ネーエたちが家まで戻ってくると、ちょうどシュティムトと鉢合わせた。大きな荷物を背負って、軒先まで出てきた所のようだ。
「なんだ、もう帰るのか?」
「おい、どこ行ってたんだ二人して。まあ、用事を思い出してな」
「まったく、忙しない奴だ」
「で? どこ行ってたんだよ」
「内緒だよ、なー?」腕の中のネーエにエヴァリスタが声を掛けると、ネーエは抱き抱えられたまま器用にシュティムトの方を向いて、「うん、内緒」と人差し指に口を当てている。
「はー、すっかり懐いちゃって。やっぱり子どもは子どもか」シュティムトは呆れて溜め息を吐く。
「おい、ネーエ、こんなこと言ってるが、こいつは十一歳までずっと抱っこをせがんできたんだぞ?」
そう言うエヴァリスタの顔が可笑しくて、ネーエはケラケラと笑った。
「おい、あんま変なこと吹き込むなよ」と不平を口にするのを無視して、エヴァリスタはネーエとじゃれはじめる。側から見てるとネーエは赤ん坊だ。
「じゃあ俺はもう行くから」と観念した様子で言うと、シュティムトは去ってしまった。しばらくして、離れていくシュティムトに気が付いて、ネーエは「ばいばーい」と手を振った。
シュティムトの背中が見えなくなると、エヴァリスタはネーエを下ろしてからドアを開ける。家に入ると、本棚の方に迷いなく歩いていく。ネーエの方は、ベッドに飛び込むと身体を翻して仰向けになって天井を眺めている。
「ネーエ、靴は脱げよ」本棚から取り出した本をパラパラと捲っている。ネーエは慌てて靴を床に投げて元の体勢に直った。
「なあ、今日は魔法と数学どっち勉強したい?」
仰向けのまま、エヴァリスタが本を捲っているのを見ると、「魔法」と迷いなく答える。そもそも数学ってなんだ、とネーエは天井をぼんやりと見ながら思う。
「はは、そうかじゃあ決まりだな。お昼食べてからやろっか」
手で繰っていた本を本棚へしまうと、エヴァリスタはネーエの方まで来て、ベッドに腰を下ろす。ネーエが微笑を浮かべる彼女の顔を見ながら黙っていると、彼女の手が伸びてきて、ネーエの頭を優しく撫でた。「それまではゴロゴロしてるか」何か特別なことをするかのような調子で放たれたそれに、ネーエもなんだか嬉しくなって笑顔になる。もぞもぞと手を動かして、下敷きにしていたシーツを取って自分の身体に掛け直すと、エヴァリスタも横になれるようにと動いてスペースを作る。
エヴァリスタが左手で頬杖をついて寝そべると、ネーエの顔を見下ろすような格好になった。ネーエももぞもぞと身体を返して、彼女の方を向く。彼女は穏やかな微笑を浮かべてネーエを見つめている。彼女の彫刻のように整った顔はどんな表情の変化にも美しさを崩さない。笑みで細められた目がちらと焦点を移す。台所の辺りだろうか。ネーエは視線の先を探ろうと、後ろを見る。
「ネーエはそもそも魔力の練り方がわかるんだっけ」
どうやら視線の動きに意図はなかったようで、ネーエはまたエヴァリスタの方へ向き直ると、「練り方?」と不思議そうな顔をする。エヴァリスタは笑みを強めて「じゃあそこからだな」と言うと不意に起き上がって伸びをする。
そのまま立ち上がって歩き出すエヴァリスタを目で追っていると「心配するな、どこにも行ったりしないよ」と穏やかな声が聞こえてくる。「ちょっとやることがあってな」と背を向けながら、机に向かって歩く。「そういえば、三週間後、オイサーストに行くんだが、折角だしネーエも行くか?」机の上に散らかる書類を整理しながら、エヴァリスタは何の気なしに彼女に尋ねる。
エヴァリスタが背を向けてこちらが見えないことを察して、「うん、行く」と声にする。なんだか眠くなってきて、ネーエは眠気に身体を委ねて目を瞑った。
*
鼻腔を擽るのは美味を期待させる芳香。ネーエはパチリと目を覚ました。あれは夢だったのか、とつい先程まで見ていたもう消えかかりつつある夢の光景を思い出しつつ、台所に立つエヴァリスタの所までトコトコと歩く。
「おっ、起きたか。ちょうどそろそろできそうなんだ」
エヴァリスタがちらっと自分の腰の辺りを見ると、ネーエがちょこんと立っていて、「ありがとう」と呟いた。
「なあ、ネーエ。好きな食べ物は?」
「ハチミツ」
「ふーん、じゃあ嫌いな食べ物は?」
「ピーマン」
「南のものしか出てこないな。ここ北だろ?」とエヴァリスタが笑いながら言う。何が面白いのかネーエにはわからなくて、キョトンとした顔をしている。
「うーん、ピーマンかぁ。ネーエが嫌いってことは食べてるんだよな。なあ、ネーエ、私なんだかピーマン食べたくなってきたぞ」
「だめ。やめて」とエヴァリスタの服を引っ張る。エヴァリスタはネーエを見下ろして、ニヤニヤと意地悪そうな笑みを浮かべる。
ネーエは彼女の意思を読み取って、「ねぇ、やめて。意地悪」と掴んでいた服をグイグイと引っ張る。それに観念したのか、エヴァリスタはしゃがむとネーエの顔を見て微笑んだ。
「はは、冗談だよ。冗談。それにピーマンなんてこの村じゃ手に入らないよ」
「ほんと?」
「ほんとさ。でも、ピーマンが食べたくなったのもほんと」
「魔物なのに?」
「それはこっちのセリフだ。人間ならピーマンくらい食べろ」
「やだ」ぷいと顔を背けて反抗を示せば、エヴァリスタは笑みを深めると、再び立ち上がって調理に戻ってしまった。
「ねぇ、なんでそこ行くの?」寂しくなって適当に言葉を紡ぐ。
「そこ?」ネーエには注意も向けず返事だけが返ってくる。
「三週間後行くって言ってた」と言って彼女はまた服を掴む。
「あー、オイサーストのことか」と聞こえて「うん、そう」と合わせる。
「人に会いに行くんだ。後はまあ仕事の後片付けみたいなもんだ」
「お仕事?」
「うん、仕事。ずっと止まってたんだが、ようやく終わったみたいでね。まあ挨拶ってやつだ」
「どんなお仕事なの?」
「うーん、流石にネーエには難しいと思うぞ?」
「じゃあどんな人と会うの?」
「それはお楽しみ」
「意地悪」
「ほら、そろそろできるから向こうで待ってろ」
そう言われて、ネーエが食卓に着いて間も無く、エヴァリスタが昼食を運んできた。目の前に着席して、すぐに食べ始めるのを見て、ネーエも食べ物を口に運ぶ。
「ネーエ、何を学ぶにしろ目的があったほうがいい。お前は魔法で何がしたい?」
「ええと、空を飛んでみたい」
「はは、空ね。この魔法は別にそう難しいもんでもないし、すぐできるようになるさ」
「そうなの?」
「ああ。もしかすると、もう次の目標も考えておいた方がいいかもな」
「うーん、えっと、じゃあ、お姫様になりたい!」
「お姫様? そんな魔法があるかはわからんが、ネーエなら魔法がなくともなれるんじゃないか?」
「ほんと?」
「ほんとだ。ただし、たくさん勉強しないとダメだぞ」
「そうなの? お姫様って大変なんだ」
「もちろん。長い戦争も終わったんだ。これからはそういうことが必要になるはずさ」
「そうなんだ。頑張る」これからの自分の苦労を想像し撤回が頭によぎったが、ネーエはそれを飲み込んで、自身を奮起させる意図で以て、そう応えた。エヴァリスタが「おう、頑張れ」と言って頭を撫でてきたので、そうした苦難に対する心労はある程度緩和された。
「ねぇ、エヴァリスタ」ネーエは会話が途切れるのを何となしに忌避して特にこれといって話すこともないのに、彼女の名前を呼んだ。「なんだ?」と返ってくるのを待ってから「エヴァリスタはどんな魔法が使えるの?」と尋ねる。
「どんなか。そもそも私は空を飛ぶのも魔法だと認識していなかったし、そういう意味ではたくさん使えるな」
「へー、じゃあ好きな魔法は?」
エヴァリスタは食事を口に運ぶ手をピタと止めて固まった。ネーエが首を傾げると再び動き始めたが、ネーエは何か不味いことを聞いてしまったのかと心中穏やかではない。
「はは、考えたこともなかったなそういえば。そうだなぁ、やっぱり
「私も空を飛ぶの好き」とネーエは嬉しそうに言った。エヴァリスタが笑みを浮かべたので、一層嬉しくなった。
「さ、もう食べちゃおう。魔法の練習したいだろ?」
ネーエが「うん」と言ってから暫く、沈黙が続いた。彼女は急ぎがちにスープを口に運びながら、ふと、目の前のエヴァリスタを見る。言葉を話す魔物。父母を殺した奴とは何が違うのだろうか。魔物には気を付けろと幼い頃から口酸っぱく言い聞かされてきたネーエにとって、エヴァリスタに頼り切っているこの状況は、奇怪であると思うほかなかった。
彼女の視線に気付いたエヴァリスタと目が合う。「おい、食べないのか? さげちゃうぞ」と言われて慌てて食事を再開する。エヴァリスタの方は食べ終わったようで、立ち上がって食器を片付け始めた。ネーエはそれを目で追う。彼女の赤みがかった髪が揺れている。ふと、どこで生まれたのか気になった。彼女の背中。父と同じくらいだろうか、背が高い。一体何を食べたらこれほど大きくなれるのか、気になった。食器を置いてこちらに向かってくる。顔に浮かぶのは大人の笑み。笑みを浮かべながら何を考えているのか、気になった。
「ふっ、おいおい、全然進んでないじゃないか。何か考え事でもしてるのか?」
エヴァリスタはそう言うとそのまま机の方まで歩いていき、分厚い紙の束を取ってくると再びネーエの前に座った。さっと紙面に目を滑らして次々と捲っていく。それにつれて、エヴァリスタの表情はどんどん満足げになっていった。
「それなに」
「これか? オイサーストで使うのさ。ホウリツってやつだ。知ってるか? その素案だよ」エヴァリスタは自分が目を通した紙を摘んで手渡す「帝国に新しい街ができるんだ」
「どんな街?」貰った紙束には早々に興味を失って、エヴァリスタの話に関心を持った。
「どんな? 誰でも自由に遊べる街、かな?」
「遊べる? すごい、行きたい!」ネーエはテーブルをドンと手で叩いて勢い良く立ち上がった。
「ただし飯をちんたら食べる悪い子は入れない」と聞こえるや否やネーエは立ったまま、残りを口に流し込むと、勢い良くエヴァリスタに器を差し出す。
エヴァリスタは「全く」と言って受け取ると片付けに立ち上がる。歩きながら、漫ろに話し始めた。
「魔法っていうのは感覚が大事だ。お前が二足で歩くようにして扱えるようにしなければならない。事象が陳腐化した時に初めて魔法として行使できる、という訳だ。他人の魔法に感動しているようじゃ、いつまで経っても使えるようにはならない。そういう意味では、魔法っていうのは得てしてつまらないものなんだ」
ネーエはエヴァリスタの言っていることを半分も理解できなかったが、魔法という言葉が聞こえたので、コクコクと頷いて真剣に聞いている風に装う。
「尤も、先ずは魔力が練れなきゃな」片付けを終えてネーエの横に立ったエヴァリスタはそう言うと「ここに座って」とベッドを指し示す。ネーエが言われた通りにベッドに腰掛けると、目の前にしゃがんでネーエと両手を繋いだ。
「どうだ? 何か感じるか?」
「暖かい」
「ほう。じゃあ今度は」と言うと、ゆっくりと手を離してネーエの耳に近づける。微かに低い音が聞こえてくる「聴こえるな?」という問い掛けにこくりと頷く。
「これが魔力だ。正確には魔力を細かく動かして、温めたり音を出したりしてる。これが魔法の素なんだ。だから、次はこれをネーエにも使えるようになってもらわないとな」
「どうやって?」とネーエが首を傾げると、エヴァリスタはベッドに乗り上げて、覆い被さるようにしてネーエの後ろから両腕を掴んだ。
「ネーエにも魔力は既にあるんだ。だから、先ずはそれを見えるようにする。ほら、今私はまた魔力を操ってる。自分の手に目を向けろ」
耳元で囁くようなエヴァリスタの声。今、魔力の動きを止めた。熱はない。すると、すぐにまた動き出した。徐々に温度が上がる。
「私がお前の腕に何かをしてるのはわかるな?」目に見えない何かが、私の腕に作用している「未だ見える必要はない」また彼女の声がした「そこにあって、お前もそれが使える」宙に浮いたような感覚でそれを聞く「それだけわかれば十分さ」
「さ、今度は腕に意識を向けて。熱の動きを自分で操っているようにイメージするんだ」
ネーエはエヴァリスタの言う通りにしようと、目を瞑って集中する。けれども、そんなものはイメージしようにも出来なかった。ある程度暖かくなると、魔力の動きは止められ、温度が下がってきたタイミングでまた再開される。何度か繰り返されると、ネーエは焦ったくなって目を開けた。
「ねえ、これいつまでやるの?」首を回してエヴァリスタの顔を見る。
「飽きたか? 魔力が見えるまでは毎日、少しでいいからやろう」
「全然面白くない」
「それで一歩前進だ。魔法を使いたかったら、先ずは基本の部分のつまらなさを理解しないとな」
「めんどくさい」
「ははっ、そうだな。だから、明日はこれをやった後は別の練習をしよう」
「ほんと?」とネーエが心配そうに顔を歪めると「本当さ」と返ってくる。ネーエは満足したように、笑みを浮かべると、もう一息と再び自身の腕に注意を向けた。それに気付いたエヴァリスタが魔力の操作を始める。ネーエが魔力を感知できるようになるまで、数日とかからなかった。