三週間後。ネーエは身支度を済ませ、エヴァリスタに言われた通り迎えを待ちつつ、ベッドの上で坐禅を組んでいる。
(何でピーマン混ぜんの? 嫌って言ったのに。そういうところはお母さんに似てて嫌。お母さん、魔物にピーマン食べさせられたって言ったらどんな顔するのかな)
「おい、集中しないと意味ないぞ」
「はいはい」とうんざりした調子で返す「やりますやります」
「全く」と呆れた顔でネーエを見守るエヴァリスタの方は、紙束を手に持って椅子に座っている。ネーエの方が集中し始めたのを確認して、紙束の方に視線を移す。
(やはり、国家を
「ねえってば、エヴァリスタ。どう? 結構できるようになってきたでしょ?」
「おお、いい感じだな」ベッドからの呼び声に漸く気が付いて書類から目を離すと、感心したような顔をして言った「そろそろそいつを動かしてみるか」
「動かすってこんな感じ?」
「そうそう、それもできるのか。そしたら、それで物を掴んでみな」
「こうやって」と言って手元にあった紙を浮かせると、ネーエの方手元に持っていって落とした。
「うーん、物を掴めるイメージがないんだよね」と魔力を操って、手元に来た紙に近づけるも、ピクリとも動かず、困ったように首を捻った。
「魔力を動かせるだけ上出来さ。まあちょうどいい。魔力の動きを追う練習だ。私が暫く魔力操作で物を動かすから、それを見てイメージを掴め」
「うん。わかった」とネーエが言うと、エヴァリスタは書類を荷物に突っ込んでベッドの方へ歩いて来るとそのままネーエの横に腰掛けた。
「まず魔力を手の形にしてみるとイメージがつきやすいかもな。ほら、こうやって手の形、作れるか?」
「うーん、難しい」頑張って動かそうとするが、どうも精密さに欠け、棒状にするので精一杯だ。「でも手の形にしたら掴めるようになるかも」
「できそうな感じはするよな。よし、それも課題だな」
「エヴァリスタはどうやったの?」
「えっ、私か。私は、その、ガッカリしないで欲しいんだが、生まれて暫くしたら勝手にできるようになってたな……まあ、一応魔物なんだ」
「そうなんだ」とネーエはあからさまに落胆した様子で素っ気ない。
「なんだ、そんなこともできないなんてって思ってるのか?」
エヴァリスタの問いに「うん」と不貞腐れた声で返事をする。
「ま、いつやめたっていいさ。とりあえずは飽きるまでやってみな」
そう言うなり立ち上がると、エヴァリスタはドアを開けに歩き出した。ネーエは俯いて黙ったまま、耳だけはエヴァリスタの方へ注意を向けている。
「おおっ、びっくりした」
エヴァリスタの開扉にドアがギイと音を立てるなり、男の間の抜けた声がした。ネーエは気になって面を上げる。白髪の混じった初老の男だ。丁寧に剃られた髭と身に纏うローブからは身分の高さが窺える。浅黒い肌に浮かぶ口を閉ざすと、ネーエに気付いたようで、エヴァリスタ越しに彼女の方を見る。細く整えられた眉の下の目は柔らかく、何となしに優しげな印象を受けた。
「おや、どうしたんです? その子」と男がエヴァリスタに問うと「取り敢えず入れよ」と彼女は身体を退けて促す。家に入るなり、ネーエの側までやって来ると、男は貼り付けたような笑みを浮かべた。
「こんにちは。レーゲンと申します。貴方は?」
「ネーエです」
「ネーエさん。宜しくお願いします。エヴァリスタ様から伺ってるでしょうが、お迎えに上がりました」
「ああ、すまん。伝え忘れてた。ネーエ、こいつがオイサーストまでの私たちの護衛を担う」エヴァリスタはネーエ達の下まで歩きつつ言った「レーゲン。ネーエは魔法の修行をしているんだ。オイサーストまで長い。暫くお前が見てやってくれないか?」
「ああやっぱり。あの、ダメなんですからね? 執政官の許可なく魔法の勉強なんかしたら」
「勉強してるのはネーエだ」
「あなたそれでも師匠です? それに教えるのもっと悪いでしょう」
「ま、別に法律を犯したわけじゃないんだから、あんまカリカリすんなって」エヴァリスタはどうでもいいことのように、何の気なしに言った。
「規範の問題ですよ。貴方みたいな者が増えれば、確実に規制を設けることになるでしょうね」
「ネーエ、こいつはネーエが悪さをするんじゃないかと心配でしょうがないらしい。ネーエは悪さなんてしないよな?」
「うん。しない」
「はあ、もういいです。それより、ネーエちゃん。どれくらい魔法が使えるんだい?」
唐突に差し向けられた質問にびっくりして、思わずエヴァリスタの方を見る。目が合うと、彼女はやれやれといった顔をして、口を開いた。
「魔力は視認できて、魔力操作を訓練中だな。魔力を変形はできても物体に干渉することはできない、といったところだ」
「うーん、何ですかそれ。まあいいです。ネーエちゃん、魔力を動かせる?」
ネーエが「うん」と言うと、ネーエの身に纏い付く魔力が形を変える。
「うーん、やっぱり。エヴァリスタ様、別に彼女はもう魔法の勉強を始めてもいいのでは?」
「そうなのか?」
「ええ。そういえば杖は?」
「杖? ああ、そういえばお前もよく携帯していたな。あれは魔法の行使に必要だったのか」
「はあ、教える側がそれじゃ困ったものですね……いいでしょう。私が暫く魔法の指導を受け持ちます。とりあえず杖は私のを使ってください」
そう言ってレーゲンは、手に持っていた杖をネーエに差し出す。ネーエは驚いた顔をして、杖をまじまじと見つめる。急に彼の手元に現れた気がしたからだ。
「ふふ、不思議でしょう。これも魔法です」レーゲンは困惑するネーエに優しげにそう言うと、彼女の手を取って杖を握らせる。
「さっ、そろそろ行きましょう。ここまで馬車では来れなかったので、エヴァリスタ様、そこまで案内しますから私たちを飛ばしてください」
「はあ、仕方のない奴だ。ネーエ、師匠が見つかって良かったな」エヴァリスタはネーエに近付いて頭を撫でると「さ、ほら」とネーエを抱きかかえた。
「飛べるの?」とワクワクしてネーエが問う。
「そうだ。こっからオイサーストまでは森の中を突っ切るしかないからな。魔物も多いんだ」エヴァリスタは予め用意しておいた荷物のは入った巨大な麻袋を魔法で浮かせて家を出た。
*
「いやあ、ようやっとと言ったところですね。二十年以上前ですよ。カイザー様は帝国のトップに、そして漸くあなたの計画も軌道に乗りそうだ」
レーゲンは空を浮かびながら森を南進している。真横には同じように飛ぶエヴァリスタが、ネーエを抱え彼の話を黙って聞いている。
「そういえば、聞きたいことがあるんですが」
「なんだ?」
「あの、預金と貸出をくっつけるってのはどういうことなんでしょう。これはユウサクさんの記憶からですか?」
「あああれか。あれは勇作の記憶からだな。ユリウスはその意義を理解していたと思うが。聞かなかったのか?」
「聞きましたよ。聞いたんですが、自分で考えろの一点張りでして」
「なるほどな。まああいつがそう言うのも無理はないさ」
「こうもわからないとムズムズするんですよ。だからお願いですよ。エヴァリスタ様、どうか!」
「はあ、先が思いやられるな。わかったよ」
「ありがとうございます!」
「まず、私の土地はこれからどうなるんだかわかってるか?」
「ええ。帝国直轄地として商業都市にするんですよね? これは凄いなと思いました。特に、ドワーフの若者たちを早期に呼び込み得るというのは確かに仰る通りだなと。彼らは伝統的な徒弟制度に不満をもっていますから」
「そうだ。しかし、ドワーフには人間の金はない。金がなきゃ何も作れない。そうだろ?」
「なるほど、そのための貸出だと。しかし、預金は?」
「ああ。そもそも本来的に貸出には限度が存在するからな。どこかで資金調達をする必要がある」
「当たり前ですね。私が聞きたいのは、何故そこで預金が出て来るのかということですよ」
「そうだな。なあ、創業のために金を借りたとして、金貨を何枚も手元に持っておくと思うか?」
「まあそもそも預金というのは資産防衛の手段ですからね、確かに金を借りたところに預けられるのであれば、そうするでしょうね」
「そうだな。であれば貸出の時には金貨と交換できる手形を渡しておけばいい」
「はあ、金貨は実際に渡さなくてもいいと」
「いや、金貨が実際にある必要さえないぞ。手形との交換を求められなければな」
「それは道徳的に不味くないですか? もしなんかあった時には大変なことになる」
「それはそうだ。だから実際の金貨を幾らかすぐに引き渡せるようにしてやる必要があるな」
「全額交換となったらどうするつもりです? 私が質したいのは、その錬金術的なあり方そのものについてですよ」
「少なくとも帝国お墨付きの機関に資金を管理させるのは個人にとって魅力的だ。それも元手になる。それに、貸出は商業の実行に必要な資金だろ? 機関への利子の支払いも含めて預けることになるのだから、過度な引き出しは起こりにくい」
「始まった。あなたはあの時だって、
「実際よく機能してるだろ? 未だに地方間の移動には危険が付き物だからな。なあ、レーゲン、その時も言ったが、これは相互扶助だと考えて欲しい」
「言葉遊びじゃないですか! 事態は何も変わってないです」
「もう決まったことなんだから、何を言っても事態は変わらないぞ?」
そう言って、エヴァリスタはクツクツと笑うと、急に真剣なトーンで「おい、レーゲン、あれか?」と言う。指を差した先には馬が二頭、大きな布を張った車を率いている。
「あれです。あの、合流早くないですか? 何なら馬車も飛ばして一気にオイサーストに」
「流石にあれは重いな。勘弁してくれ」
「はあ、何でこんなことに。元はと言えば貴方があんな辺鄙なところに住み始めるからですよ」
「もう何度同じ話をしてきたかわからないが、ユリウスの奴が頼んだことだろ。それに私だって毎回迎えなど要らないと言っている」
「カイザー様は本当に貴方の事が大好きですからね」
エヴァリスタは身体を翻して自身に掛けた魔法を解除する。徐々に距離の空くレーゲンを見つめほくそ笑んでから口を開いた。
「良いのか? 独裁官が魔物に籠絡されてるんだぞ?」
グングンと小さくなっていくレーゲンを見つめながら、背後のエヴァリスタを通り抜けて吹き付ける風に、ネーエは楽しそうに目を輝かせた。