ネーエが変な時間に目を覚ましたのは、近くで物音がするからだ。その音ですっかり覚醒してしまい、このまま寝ているのも落ち着かないので、ベッドから上体を起こした。窓の外は薄っすら明るくなっていて、明け方だとわかる。右隣ではシュティムトがぐっすり寝ている。エリーゼはとうに家に帰っていた。
「悪い、起こした?」と言ったエヴァリスタは、本棚の前に立って本を漁っている。どうやら音の正体は彼女らしい。彼女の言葉にどう応じるか迷って、ネーエはだんまりと俯いている。
返答のないことには気にも留めず、エヴァリスタは手に持っていた本を捲り始めた。
「何の本読んでるの?」
今度はネーエの方が口を開く。エヴァリスタは首を彼女の方へ回すと、静かに手招きをした。ネーエはベッドから降りて、裸足のままペタペタと彼女の方へ歩く。床はヒンヤリと冷たかった。そこまで行くと、彼女にも見えるようにしゃがんでから差し出された本を見る。
「なにこれ」と呟く。知らない単語ばかりだ。「知りたいか?」とエヴァリスタが囁くような声で尋ねるのに、ネーエは首を縦に振る。「じゃあ、明日魔法と一緒に勉強しような」と続くので同じようにする。ネーエはエヴァリスタをじっと見つめながら、シュティムトの忠告を反芻する。
化物のようには見えない。角が生えてるのは同じだが、彼女の両親を殺した奴とは全く違うように見える。もし、この瞬間彼女がその本性を現したとして、驚かずにはいられない。優しいお姉さん。誰かに紹介するならそのように言うと、ネーエは思った。
「どうした?」とエヴァリスタが心配そうな顔をする。唐突だったので、一瞬狼狽えたが「なんでもない」と繕った。エヴァリスタは本を閉じて棚にしまう。ネーエにはその時のエヴァリスタの表情からは何らの感情も読み取れなかった。「ちょっと散歩しないか。シュティムトには内緒で」腰を屈めてグッとネーエの耳元に顔を近付けてそれを隠すように、手のひらをかざしてコソコソと囁くように話す。
頷くと、エヴァリスタが早速にドアの方へ向かって歩き出すので、置いていかれないようにと、早歩きでついていく。ネーエは外に出ると半開きになったドアを閉める。一足早く軒先を出ていたエヴァリスタが、立ち止まってこっちを見ている。空白む明け方。まだ少し肌寒く、外に出るなり身体を撫でる風に身震いする。寒さを紛らわすように、ほんの少し先にいるエヴァリスタの隣まで小走りで向かう。
彼女が手を差し出してきたので、ネーエも同じように差し出すと、そのまま手を繋がれた。どうやら村の方に向かっているらしい、ネーエは彼女に連れられながら、森の中の細い道を進む。
「エリーゼが喜んでたぞ。女の子のお友達ができたってさ」
「うん」
「彼女はずっと近い歳の友達が欲しかったんだろうな」
「そうなの?」
「ああ、たぶんな。ネーエのことを話したらすっごい笑顔になったんだ。あんなに嬉しそうにするのは今までに見たことがない」
「そうなんだ」
「昨日は楽しかったか?」
「うん」
「そりゃ良かった。エリーゼも不安がってたんだ」
「エリーゼちゃんと仲良いんだね」
「まあな。でも、最初は苦労したんだぞ? 元々、猜疑心の強い子でな」
「よく知ってるんだね」
ネーエは彼女の声を聞くたびにシュティムトの言葉を思い出した。仲良くしてはいけない。魔物と同じ、それもお父さんとお母さんを殺した……まだ幼いが故、彼女の猜疑はありありと態度に表れてしまっていた。そんなことは知らぬ素振りで、エヴァリスタは明朗に答える。
「いいや、知らないさ。昨日だってあの子があんな簡単に人に気を許す子なんだって初めて知ったんだぞ?」
「わかってなかったら、そんなことできないでしょ」とネーエは不機嫌そうに言う。魔物がそんなことを理解しているだけで恐ろしいのに、エヴァリスタはさも自分が人間であるかのように会話をしてくる。彼女の方はそう言われて、顔を上げて顎をさすりながら何を言おうか考える仕草を見せる。
「ネーエは友達を作るのが苦手か?」苦笑しながら困ったような顔を浮かべてこちらを見てくる。この魔物が何でそんなことを言うのか見当がつかない。別に村には友達だって居たし、そんな自覚もない。ネーエはさらに苛立って突き離す意図で「あなたは魔物でしょ」と口を尖らせた。エヴァリスタはまた困惑した表情を浮かべると、ははあと何やら得心して、嬉しそうに話し出した。
「人間だって同じだろ? 理解はしていないが、なんとなしに共有する何かを感じ取って、関係が始まる。その関係さえ、何かを共有していることは前提としているはずだ」
ネーエは彼女が何を言ってるか理解できず返答に困ったが、黙ってしまうのも癪なので取り敢えず「何かって?」と取り繕った。
「それはわからん。そもそもそんなものが存在してるかさえ、本当のところわかってないし、わかりようもないんじゃないか? ああ、こっちだこっち」
特に何の特徴もなく、ネーエには村への道にしか見えない場所で立ち止まると、エヴァリスタは塞がれていない方の手で左を指す。示されたものの、ネーエにはその方へ進むとは到底思えなかった。今立っている場所さえ元は森にしか見えなかったが、彼女が指す先は一層木が茂っている。
「森の中?」と呟いて、繋いでいた方の手をぐっと自分の身体へ寄せて躊躇いを示すも、抵抗虚しく、「ここも森の中だ」と一言したエヴァリスタは強引にネーエを引っ張って歩き出した。
やはり魔物なのだ。引っ張られた拍子に強く感じた。彼女は軽々と自分を引っ張るだけの力がある。堅く尖った恐ろしく非人間的な力。その一端を身体に感じ、恐怖で萎縮する。このまま人目につかない場所で殺される。遺体も見つからぬまま、森の中でただ一人。
ふと、あの夜の燃え盛る火の中に佇む巨躯を思い出す。剣を携えた角の男。くっきりと浮かんで顔に筋を通す高い鼻に、大きな眉の下で綺麗な睫毛を生やす垂れた細い目。長髪を揺らし身体を斜めにすると、無感動にネーエを見下ろす。やがて大人が集まってきて、庇うように父が自分に覆い被さった。村で一番強い剣士が、父の前で男に剣を向ける。ネーエは被さる父の身体の隙間から、男が笑顔になるのを見た。
自己を内包している殻はグツグツと鬱屈した感情を煮込む。そんな訳だから、彼女は呼吸のたびに毒を吸い込んでいるような感じがして、息苦しい。父母はどのようにして殺されたのか。様々なあり方を想像して気分を沈める。しかし、そもそもこのようなことを考え始めたのは。
「ほら、ネーエ。着いたぞ」唐突に外部が差して、俯けていた顔を起こす。気付くと木のない開けた場所にいた。前方が崖になっていて、その下には茫漠と広がる平野と海が一望できた。ネーエの視界の先、無限遠点を通る一本の線が、海と空を隔てるように引かれている。その線の上で、太陽が全身を漂わせて、近くの空を滲むように薄い橙に染める。
顔を伝う涙を袖で拭いながら、ふといつの間にか隣から消えていったエヴァリスタに気付いて、辺りを見回す。それと同時に、ガサガサと茂みの中から出てきた角の生えた魔物。手には石を持っている。それで頭でも殴られればネーエは死んでしまうだろう。
「ネーエ、こっちこっち」と崖の方で手招きをする。逡巡して固まっていると、彼女の方からこっちに来る。彼女の横まで来ると、笑みを浮かべて、崖の先を見ると「綺麗でしょ」と言う。ネーエは黙ったまま頷く。それにエヴァリスタは嬉しそうな顔をする。
「なあ、ネーエ」彼女は顔をネーエの高さまで合わせると、視線を手に持った足の方へ落とす。
「その、なんだ。これからきっと辛いこともある。それに、その……」
エヴァリスタにしては珍しい歯切れの悪い口調。ネーエは意外そうに彼女を見つめる。言い難いことを切り出すようなきまりの悪い表情を一瞬作ってから、彼女は小さく口を動かす。
「要は今も辛いだろ? ってこと。だからさ、これ」と言って、手に持っていた石をネーエの前に掲げる。手の平大の何の変哲もない石。形は不揃いで特別な感情をもたらさない。恐らくその辺にあった石の中から一番大きいものを取ってきたのだろう。
「お墓を作ろう。ここに来たら思い出すんだ」
こんなことを唐突に。目の前の危険な魔物が、凶器となる石をもって何を発言するかと思えば。ネーエはそのチグハグな光景に可笑しくなってクスクスと笑い出した。「どうした?」と困惑した表情を浮かべるエヴァリスタを無視して、しばらく笑う。
そうだった、彼女は初めて会った時から、私のことを気にかけて、ずっとそのようにしてきたじゃないか。だから、自分も着いていく気になったのに、それをたった一人の言葉で疑いにかけて、勝手に猜疑を募らせてきた自分は何と愚かなことか。シュティムトだって、もう三十年は生きているはずだ。仮に邪悪な魔物だったとして、人間をそれだけ放置しておくことがあり得るだろうか。私たちは気にし過ぎていたのだ。彼女は言った。「角を生やしている奴が皆、悪い奴じゃない」それを信じてもいいのではないか。
「エヴァリスタ。ありがとう」一頻り笑った後、ようやく彼女の目を見てお礼を言う。少し晴れやかな気分だ。誰かを疑い続けるのは辛い。急に肩の荷が降りた気がした。彼女の反応に安心した表情を浮かべるエヴァリスタが、手を差し伸べてくるので、ネーエの方から手を握る。二人は崖へ向けて歩き出した。
「ごめんな、段取りが悪くて。こんな石じゃ相応しくないかもしれないが」
崖の前に揃って膝をついてから、エヴァリスタが石を立てて、埃を払うようにそれを撫でる。
「ううん。綺麗な場所」とエヴァリスタと同じように石を撫でる。目の前に広がる平原は故郷を見下ろした時の光景そのもので、エヴァリスタと出会った時のことを彷彿とさせる。あれが昨日のことだとは露とも思われなかった。彼女と出会ってからの方が一人で森の中を彷徨っていた頃よりよっぽど幸せだ。何となく、ネーエは寂しくなって、隣のエヴァリスタに抱きついた。びっくりしながらも彼女はネーエの背中を優しくさすってくれる。
「私ね」声が震える。絞り出すような「エヴァリスタのこと疑ってた」の後、ごめんねと幾度か続けて、「こんな優しいのに」とまたエヴァリスタの右肩を涙で汚す。そんなことも気にせず、怪力を一切感じさせぬゆったりとした手つきでネーエの頭を撫でる。声を上げて泣く自分にいつまでも寄り添おうとする慈愛の念が差し向けられている気がした。彼女の優しさを感じれば感じるだけ、一層泣きたくなった。
*
ネーエが泣き止んだ後、エヴァリスタは彼女を抱き抱え、帰路に就く。
(ふん、親を亡くしている割に存外ちょろいもんだ。いつ自殺するともわからなかったが、やはり同じガキを突き合わせたのが功を奏したか?)
優しい手つきで背中を時々さすったり、軽く叩いたりして、気遣っているのを装う。シュティムトと重なるな、とエヴァリスタは心内で呟く。あいつはネーエよりもずっと小さかったから、泣き出すと何をすればいいのか判らず大変だった。しかし、これも目的のためだ。計画には必ずこいつらが要る。
(墓はこいつにどれだけの意味をもたらすのか。親に出会う場をあの世ではなく、この世に引っ張ってくる。正直、杜撰な仮定だとは思うが、とりあえずは気も紛れたらしい)
ひとまず思い通りに事が運んで、エヴァリスタはホッと小さくため息をした。