ネーエが落ち着くまで待ってから、エヴァリスタは彼女を抱えたまま家に向かった。彼女の歩幅ではすぐに着く。ネーエには見えなかったが、先ほど木々の影から顔を覗かせた家はもう目と鼻の先だ。
彼女は軒先まで辿り着くと、ネーエを抱える手を片方だけ離して、ドアに手を掛けた。ネーエが彼女の肩から少し鼻を浮かせると、木を削った後の匂いがする。自分の住んでいた家の匂いと似ていてどこか懐かしく感じる。ギィと音がして、ドアを開けたのだとわかった。
エヴァリスタが中に入っていくのを感ずると、ネーエは顔を上げて辺りを見渡した。
家はその内容を入口から一望できるほど簡素で、ドアから右手にかけて広い。左手には大きな机があり、紙や本が雑然と積み上げられており、二峰を形成していた。その谷底に当たるところの前に椅子が置かれていて、そこで作業していることが察せられた。向かう壁の奥には、左から真ん中の辺りまでに天井ほどの高さの本棚が置かれていて、これもとても整頓されているとは言えぬ乱雑さで本が並んでいる。
一方で、真ん中から右手奥までは極めて整然としており、無骨な煉瓦の台に被せられるように載せられた白い板には、さまざまな器材が並んでいる。その手前には四席用意されたテーブルが据えられていて、それが食卓となっていることがわかる。
しかし、分けてもネーエの気を惹いたのは、右手と左手の境界をなすように置かれたベッドだった。何故こんなところに置かれているか、というのでなく、単に大人の男がシーツに包まって、彼女たちに背を向けて寝ているからだ。
エヴァリスタの方は、ネーエが部屋を見回しているのを黙って待って、ドアを開けた方の手で彼女の髪を撫でている。やがて、ネーエの首の動きが落ち着いたので、そっとネーエをその場に降ろすと、近くにあった本を適当に取って、彼女に渡す。「ごめんな。ちょっとだけ待ってて。そこら辺の本は適当に漁ってくれていいからさ」と奥の本棚を指差すなり、ベッドの方へと向かって行った。
「おい、ほら、起きろ」と男を包む布を引き剥がす。やはり、先ほど村で聞いたとおり、シュティムトは帰ってきていた。彼は眠りを邪魔されて、渋面を作って、重たい口調で喋り出した。
「長旅で疲れたんだよ。飯できたらまた起こしてくれ」
「はっ、旅だと? どうせ、喧嘩の不貞寝に、はるばるここまで来たってだけの話だろ」
シュティムトは彼女のセリフにパッと目を覚まして起き上がると、尖った目つきでエヴァリスタをねめつけて、怒声の混じった口調で言葉を繰る。
「おい、あいつからなんか聞いたのか?」
「いや何も。しかし、まさか図星だったとはな。で、オイサースト暮らしは早くも挫折というわけか?」
「話を逸らすな。あんちくしょう、手紙かなんかを寄越しやがったんだ」
「何も聞いてないと言ってるだろ。私だってここ数日この家を外してたんだ。届いてたって見ちゃいないし、現に何も届いていないじゃないか」
「お前の話は信用できん」
「私じゃなくて、パートナーを信用するのが先だろう」
「あんなやつ」と、エヴァリスタとの会話に怒りを募らせて口走ってから、後悔の念に打たれて、シュティムトは俯いて黙ってしまった。
ようやく落ち着いたかと、内心独り言ちてから、黙ってベッドを離れると、ネーエを連れて再び戻ってきた。
「その子は……なるほど後継か」シュティムトは一瞬ネーエの方を見ると、また俯いてボソボソと口にした。
「ああ。村の奴に付き合わせるのも面倒が多い」
「はあ、気の毒なもんだね。よりによってあんたに拾われるとは」と今度はエヴァリスタの方を見て言うと、あっと表情を変えて「村の子どもがちょうどさっきここに来たんだった。あんたを探してたよ」
エヴァリスタは「げっ、忘れてた」と言うなり大急ぎで家を飛び出して行った。彼女が去った後の家は、気まずい静けさが暫く続いた。
「エヴァリスタ行っちゃったね」と沈黙に耐えかねたネーエが口を開いた。彼は俯きながら目線をネーエに向けると、会話のために顔を起こした。
「なんでも、花を摘みに行くんだってよ。今日帰ってくる予定だったから約束してたらしい。君も連れて行ってやりゃ良かったのにな」
「急いでたから」と彼女がエヴァリスタをフォローするのを見て、彼はやっぱりなと物知り顔で話始める。
「あいつに随分懐いてるみたいだな。だが、やめとけ。あんなやつを信用してもロクなことにならない」
「どうして?」
「あいつは化物だ。ほら、あいつみたいに言葉を話す魔物、知らないか?」
「うん、知ってる。お父さんとお母さんが、その……」そこまで言って悲しげな顔をする彼女を見て、「わかるから、無理すんな」と彼女が続けようとするのを静止した。
「俺も同じ境遇だ。今のお前よりずっと小さい頃だったから、大して覚えちゃいないんだけどな。まあなんだ、あいつはそういう魔物と大差ないんだ」
「でも、私もあなたも生きてる」
「そうだな。二十年以上一緒に暮らしてたが、一切尻尾を出さなかった。ただな、それはあいつに何らかの目的があるからなんだ。あいつはそれを計画と呼んでいる」
「計画って?」
「詳細までは。ただ、親父が、まあ育ての親なんだけどな。親父はずっと俺の心配をしていた。自分が死んだら、俺も殺されてしまうなんて最期にはうわ言のように言っていたよ。何があったのかは知らないが、少なくとも用済みだと判断されたら殺されるってのはありそうだ」
「そんな風には見えないけど」
「なるほど、じゃあお前は何で連れてこられたか伝えられてないな。教えてやる、さっきまんまと白状しやがったが、お前は俺の後釜だ」ネーエがキョトンとわかっていなさそうな顔をしたので「つまり、あいつの計画に付き合わされるってこと」と付け足した。
「俺がやらされたのは、運びだ。あいつの書いた本を一番近い街、オイサーストってとこに運んで、売っ払う。何の意味があるのかはわからんが、あいつはこれを計画のためだと言っていた」
ネーエは彼の話を信じられなかった。しかし、嘘をついているようにも聞こえず、気持ちが悪い。反対に、もしエヴァリスタがかような存在だとすれば、彼女から感じた心からの優しさという観念は更に一層気味の悪いものだ。ネーエがぐるぐると巡る猜疑に悩ませているのを見て、シュティムトは話を続けた。
「俺を信じろとは言わん。だが、ヤツも信じるな。そもそも、おかしいとは思わないか? 魔物に襲われた村の、ただ一人の生き残りの子どもを全くの偶然で二人も拾ってくるなんて」
「あいつの姿を思い出せ。村を襲った奴と同じだろ? 村が襲われたのも全部あいつの仕組んだことだとしたら」
ぞくっと背筋に怖気が走る。彼の方も自分で話していて怖くなったらしい、気を取り直すように咳払いをしてから、再び口を開いた。
「怖がらせてすまん。でもそれくらい気を付けて欲しいってことさ。なあ、腹減ってないか? 適当だが、食材もあるし作るぞ」
「うん。ありがとう。手伝うよ」
そういえば昨日から何も食べていないなと、言われて初めて空腹を思い出したネーエは、遠慮なく首肯する。
「できた子だな。でも、今日はいいさ。お疲れだろ、ほらこのベッド使っていいぞ」
ベッドを叩いて示すと、ネーエとは反対の方にベッドから降りて、そのまま彼女には背を向けてキッチンに向かう。ネーエは示された通りにベッドで横になった。やっぱり疲れていたようで、急激な眠気に襲われる。うつらうつら、彼の背中をぼんやりと眺めながら、眠りに落ちる直前、彼の声がぼんやり耳に届く。
「おそらく直近、帝国の偉い奴との付き合いにお前も付き合わされる。せっかくの機会だなんだの言って偶然を装ってな」
それ以降も何やら言っていたが、ほとんど頭に残らず、ネーエはそのまま眠りに落ちた。
*
「おお!」と言うエヴァリスタの声が大きく、ネーエは目が覚めた。
「なんかいい匂いがするなと思ったら、お前が作ってたのか!」
エヴァリスタは帰ってくるなり、キッチンに立つシュティムトを認めると大層驚いた様子だった。
「別にこんなん誰だってできる」
「なになに、大きくなってから一度も作ったことないのにか?」エヴァリスタは彼の隣に立つとニヤニヤと笑みを浮かべながら揶揄った。
「うっせえ。お前が遅いからだ」
「はいはい。なあそれ、四人分あるか?」
そう言ってシュティムトの肩を叩いて、顔を向けさせると、入り口の方で突っ立っている少女を指差す。頭には手製の花冠を付けて、両手に沢山の花を携えている。
「いや、ネーエにも会わせておこうと思ってな。連れて来ちゃった」
「まあ、足りると思うが」
「良かった。エリーゼ! お兄さんが珍しくご飯作ったみたいだけど、食べてくか?」
エヴァリスタが花の少女に向かって呼びかけて手招きをする。その子は首を大きく縦に振って「うん!」と元気よく相槌を打つと、エヴァリスタの方までかけて行った。
「お兄ちゃんありがとー!」と隣まで来てお礼を言われると、シュティムトは「はは」と乾いた笑みを溢してから、照れ臭そうに「どういたしまして」と返した。
「ネーエは……寝てるか。エリーゼ、この子が今日村に来た」エヴァリスタの言に被せるように「ネーエちゃんだね!」と少女は喜色満面に言う。
「そう。年も近いだろうし仲良くしてやってくれ、あれネーエ、起きてたのか」
ネーエがゆっくり起き上がってこちらを見据える。その様子にエヴァリスタは笑顔を作って、エリーゼの手のひらで示す。
「この子はエリーゼ、この村の子だ」
「よろしくね、ネーエちゃん!」
少女が「よいしょ。はいこれ」と、抱えていた花を何束か無造作に取り出してネーエに差し出す。両手に余るほどの花は、片手で抱えるように持ち直したので、幾らかは床に落ちていった。
差し出された花を手に取って、ポツリとお礼を口にすると、「うん、よろしくね」と静かに言った。「ねえねえ、お花は好き?」とエリーゼはベッドに乗り上げて、興味津々だという風情で話しかけてくる。彼女はそれに肯定を返す。暫くの間、エリーゼの質問攻めが続いた。
その折、彼女たちの様子を微笑まし気に、シュティムトの隣でエヴァリスタが見つめている。
「なあ、シュティムト」
彼女が応答を待つように黙るので、「なんだよ」とぶっきらぼうに言う。
「向こうではちゃんと飯作ってんのか?」
「は? まあ時々な」
「今頃腹でも空かしてるんじゃないか?」
エヴァリスタはそれだけ言って満足すると、「だから時々だよ時々」との彼の否定も聞かずに、談笑する彼女たちの方に混ざりに行ってしまった。なんなんだよと、後ろで話す彼女たちを見る。エヴァリスタの顔は背が向けられていて見えないが、二人の顔を見れば本当にただの談笑だ。まるで、その中に魔物が混じっていないかのような完璧な擬態。あまりにも自然であるが故の不自然。
(思えば、俺が子どもの頃からそうだった。あいつは母親としてさえ完璧に擬態してみせた。だが、親父が死んだ瞬間、本性を現しやがった)
シュティムトの脳裏にはあの時の光景が未だにはっきりと思い出される。父が死んで程なくして、エヴァリスタが放った言葉。
「なあ、シュティムト。もうお母さんと呼ぶのはやめないか」
「勇作はもういないじゃないか」
煮えていくスープがボコボコと音を立て始めたので、シュティムトは火を消した。