雨が、人間の涙のようだと、エヴァリスタは思った。
(雨に打たれれば逃げ、同族に虐げられれば逃げ、遂には人間からも逃げ出した。私はあいつの言葉を聞きたくなかったがために殺した。負けだ。フォルカーのやつは、私のことを劣等存在と評した。あの男は私を臆病者だと、雑魚だと言った)
彼女が走りながら耽っていると、ぬかるみに足を取られて転倒した。身体中を泥で濡らし、無様にも両手を広げて倒れ込む自身を想像して、諦めた様に仰向けになった。背中までも泥で汚れたが、先ほどまで感じていた不快感なぞとうに忘れ去っていた。どういうわけか笑いさえ込み上げてくる。
(全くもってその通りだ。力で御すことを拒むのは相手が自分より強いから。結局、ただの逃避だ。計画なんてものはもう辞めだ。何を使おうと弱いものは皆死ぬ。だからそうならないために、自らの尊厳さえかなぐり捨てて強者の下に跪かねばならない。しかし、それを拒んで何か新しい関係を打ち立てようとすることすら能わぬのか。そう願うことさえ、弱いものには許されぬのか)
木々の合間を覗く夜空からやってくる雨。それに打たれながら、空に向かって、手を伸ばした。意図などなかったが、彼女が手を伸ばし切ると、再び、空が光り雷鳴が轟いた。それが応答であると、無性に解釈したくなった。
暫くそのままにして、やがて、起き上がると、トボトボと歩き始めた。雨が彼女の纏う泥をゆっくりと落としていく、その様をなんとなしに知覚しながら、俯きがちに、時々左肩に視線を送るように首を曲げるが、特に焦点をどこに合わせるというのでもなかった。別にどこに向かおうというのでもない。そもそも、私はなぜ先ほどまで雨に濡れまいと必死になっていたのだろうか。皆目わからぬ。木々は聳え、何の導きもなく、彼女の周囲を囲っている。それを縫うように、泥だらけになった足をゆっくり動かして、エヴァリスタはなんとなく進む。右肩に掛けられた麻袋の重感を噛み締める。何故普段はああも自然にこれらに無感だったのか。
(これは逃避だ。しかし重要なことだ。今考えるべきはこんなことではないが、今考えねば失われてしまうような類のくだらない反省だ。つまり、本能とは何だ。抑制し得ぬものの虚飾にこの語を当てるのは、私に通底する欺瞞そのものではないのか。同じく、獣性とは理性とは。そもそも、真理とは何か。改めて、その根底からひっくり返されねばならないのではないか)
ふと、目の前に崖が現れ、彼女の思考は中断された。気付けば幾分開けた場所に来ていたらしい。崖の上には木が居並んでおり、未だ森の中ではあるのだろうが、彼女には自分がどこに来てしまったか皆目見当がつかなかったし、別段の関心もなかった。ざっと崖の周りを見渡すと、右手に楕円の口を広げた暗がりが見えたので、何の気無しにそこへ向かう。どうやら、小さな洞穴らしい。エヴァリスタの身長ではほとんど座った状態でなければ歩くことすらままならない程の背も低く、その浅い穴。雨除けを探していたのだったなと、彼女は穴に入ると、荷物と共にゆっくりと腰を下ろした。
*
夢を見ていた。そのことに気付いて、エヴァリスタは重いまぶたを開ける。どういう夢だったのかは思い出せないが、きっと良いものではなかったろう。外の強い光に誘われて、寝惚けた目でそちらを見る。どうやら、雨は止んだらしく、陽光に照らされて、昨日まで黒々と沈んだ色をしていた木々は、青々と穏やかな色に変わっていた。そのことには特に感慨もなく、視線を戻すと、目の前に人間の男がいる。三十歳くらいだろうか、あまり見ない顔立ちの不思議な格好をした男。男は、向かいの壁に寄りかかって、寒そうに腕を組みながら、渋面を作って寝ている。
(濡れている、ということは、昨日の雨に当たったのか。それにしても、何だこの格好は。私の知識の埒外とあれば、北方、いや、グレゴールの記憶にある帝国を自称する新興の軍事国家の人間か? いずれにせよ、身分の高いことは明らかだ。寝ているし、今のうちに逃げておく方がいいな。さて、記憶でも拝借してさっさと)
エヴァリスタはスッと手を翳し、魔法を発動した。何を読むべきか一瞬迷ったが、早々にこの場を立ち去りたいと考え、いつも読む地理情報を選んだ。もちろん、魔法は正常に作動した。まず、彼の記憶に残る地図が彼女の識下に入ることになっている。
「なっ、なんだこれは、っ?!」
驚愕の余り思わず大きな声を出してしまい、慌てて口を押さえる。男にも聞こえたか、うーんと唸りながらモゾモゾと動いたが、すぐに動かなくなった。彼女は自分のバカさ加減を呪いながらも、興奮冷めやらぬ様子で、一瞬生じた後悔もすぐに霧散した。そもそも、こうしている内にも、魔法は未だその発動を続けたままで、エヴァリスタの識下には、彼の認識する地図なるものが無数に映じられている。
(こいつ、「地図」だけでこれだけの記憶を? そもそも、こいつの持つ地理情報が私の、いや我々のものと全く違うではないか、これは……どういうことだ? まて、これは何だ? 小型の平板を動かして……これが地図なのか? そもそも文字から何まで、まるでデタラメじゃないか。何が起こってる?)
エヴァリスタはこの場から立ち去ることも忘れて、再び元の場所に荷物を置いて座り込むと、思案気に男の顔をマジマジと見つめながら、作動する魔法から流れてくる情報を咀嚼する。
(こいつの服装。こいつの記憶。それに、あの靴。何だあれは馬鹿げた技術だ。ドワーフの熟達した職人が作ったにしてはチャチだが、そうでないにしてはあまりに技巧的に過ぎる。記憶に矢鱈出てくるあの平板、いや回数こそ少ないが紙の地図こそ重要だ。あれが紙か? どんな製紙技術を以てしてもああはならん、それに誰があの紙にインキで精巧な地図をプロットした?)
(ああくそ、楽しんでいる場合か? しかし、こんな面白いことにはそうありつけたもんじゃないぞ。さて、やるからには一旦落ち着こう。先ずは言葉だ。おそらくこいつは私とは全く違う言葉で生活している。こいつの記憶を十分に利用するためには、先ずはそれを理解しなければならない)
彼女は一度魔法を中断し、再度同じ魔法を唱える。目的とする情報を特定しない魔法の行使は、彼女にとって初めてのことだった。
(なるほど、こいつらは名詞を変化させず単語によって格を示すのか。何とも奇妙な。しかし、こいつの記憶の断片を見ていくと、あの平板、紙、靴等々は高度な技術に依るものらしいな。数学は、よくわからないが、こいつが二十歳にも満たない小僧の時から、私の知らない幾何の定理を扱わされるくらいには研究されている。そもそも、非幾何的な、そう、『算術』のようなやり方を更に発展、独立させたような手法が支配的で、興りからして全く異なる可能性があるな……何より記法の簡便さ。なるほど、このように記述すれば幾分見通しが良くなるのか、全く感心させられる)
一つ一つ丹念に記憶を覗き、それら断片を構造化し体系として吸収していく。魔族の中で彼女ほどこの才に長けた者も、またそれを磨く者もいなかったし、これからもいないだろう。さて、どこまで行けるか、彼女がそう意気込んだところで、男が目を覚ました。
「いってぇ、何時間寝てたんだ、あっ、どうも」
岩肌に身体を預けて眠ることなど経験のなかった男は、痛そうに顔を歪めると、少し離れたところで自身に向けて手を翳す女性に気付いて、軽く会釈をする。その記憶で何度か見た、今までの人間には見られない所作にまるで答え合わせをするような感覚を覚え、エヴァリスタはクスリと笑って、彼にも通じる言葉でこう言った。
「こんにちは。ユウサク、だったかな? お前の記憶を見たんだが、実に面白い。お前も困惑していることだろうから、私のわかっていることから説明してやる」
男は困惑にまた顔を歪めた。