校舎を出ると身体がぶるっと震えた。悴む手に息を吹きかけると、白煙となって宙に溶けていく。
さて、倉庫は校舎の南東だったか。
暗くなるのも嫌なので、さて早速作業に取り掛かろうとした僕の背に、声が掛かった。
「おや、そこにいるのは」
振り向く。
そこにいたのは、千種だった。
撫でつけたストレートの黒髪が一迅の風に揺れる。
「――いえ、全然知らない人だったわ、失礼したわね。もう帰って結構よ」
「出会って一秒で帰らせようとするな。僕は仕事があるから帰れないんだよ。そして僕は全然知らない人じゃない。大親友の篠宮くんだぞ」
「はっ!」
喝破みたいな勢いで鼻で笑われた。
「これはこれは、篠宮くんだったとは。篠宮くんだりだったとは。それは申し訳ないことをしたわね――でも、もう黄昏時ならぬ、
「自己弁護の速度が速すぎるし、今が
「馬鹿なことを。私が篠宮くんを認識したことがあるとでも?」
「馬鹿なことをはこっちのセリフだ」
僕は今までお前に一度も認識してもらえてなかったのか。
「それにしても、千種はなんでこんな時間に学校に残ってるんだ?」
「図書館で勉強よ。そういう篠宮くんこそどうして居残りを? 補習? 呼び出し? 何をやらかしたの?」
「僕は何もやらかしてないし、さっき仕事だって言ったろ」
「篠宮くんだりに仕事を振るなんて、世の中には無能な上司もいたものね」
「僕のことを『篠宮くんだり』って呼ぶのやめろ――仕事って言っても、ただの荷出しだからな。倉庫からクリスマス用の飾りの運び出しを命じられたんだ――そうだ、千種、今暇か?」
「嫌よ」
「先読みして拒否するな。良いだろ。お前の得意な力仕事だぞ」
「私が得意な力仕事は、篠宮くんをミンチにする仕事よ」
「そんな仕事は存在しない――なあ、頼むから、ちょっと手伝ってくれ」
その後ちょっとでは済まないほどの口論があったが、結果的に千種が手伝ってくれることになった――口は悪いけど、性格は良い奴なのである。
「篠宮くんに手を貸すことになるなんて、再来世までの恥だわ……」
別に性格も良くないかもしれない。
◆
クリスマスの飾りというのは、思ったよりも重かった。
組み立て式のクリスマスツリーや、その飾り。広い校舎をくまなく飾るにはそれなりの物量が必要なようで、これを一人の生徒に任せてきた生徒会――というか、前田には後に抗議の文を送っておかなくてはならない。
実はマンパワー的にはどれほど必要性を感じていなかった千種に、大変助けられる形となってしまった。
「これをどこに運べばいいのかしら?」
「あの、その前に一ついいか?」
「何かしら?」
「お前、どうして女子なのに僕の倍近い荷物を持つことができるの?」
その両肩にうず高く積まれた荷物を見上げて呟く。こいつ……どんな怪力してやがる……ッ⁉
「身体の使い方よ」
「身体の使い方なんて言葉で説明できる次元をとっくに超越してるだろ。物理的に可能かどうかの瀬戸際なんだよ。夕日を背負ったお前のシルエットがもう巨人なんだよ」
「そんなことはどうでもいいのよ――で、どこに運べばいいの? 重いから、早くしてほしいのだけど」
「あ、ああ……そうだな。悪かった。一階の視聴覚室に積んどけばいいらしい」
「なるほど、篠宮くんは私をAVの中に連れ込もうとしてるのね」
「無理矢理僕を貶めようとするな。あえてAV室って言わなかったんだから、お前も視聴覚室と言え」
「ふっ、お断りよ」
「まさかお断りされちゃったよ……」
移動を開始。
夕暮れの学校を並んで歩くというのは、殊の外ロマンチックなシーンだったのだけど、相手があの千種ということもあり、全く高鳴らなかった――相手が忘野先輩だったらと思うと、背筋に冷たいものが走る。
何の気なしに地面を見ると、実体よりも大きくなった二つの影が長く伸びていた。
人生は歩く影にすぎない――ふと、そんな言葉が思い出された。無学な僕はそれがシェイクスピアの言葉であることしか知らないけど……累あたりなら、言葉の意味も知っているだろうか。
「なあ、千種。正しさって何だと思う?」
何となくおセンチな気分になって、そんなことを口走った。
忘野先輩に言われた言葉が、頭の隅で反響している。
こんなディープな話題をいきなり振るのもどうかと思えたが、しかし、『殴る哲学者』こと、千種美穂以上に、この話を振るに適した人はいないようにも思えた。
そんな僕の言葉に、千種は一瞥もくれず、
「え? なに、急に? キモッ」
と、言った。
おい。
「ヘラるなら私以外に対してしてもらっていいかしら。あまりにも気持ち悪くて、思わず気功砲を出しかけたわ」
「思わずで出せるもんなのか、それ……」
代償として生命力を持っていかれる気功砲が思わずで出ちゃうのは、マズいだろ――気功砲も、彼女なら或いは出せるかもしれないと、思わせるだけの力がある。千種は、聞くたびに違う武術を修行している、面白い奴でもあるのだ。
「まあ、千種――そうツンケンせずに付き合ってくれよ。今日だけは、お願いだから」
「………」
ここでようやく、彼女は探るような視線を僕に向けた。一瞥と言っていいような目配せだったけど、彼女は小さく息を吐きだすと、
「――まあ、良いでしょう。偶にはこういう話も、悪くない死ね」
と、少し早口で言った。どこか照れたような彼女の反応。その頬が少し赤く見えるのは、夕日だけのせいでは……………………悪くない死ね?
「失礼、ドジったわ、ならぬ誤字ったわ。悪くないしね、と言おうと思ったのよ」
「………」
その相変わらずなフリーダムな発言は、この際、目を瞑るとする。この程度で事を荒立てていては、彼女と会話することはできない。
「さて、何の話だったかしら? たしか……
「誰だよ、忠さん」
僕が俎上に上げたのは、正しさについてだ――そう言うと、彼女はリターンエースのように、
「正しさね。そんなものは存在しないわ」
と。
バッサリと切って捨てて見せた。熟練の辻斬りを思わせる、達人の如き切り捨て御免だった。
「……存在しない?」
「ええ、忠さんなんて存在しないわ」
「忠さんは存在するだろ。そのネタ、僕にはあんまウケてないから擦るな」
「ほら、巷間よく『正義の対義語はまた逆の正義だ』とか、『人の数だけ正義がある』とか言うじゃない? ――あれ、私は好きじゃないのよね」
「ほう」
「『人間は 自分は絶対に正しいと思い込んだ時に 最も残酷な事をする』――司馬遼太郎の言葉だけど、私はこっちの方が、納得できるのよ。私はこの言葉を『人間は正しさを確信した瞬間に間違える』という意味だと解釈したわ」
ここまで話したところで、僕らは昇降口に到着した。
大荷物の千種を置いて、僕は一旦職員室に向かう。そこで視聴覚室の鍵を借りて、千種と再び合流した。
「――つまり千種、お前は、正しさを確信した人間は間違えてる――それはつまり矛盾してるから、正しさなんて存在しないと、そう主張するわけだな?」
「そうよ」
「なるほどな……」
それもまたどこか極端な、片手落ちの意見に思えたけど、納得できる部分が皆無というわけでもないのだった。
「篠宮くんはクリスティは読むかしら?」
「アガサ・クリスティか? いや、恥ずかしながら、ほとんど読んだことないな」
「そう……じゃあ、探偵ものの小説は? 或いは、ドラマでもいいけど」
「?」
また脈絡のない話が始まったのかと、このフリーダムな友人に目を白黒させつつ、僕は何とか答える。
「まあ、それならいくつか見たことあるぞ」
「なら、謎を解いて犯人を追い詰めた探偵役が、犯人の罪を黙認し、警察に真相を話さない――という展開を、一度は見たことがあるのじゃないかしら?」
「まあ……あるな」
「犯人にどうしようもない犯行動機があるときに使われる、言ってしまえば探偵ものの伝統的なお約束展開なのだけど。篠宮くんはそういうの、どう思うタイプ?」
どう思うタイプと言われても。
どのタイプがあるのかわからないので、一先ず思ったことを口にする。
「僕はそういうのは、あまり感心できないかな。どんな理由が会っても、やっぱり法の裁きは受けるべきだと思う。犯行動機に同情できる理由があるなら、裁判には情状酌量という要素があるわけだし――あえて小難しいことを言うなら、法の絶対性の為にも、探偵が勝手に判断せず、一度司法の手に渡ってほしいとは思う」
「あらそう。篠宮くんは冷血漢なのね」
「おい」
「冷血漢、略してケツなのね」
「おいおい」
「まあそれは冗談として」
と、千種は一度区切る。
品のない冗談だったな……。
「篠宮くんの意見は真っ当だけど、でも、現実として探偵ものに『罪を黙認する情の深い探偵』というテンプレートが遥か昔から受け継がれてきたということは、大衆の、それも決してマイノリティではない意見として『仕方のない犯罪は、法の裁きを受けなくてもいい』という価値観があるということなのよ。私もそういうタイプだわ」
「それが最初の話とどう繋がるんだ?」
「情と正義の関係に繋がるのよ。篠宮くんの言う通り、犯罪を黙認することは正しいことではないわ――それはみんなわかってるのよ。でも、正しさよりも人情を大切にしたい人もいる。人は、正義を確信した瞬間、温情を忘れてしまう生き物だから」
嚙みしめるように、千種は言った。
気が付くと、日はほとんど落ちて、外は暗くなっていた。作業を終えた僕らは、視聴覚室の鍵を返して、帰路につく。
ご自慢のロードレーサーを押して歩きながら、千種は話を続けた。
「正しさなんて存在しない――というのは、だから、私の一意見に過ぎないのだけど、事実として、正しさよりも優しさを優先する価値観が存在するということは、覚えておいてもいいかもしれないわね――『判断に迷いのある時は、慈悲の道を取れ』……ドン・キホーテの言葉よ」
と、千種は締めくくった。
なるほど『殴る哲学者』らしい、乱暴に見えて、その実示唆に富んだ意見であった。彼女にこの話を振ったのは間違いではなかったらしい。
――ただ、
「なら、千種。お前が正しさよりも優しさを優先するというなら、僕にももっと優しくしてくれていいんじゃないか?」
僕がそう言うと、彼女は自転車に跨りながら、
「寝言は寝て死になさい」
そう言って、颯爽と走り去っていった。