ヴィレム・クメシュは椅子から転げ落ちそうになりつつも、どうにかこうにか根性で耐えた。
静謐な夜に沈黙が降りる。ヴィレムは己がメンタルを平静に保つべく、片手で頭を抱えつつも深呼吸を開始した。待つのは苦にしないらしい、ネフレンからは何の言葉も発せられない。時計の秒針が、奇妙なまでに大きく響く。夜風が一瞬吹き荒び、窓が不吉な音を立てる。野生の獣が遠吠えを上げ、また静謐が居直った。一分経過。青年はまだ口を開けない。重い。部屋の空気があまりに重い。この灰髪の少女は、どうしてこんな空気の中で、永久不滅の塔の如く平然と背筋を伸ばしてられるのか。ちょっとメンタルが計り知れなすぎる。とうとう二分が過ぎた頃、ようやく青年の中に、最低限の平静さが戻って来て。目前の、理解困難な子供に向けて、ぎこちなくも口を開いた。
「…レン。お前それ、本気で俺にやらせる気?」
「ん」
「わたしは大人! 一人の大人の女として、君と対等に結婚を求めてるのに、ちびっ子扱いってなんなのよー!? ってぶん殴られる予感しかないんだが」
「んー、そうかなあ」
「いや絶対そうだって!? 成功の見込み皆無だって!?」
「ならヴィレムは、いつまでも現状維持のままでいいの? 他にいい案はある? 妖精の寿命は、もうそんなに長くない」
「───ぐ」
彼女はたまに、ナイフのように鋭く厳しい指摘をする。それを突き付けられてしまっては、ヴィレムに返す言葉はない。もう上手くいくかなど二の次で、一人の男として覚悟を決めるより他になかった。
「ああもうしょうがねえな、分かったよやってやるよ。とりあえずは、小さいクトリを思い浮かべるとこからでも始めりゃいいか?」
「ん、いいと思う。目を瞑って、出来る限り具体的に。最低でも、明らかにわたしよりも背の小さい、無邪気で幼いクトリの姿を思い浮かべて」
一瞬深い闇が見えた。ネフレンが抱えている、底なしの黒い闇が垣間見えた。ヴィレムはつっこんでやりたい衝動を覚えたが、余計なことなど一切言わずやるべきことに集中する。怖いし。
「では訓練を始めたいと思う。小さなクトリは今よりずっと、あからさまに負けず嫌い。はい復唱」
「小さなクトリは今よりずっと、あからさまに負けず嫌い」
「文武共に毎日努力を欠かさない。でも勉強ではラーン、運動ではノフトに敵わず、いつも悔しがってきーきー地団太を踏んでいる」
「文武共に毎日努力を欠かさない。でも勉強ではラーン、運動ではノフトに敵わず、いつも悔しがってきーきー地団太を踏んでいる」
何だそれめっちゃくちゃにかわいいなおい。努力が報われるよう、手取り足取り教育したい。
「…集中してる? 早速邪念を感じるのだけど」
「気のせいだ。続けろ」
「…今のティアットみたいに、年少組の面倒を一生懸命見てくれている。だけど微妙に舐められていて、言うこと聞いてもらえない。ぎゃーぎゃー喚いて空回りするだけに終わってる」
「今のティアットみたいに、年少組の面倒を一生懸命見てくれている。だけど微妙に舐められていて、言うこと聞いてもらえない。ぎゃーぎゃー喚いて空回りするだけに終わってる」
ああダメだ。全方面で報われない、ちびちびクトリが愛おしすぎる。こっそりケーキを振る舞いてえ。
「…やっぱり気のせいじゃないと思う。邪念が部屋中に満ちつつある」
「だから考えすぎだって。ほら、復唱するから続けてくれ」
「……小さなクトリは、今みたいに見栄で食欲を抑えれない。花開くような笑顔で、口元を食べかすでいっぱいにしながら、お菓子を存分にむさぼっている。全てを食べ終わった後、はしたない真似をしてしまったとようやく気付き顔を真っ赤に赤らめて───…」
ネフレンの先導により、復唱すること十分間。ヴィレムの脳は妄想で。もといちっちゃなクトリでメロメロになり、テンションは星の彼方へ届くほどかつてなくハイな方に振り切れていた。
「じゃあヴィレム。目の前にはちっちゃくてかわいらしい、とっておきの清楚なワンピースで着飾った、十歳足らずのクトリがいて。上目遣いでそわそわと、期待と不安をない交ぜにしながらヴィレムのプロポーズを待っている。そういうイメージは固まった?」
「おう! この手で触れて抱きしめてやれるくらい、くっきり鮮明に見えてるぜ!」
ノリノリである。邪念もすっかり削がれ落ち、十分の間に完全に洗脳されきってしまってる。
「ん、それではGO。男らしく、最高のプロポーズを決めてきて」
「おうともよ! クトリ! お前が努力を重ねてるのを、いつも陰から見守ってたぜ! まだネフレンよりもちっこいのに、上手くいかなくても毎日それを継続できる! とんでもない根性だよな! 年の差も体格も関係ねえ、そういうところに惚れたんだ! 世界で一番、他の誰よりかわいいんだ! 愛してる! お前の為に、毎日欠かさず甘ーいお菓子を作るから! だからどうか、この俺と結婚をしてほしい!」
………………言われた通り、ヴィレムはプロポーズを決めきった。
そこには練習すら嫌がっていた、弱々しい恋愛弱者など存在しない。正にかつての準勇者。いや、今この時を生きる真の勇者。目前に投影した、幼くちんまいクトリへと、一息に思いの丈をぶちまけて───ついでに迫真のエアーハグまで決めきった。
室内に、荒涼とした沈黙が降りる。
空々しい風が窓を叩き、一頭の野犬の遠吠えが、やけに寂しく遠く響く。いつの内であろう、月明かりは雲によって遮られ、森々は深い黒に染められた。十秒が経過、ヴィレムはエアーハグの体勢のまま動かない。自身の脳の幻影に、返答でももらっているかのようだった。一方ネフレンもまた、ヴィレムを見つめたまま動かない。更に十秒が経過した。不動。ぼんやりとした瞳、凪いだ湖面のような表情からは、何を考えてるか読み取るなど不可能である。たかだかほんの二十秒。されどかつてなく長大な、千切れる寸前のゴムの如くに引き伸ばされた、あまりに耐え難い二十秒。いい加減この状況を動かす為に、いっそどこぞの飛空艇が六十八番島へと墜落してもらいたい。もしここに第三者が紛れ込んでいたのなら、そんな不謹慎な願いすら抱き始めてたのではないか。その段になってようやっと───灰髪の妖精は、王城の門の如く固く閉ざしていた唇を、ようやっとほんの微かに開錠し、
「───ん。想定よりも、遥かにずっと変態的だった。別の案を一から練り直したほうがいいと思う」
一応は気まずかったのかもしれない。ここまでの無茶振りを、小さな囁きで全否定。
正気に戻ったヴィレムにより、ぺいっと室外へ放り出された。