東京駅を行き交う電車が音を立てる架道橋の下を、日本橋へと向かって、二人の男が歩いている。夜八時。二軒目の居酒屋を探して、賑やかなお店の多い場所まで向かう道中だ。片桐勇作は、大学の部活以来の友人、鏑木と一年ぶりにこうして肩を並べて歩いている。
「おい、だからお前と小洒落た場所で飲むのは嫌だって言ったんだ、あんな飲むか?」
「おま、どーゆーことだ、それは。大体寒いから鍋が食べたいなんて言い出したのはお前だろ?」
「別に鍋が食いたいと言っただけで、ギラギラしたビルの地下を指定したわけじゃねぇよ」
「あそこが一番近かったんだ」
「あのな、だったら飲む量を考えろよ、っていうか鍋食いに行ったんだから食を楽しめ食を」
「はー! ヤニカスが食を語るかね。おい、ってか道合ってんの?」
「直進してりゃ着くよ」
勇作は片手に持ったスマホをチラと確認し呆れの混じった声で言った。金曜の夜だというのに、忙しなさそうに歩く同い年くらいの背広を着た男性とすれ違った。その後ろには、熟れた足取りでコツコツとヒールの音を鳴らす女性が見えて、スマホを片手にせかせかと歩いている。そうやって視線を前へと促せば、同じような人間が五万といるだろう。
「なあ鏑木。俺らこれからどうなってくんだろうな」
「は? どうした? 転職でもしたくなったか?」
「いいや、そりゃねぇけどさ」
「なら大体わかんだろ。俺らもう三十だぜ? 後先見えてるっつーか」
「ああ、つまらない後先がな」
「だが安定してる。これだけで贅沢なもんだぜ? 親父の高校時代の友人なんか」
「また、その話か。もう何回も聞いたぞ、しかしなぁ、こう決まり切ったレール、ってのもつまらないってな」
「はぁ、贅沢な悩みだねぇ。少年か? いやしかし、片桐。今までレールに乗っかってきた俺らが言うことじゃねぇわ。ああでも、お前は今彼女いないのか。片桐! 人生三十年にして、脱線の危機ってな! はは」
「はあ、全くだな、結局独身貴族だなんだと言われる時代じゃあ、一生独身ってのが肩身狭いのは変わらんわな」
「おいおい、それどころじゃねぇぞ、いまやお役所総出で結婚しろ、子ども生めだ。そうしなきゃ非国民! ってな」
「別に国もそんなことまでは言ってないだろ。あんま変なこと吹聴してると沢田に怒られるぞ」
「あー沢田、沢田ね。あれ、あいつ結局官僚になったんだっけ?」
「そ。しかも厚労省。あいつに今のが聞かれたら、お前こそ非国民だ! って言われるかもしれないぞ」
「ははは、まあ聞かれなきゃ問題ない。霞ヶ関はお忙しいですから、こんな時間に日本橋なんかではまず出くわさない、おいこの信号渡ったら曲がんの?」
「うーんどっちでもいいな、まあ曲がっとくか」
勇作がそう言った矢先、信号が点滅を始めたので、二人は小走りで、大きな横断歩道を渡った。
*
「なあ、さっきの話だけどよ」
二軒目の居酒屋に入って、ビールを注文。適当に乾杯を済ませ、お互いに酒とお通しを一口ずつ口にしたタイミング、微妙な沈黙を最初に破ったのは鏑木だった。勇作は沈黙で彼に話の続きを促す。
「いや、一軒目の話なんだけどさ、その、優秀な奴ほど辞めてく、っての?」
「ああ」
「正直最近よくわかってさ、なに、ベンチャー行ったりコンサル行ったり起業したりするやつ、っての?」
「はあ、意外だな、俺より早くそういうの諦めたろ」
「なに、入社半年以内か一年以内かの差だろ。まあ聞け。俺らさ、一応、毎日定時で帰っても何の問題ないじゃんか」
「ああ」
「しかも稼ぎも悪くない、ってか時給換算じゃ、先進国中どこ見ても俺らほど高待遇な奴なんてそういない」
「まあな。何もしなくても会社はインカムで食ってけるんだからな。投資ビジネス様様ってやつだ」
「でもよぉ、いざ結婚ってのを目の前にすると、このまま他人に人生預けていいのかって、やっぱ考えるわ。俺は何の為にオジュケンからシューカツちゅーの乗り越えてきたんだってな」
「はは、よく聞く悩みだな。でも、そりゃ誰だってそう思って、思いながら人生を消費していくもんじゃないか?」
勇作がそう言うと、鏑木は小さく頷いて、一瞬ためらう様子を見せてから、また口を開いた。
「そこで、転職ってわけだ」
「えっ、なにお前転職したの?」
「いや? 正直、こんな楽園みたいな会社他ねぇし、しないけどさ、冒険するやつの気持ちもわかるってかさ」
「さっきその冒険を否定したのはお前だろ」と言うのを飲み込んで、勇作は黙った。
「学生の頃はさ、あんだけ部活頑張って、キャリアもそういう風にって意気込んだもんだよな。でも存外俺らも自分に甘かったってわけさ。俺もお前も挑戦への欲求はあっても、怠惰の方が俺らを惹きつける。まあ、怠けるだけなんざ誰だってできる」
鏑木が話し終えたのに合わせて、勇作はテーブル脇に置いていた箱からタバコを取り出して吸い始めた。
「なあ、せっかくの華金なのに暗い話ばっかじゃねぇか。おい、鏑木、お前今の彼女とは最近どうなんだよ。結局、結婚すんの?」
勇作は声を少し高くして、固くなった表情をほぐすように口を大きく動かす。彼の顔を見て、鏑木はニカッと口元を釣り上げて「それがさ」と応じた。
*
結局、終電まで飲んだ。勇作は駅で鏑木と別れ、今は吊革を掴んで、電車に揺られている。飲み過ぎたな、と明日のことを考え少し憂鬱になる。やがて、目の前の席が空いたのでそこに座った。だいぶ眠い。やはり立っていた方がいいだろうか、三鷹までだぞ。そう思い直してやめた。
そうだ、あの時眠ってから俺は一人だったんだ。森の中を彷徨って、日没を何度経験したかもわからない。急な土砂降りに、偶然見つけた洞窟。そこに、人がいた。勇作はカバンからタバコを取り出して火を点けた。
(贅沢な悩み、だな。確かに俺らの生活なんてのは相当な贅沢な上に成り立ってたんだな)
フゥと肺に溜め込んだ煙を吐き出す。随分久しぶりに吸ったからクラクラした。
(冒険ってのもここまでラディカルなもんだと地獄だな)
ふと、洞窟の相方に目を向ける。暗くてよく見えないが女性だ。頭からツノのようなものを生やしているのがぼんやりと見えた。不思議に思ったが、それよりも全身泥だらけになっていることの方が目立った。
(まあ、明日にはお別れだ。こんな森の中、行く先もないヤツなんて俺以外にいるわけでもあるまい)
短くなったタバコを地面に押し付け火を消すと、胸ポケットに入れていた携帯灰皿に押し込んだ。疲れていて、眠い。そう思って、目を閉じてそのまま寝た。
*
森の中、自然に出来た開けた場所にポツンと一軒家が建っている。見上げれば青空が見渡せる日に、エヴァリスタと勇作は外の広場に出て、太陽の光を浴びている。
「なあ、何でこんなよくしてくれるんだ?」
バサバサと服を振って皺を伸ばしながら勇作は呟くように言った。森の奥での生活にも慣れてきた。話しかけられたと思ったのか、隣で椅子に座っているエヴァリスタが彼の方に顔を向けると、ニヤリと口角を上げて口を開いた。
「言ったはずだろ。私にもメリットがある」
そう言って、座ったまま体を捩り、軽く首を回して親指で後ろを指すと、「この家だってお前の記憶から盗んだイメージだろ?」と言った。確かにそうだ。勇作の記憶は役に立つ。
「ああ、計画だろ? なあ、教えてくれないか、その計画ってやつ。恩だってあるんだ協力するぞ」と物干し竿に袖を通しながら勇作は言う。
「お前に話す義理はないし、協力も不要だ。そもそも、お前ら人間はすぐに死ぬ。私の計画が長期に亘る以上、長くて数十年程度のお前の協力など要らぬ」
「それより」とエヴァリスタは手元に持っていた紙を勇作へ掲げる。「加速度ってやつが正に二回微分と対応すると思って整理してみたんだがどうだ? もちろん、時間から位置への函数のな」
「すまん、物理は詳しくないんだ。まあ、確かに微積分が関係あるってのは聞いたな。なあ、会ってからずっと数学ばっかやってる気がするぞ」
「これも計画の一端さ。もっとも、これが目的の実現に本当に寄与するかは私のコントロールできる事象ではないがね」
「それは計画ってか博打だろう。いいのか? 時間を無駄にするかもしれないんだぞ」
「計画は長期だと言っただろう? 計画などというものは、緻密に設計されればされるだけ、時間に対する脆弱性を増すものさ。それに、私には膨大な時間がある」
「はあ、そうだった。まさかその角が本当に生えてるとはなぁ。そういえば、人間を喰うんだっけか」
「私はあんまり。何度か同族と人里を襲ったことはあるが、食べない奴も結構居たぞ」
「は? 食べないのに何で殺してんの?」
「何を驚いてる。狩られる側には理解できないだろうが、私たちにとっちゃ別に普通のことだ」
「待て待て。それはそうだが、そうなると少なくとも君はおかしい」
「何が言いたい?」
「内緒。でも、数学に関心がある時点でだいぶ変だとは思うが」
「なんなんだ。ま、私は同族と確かに違う。あいつらの多くは全く頭を使おうとしない。それこそ、数学なんてのは、人間に教わらねば決して出会うこともなかったな」
「いや、数学に関心ある奴なんて人間でもそんな居ないって話なんだけどさ。まあいいや、ってか人間に教えてもらったのか?」
「ああ。歩けるようになって直ぐだな。小さな村だったが、そこの長は街の生まれでな。お陰で本には恵まれたんだ」
「まさか、殺してないだろうな?」
「一人残らず。言っておくが、私の狩りは他の奴らのとは違う。人間の方から迎え入れるように周到な準備が為され、次の狩りを想定した情報収集を並行つつ、信頼を得た最高のタイミングで実行されるんだ」
勇作には、殺人の話をする時の彼女が大変高揚していることに、強烈な隔意を覚えざるを得ず、それがまた彼を黙らせた。
「その点お前は楽だ。私がいなくなればお前は飢えて死ぬ。わざわざ苦労して信頼を勝ち得てやる必要もないってのは素晴らしいな」
本来、冒険というのは自身の破滅の可能性に開かれている。どれだけ計画されたものでも、登山という営みがどれほどの遭難者を出したのかを考えればわかることだ。結局あの時の自分達は、冒険っぽいものに憧れていただけで、決まり切った軌道を辿ることへの志向を脱せず、飽くまでそのレールの上で切り替えるかどうかを倦んでいたに過ぎなかったのだ。