ちなみに、この話でちょうど100話目だそうです。
冬の日は短日。
時間的にはまだ五時にもなっていないような時刻だったが、既に外は夕暮れ時だった。
三年三組の教室は夕日で血のように赤く染まり、忘野先輩の白髪はその赤を艶やかに跳ね返している。
教室は、白椛先輩が去ったことによって僕と忘野先輩の二人きりになっていた――息を呑む。
緊張を悟られまいとポーカーフェイスに努めたけど、そんな蟷螂の斧は彼女の前ではまるで役に立たなかった。
彼女は嗤う。
「そんなに警戒しないでよ、取って食おうってわけじゃないんだから」
取って食われた経験のある僕としては「じゃあ安心ですね」とは言い難い台詞だった。
唇に、目が奪われる。
それは、僕としてはいわば、刃物があれば思わず注視してしまうみたいな、そういう警戒対象を監視する意味での視線だったのだけど――その麗しい唇には心臓が高鳴らずにはいられなかった。
僕の視線に気付いているのか、彼女は薄桃のグロスが乗ったその唇を、ちゅぱっと鳴らす。
「そもそも、今回に関してはそっちから来たわけだから、警戒される謂れはないはずなんだけどね――頼むから、これも全部計算ずくだなんて思わないでくれよ。いくら私でも、小霧のミラクルまでコントロールはできないから」
ならなぜ、誰もいない教室で一人残っていたのか――そんなことをわざわざ聞きはしない。上手くはぐらかされるのがオチだし、舌戦で彼女に勝てるはずもない。
「先輩達は、下の名前で呼び合ってるんですね……仲、良いんですか?」
「親友だよ。私はユニークな子が好きだし、小霧は優秀な奴が好きだからつるんでるんだ――そんなことより、クリスマスの飾りについてだっけ?」
「はい。ご存じですか?」
「ご存じだよ。何せ、去年の飾りを片付けたのが、この私なんだから」
「自分の手で片付けたわけでもないでしょう」
「片付けるよう命じたのが私なんだから、良いんだよ。法隆寺を建てたのは、大工じゃなくて聖徳太子だろ?」
「それも乱暴な理論に聞こえますけど」
まあ、何にしても倉庫の位置を知っているなら、それでいい。
僕が口を開きかけたとき、
「さて」
と、言いながら忘野先輩は立ち上がった。言い忘れていたが、彼女は窓際の最後列に座していた。僕は教室の前側の入り口から彼女に話しかけていたので、対角線で会話していたことになる。
立ち上がった彼女は、僕の方に真っ直ぐと歩いてきた。押し出されるように僕は下がる。
「な……なんですか?」
「なんですかって……だから、案内してあげるんだよ、倉庫に。ついでに、運び出しも手伝ってあげる」
「結構です」
僕は忘野先輩と
彼女はわざとらしく唇を尖らせた。
「だから、そんなに警戒しなくてもいいって」
「警戒はしますよ。忘野先輩が僕にしたこと、まさか忘れたわけでもないでしょ?」
「忘れちゃったよ。ひと月も経ったからね。もう一回したら、思い出すかも」
忘野先輩は艶めかしく唇を撫でた。
全身が総毛立つ。
「……冗談抜きで、忘野先輩と二人っきりにはなれないです。理由は説明しなくてもわかるでしょ」
「わからないなぁ」
その言葉と同時に。
忘野先輩の真っ白な髪が、夕暮れの廊下に流れた。
相変わらず多才な彼女が、いったい何をしたのかはわからない――ただ、適切に開けていたはずの距離は、気が付くとゼロになっていた。それだけのことである。
「……‼⁉⁇」
忘野先輩の細腕が、背中に回る。見ようによっては抱き合っているようにも見えたかもしれないが、僕から抱き返してはなかったし、僕自身の感覚としては抱き締められているというより、拘束されているような感覚だった。
「本当にわからない――どうして、今の恋人と別れて、私と付き合ってくれないの? 絶対、何一つ劣ってない自信があるんだけど」
「……よしんば忘野先輩の方が星川より高スペックだったとして、じゃあ、スペックの高い方に乗り換えましょうってなるわけないでしょ。恋人はスマホじゃないんですから」
「上手いこと言った風だけど、スペックの高い方に乗り換えるのは当たり前じゃないの? スマホも、恋人も――利益を度外視した絆って、冷静に考えて怖くない?」
「誠実さの問題があるでしょ」
忘野先輩を力づくで引き剥がす。
忘野先輩ならいくらでも抵抗できそうだったけど、彼女はそうしなかった。三歩ほど距離を開けて、相対する。
「誠実っていうなら、女の子の好意に答えを示してない君こそ不誠実だと思うけどね」
「……ああ、それはすみません。拒否するまでもないと思ってたんで――忘野先輩なら、言わなくてもわかってると思ってました」
若干当てこすりのように言ってみたけど、忘野先輩は全く堪えた風でもなく、
「私について言ったわけじゃないんだけどね」
と、呟いた。
これには全く心当たりがなく、僕は首を捻る。
「いや、いいや……その話をしたいわけじゃないから」
「?」
「篠宮後輩にしてみれば、たしかに私を選ぶのは誠実さに欠けるかもしれないね――でも、私が君に好意を示すのは何も不誠実じゃない。私は他に恋人はいないし、君しか好きじゃない。私がどれだけ君に言い寄ったって、誠実さの観点で責められる謂れはないよ」
「恋人のいる男子に言い寄るのは、充分不誠実でしょ」
「私に言わせれば、好きになった相手に恋人がいるから諦める、なんて乙女チックな考えの方が、不誠実だけどね。自分の心に対する、不誠実だ」
「………」
「たとい相手に恋人がいても、誠実に、或いは不誠実にアタックして、順当に私を選んでもらう――それが私の価値観だ。私は私の正しさに従って行動してる」
旗幟鮮明なその立ち居振る舞いは、誰にも文句を言わせない気迫があった。
そのどこまでもエゴイスティックな意見は、なるほど天才らしい色を孕んだものだけど、天才ならざる僕には――かつて天才に憧れた僕には、どうにも承服しかねる意見でもあった。
「……忘野先輩の意見はわかりました――わかりましたけど、ならば僕も僕の価値観で、先輩を受け入れることはできません。それが僕の正しさなので」
「それは違うよ」
バッサリと。
切って捨てた彼女は、薄く笑っていた。
「篠宮後輩は自分のことをわかっていない。自分のことを理解できていない君に、君の価値観はわからない」
「また勝手なことを言いますね……いくら忘野先輩でも、僕より僕のことをわかってるってことはないでしょ」
「篠宮後輩のことは誰より私がわかってるよ――君の語る誠実っていうものは、いわば社会常識だろう? それは周囲から植え付けられた偏見で、十七年の人生で得た先入観だ。自らの
「それは――」
何か言い返さなければと思って、頭を巡らせる。
「それは……違うでしょう。社会的な正しさと、僕自身の持つ正しさが共通したっていいはずです。必ず異なるものじゃなきゃいけないわけじゃない」
わかってる。
ああ、わかってるとも。
こんなのはただの言葉狩りだ。正しく反論できてるわけじゃない。芯を食ってない、ただ言い返しただけの言葉。詭弁に等しい、ただの欺瞞。
忘野先輩は見透かしたように微笑む。
「まあ、いいけどね――これは本当にただの勘だけど、順番は私が先じゃない気がするから。あの子には悪いけど、当て馬になってもらおうかな」
「?」
これまた、本当に心当たりのない台詞だった――今日の彼女は、やけに思わせぶりな発言が多い。
僕が真意を問い質そうとするより早く、
「今回は私が折れてあげるよ。君と倉庫で二人っきりってシチュエーションには胸躍るところではあったけど、素直に諦めてあげる――倉庫は校舎の南東にあるよ。クリスマスの飾りなら、入って右の壁際に積まれてる。暗くなってしまうから、急いだほうがいいんじゃないかい?」
「そう……ですね」
モヤモヤとした展開だが、ここで食って掛かっても、僕の気持ちが晴れるとは思えない。
大人しく頭を下げて、踵を返す。
その僕の
「ああそれと」
と、声が掛かった。
振り向く。
夕日の赤が混じった紺碧の瞳と、視線が交錯した。
「無理矢理したキスに関してだけどね、実のところ、ちょっと悪いことをしたなとは思ってたんだよ。性急に過ぎたとね。恋しい人の誕生日に、つい乙女心が舞い上がってしまったんだ、悪かったね」
「……そんなことを言われても、簡単に許せるわけがないでしょう」
「それもそうだね。なら、ゆっくり償っていくとしよう――じゃあ、またね」
そう言いながら投げキッスをする彼女に、しかし僕は、何も言葉を返さなかった。