「おやおや、そこにおわすは、わたしのリョータ先輩ではありませんか?」
帰り際のことである。
教室で荷物をまとめていた際、教室の入り口からそんな台詞が聞こえてきた僕は、一先ずそれを無視することにした。
「おや、リョータ先輩ともあろうお方が、わたしの声を聞し召されていない様子。もう少し大きな声で呼ぶべきでしょうか?」
「………」
「リョータ先輩! あなたの一番の後輩兼、奴隷の
「………」
「おや、リョータ先輩ともあろうものがまだ聞こえませんか。仕方ありません。あまりこの技は使いたくなかったのですが……こうなれば、激振孔を突いて本気の大声を披露するしかないようですね!」
「やめろ! 動脈が破れるリスクのある秘孔をこんなことの為に使うな!」
聞こえてないんじゃないんだよ、無視してんだよ。気付けよ。
「なんだ、聞こえていらっしゃったのですか、リョータ先輩。お耳が聞こえなくなったのかと、それはもう心配しましたよ」
「何で普通に無視されてるって発想が出てこねぇんだよ」
「はっはっはっ、異なことを言うリョータ先輩ですね。わたしのリョータ先輩が、あなたのわたしを無視することなど、あるはずがないでしょう」
「お前のリョータ先輩は、この世には存在しないんだよ」
異なことを言うって――現実でその表現を遣う奴、初めて見たよ。
「それで? 何の用なんだ、相庭」
「はい。実は御遣いなのです。ユキちゃんに頼まれて、リョータ先輩を迎えに来て差し上げました」
「雪姫に?」
それはまた。
相庭に呼び止められただけならば、無視して帰ろうと思っていたところだが、雪姫に呼ばれたというならば、話くらいは聞いてもよかろう。
「でも、どうして自分で呼びに来ないんだ? 雪姫が自分でくればよかっただろ」
「ふっ、無知とは恐ろしいものですね。雪姫ちゃんは今や、一年生の間では姫そのものですよ。人を遣うくらい、顎でやってのけるのが当たり前の立場なのです」
「そんなわけないだろ。あいつはそんなタイプじゃねぇ。親友のイメージダウンを図るな」
姫そのものって……。
まあ、雪姫の真意がどこにあろうと、やはり僕に断る理由はない。僕は小さく累と星川に目配せして、
「じゃあ、相庭、雪姫の下に案内してくれるか?」
と、言った。
「心得ました。案内して差し上げましょう。背中に乗っていいですよ」
「いいわけあるか」
廊下に出る。
放課後の廊下には二年生があふれかえっていた。相庭を連れて歩く僕に、同級生たちは冷やかしの声を浴びせてくる。鬱陶しいと言えば鬱陶しいが、これが彼らなりの信愛の表現なのだと、今はわかる。
青春は排他的だ。
彼らは興味のない存在を、視界に収めることすらしない。
「リョータ先輩は、ギャル先輩とはうまくいっていますか?」
僕らが階段に差し掛かった時、相庭は唐突に、そんなことを訊いてきた。
厚かましい相庭だが、意外とプライベートなことは訊いてこない彼女である。その相庭の少しだけ踏み込んだ世間話に、僕は首を捻った。
「なんでそんなことを訊くんだ?」
「いえ……気になったからです」
「お前にしては珍しく口幅ったいな。どうしたんだ?」
「いえ、さしものわたしも、どこまで踏み込んでいいものか、悩むところでありまして」
「やけに回りくどいな……僕と星川の関係だっけ? 順調だよ。クリスマスも、既にデートの約束をした」
「ほう、リョータ先輩とギャル先輩はクリスマスにデートをする派でしたか」
「クリスマスにデートしない派閥のカップルが存在するのか?」
「いえ、イブにデートする派閥がいるでしょう。いえ、もしかしてイブもデートをする派閥ですか?」
「いや、さすがにそんなべったりじゃないよ。何やかんや、僕と星川も半年くらいの付き合いになるしな。そこまでアツアツな関係じゃない」
「そうでしたか……」
うんうんと頷く相庭は、一丁前に何か考えてるような顔をしている。
どうせ碌なことを考えているわけではないだろうが、考えることはできるらしい。何を考えるのか、いちいち問い詰めるようなねちっこさを嫌う僕ではあるが、相庭には気兼ねなく聞くことができる。そういう接しやすさが、このお馬鹿ちゃんの唯一に近い美点なのかもしれない。
と。
思って、相庭に声を掛けようと思ったより先に、相庭が口を開いた。
「では、わたしがユキちゃんを呼んできますので、リョータ先輩は教室の外でお寛ぎください」
「下級生の教室の前で寛ぐことはできないから、可能な限り早く雪姫を連れて来てくれ」
「了解仕りました」
敬礼をして教室に消えていく相庭を見送る。
教室の外で待っていると、後輩たちにちらほら話しかけられた。どうも文化祭の演劇効果は未だ効力を失っていないようで、僕という先輩は一年生にもそれなりに覚えがいいらしい。
後輩たちをあしらっていると、ほどなくして雪姫が出てきた。
彼女はその双眸で僕の存在を認めると、柔らかく微笑む。
「涼太さん」
「ん」
これは返事をしたのでなく、違和感が口から言葉となって出てしまっただけのことだった。
涼太さん。
いつからか、彼女は僕のことをそう呼ぶようになった。たぶん、涼太さんと呼ばれている期間の方が長いくらいなのだが、僕は未だに、その呼称に慣れない。
「僕に用事だって?」
「はい。お呼びだてしてすみません」
「別に、なんてことないよ――それで、どんな要件だ?」
「あの……いえ、直ぐに済む話ではないので……その……この後、時間ありますか?」
雪姫は揺れる眼を僕に向ける。
断るのも難しい雰囲気。
「ん……まあ、時間はあるけど……」
「では、一緒にカフェとか……ダメですか?」
「…………………………いや」
雪姫の積極的な姿勢にやられた――わけではなく。
夏の日、彼女に重大な嘘を吐いたことが、それをまだ隠したままであることが、未だ、僕の良心に呵責を生んでいる。
恋人がある身で、まして、元カノと言っていい相手と――普通なら、一発で不貞と判定されてもおかしくないところではあるが、或いは彼女なら許してくれるのではと、そんな甘えた考えが僕に欠片もなかったとは……言えない。
「ちょうど甘いものを食べたい気分だったんだ。カフェ、行こうか」
「本当ですかっ⁉」
嬉しそうな顔を、する。
不義理をしている感覚があった。でも、雪姫の誘いを断るのも、同じくらい不義理を感じたと思う。僕にはどうしようもなかったと、自分に言い訳をした。
跳ねるような足取りで鞄を取りに戻る雪姫を、クラスメイトが冷やかすような、祝うような調子で迎えていた。
姫。
とは言わないでも、人気者であることは間違いない。初めて会った時、クラスに上手く溶け込めていないことを悩んでいた彼女が――その躍進を、ただただ嬉しく思う。
「涼太さん、行きましょうか」
雪花のように笑む雪姫。
無表情キャラだったはずの彼女の変化――成長と呼ぶべきか――それを、ただただ嬉しいとは、それだけは、どうしも思えないのだった。
◆
何かの間違いで星川とバッティングしても気まずいので、あえて有名なカフェにはいかなかった。寂れた――という表現はあまりに攻撃的だけど、落ち着いたと表現するにはあまりに過疎なカフェで僕と雪姫は対面していた。
甘いものを食べたかったという僕の言葉に嘘はなく、僕はミニサイズのパフェを注文していた。雪姫はコーヒーを注文していて、注文を運んできたアルバイトの女の子が、僕と雪姫のオーダーを間違えたのが印象的な出来事である。
「――それで、僕にどんな用だったんだ?」
「はい。あの……クリスマスのことなのですが……クリスマスは星川先輩とご予定ですか?」
「ああ、そうだけど。何で知ってるんだ?」
「カヤちゃんが教えてくれました」
「……なるほど」
「それで、その……イブのことなのですが……」
雪姫はコーヒーを一口含む。その手は微細に震えていた。
コーヒーを飲み下した彼女は、小さく息を呑んだ。
「い、イブの予定を私に!」
「私に」のところで、雪姫の声はひっくり返って完全に裏声になっていた。雪姫は口を閉じる。その真っ黒な瞳と視線が交錯した。気まずい沈黙が静かなカフェを支配する。
頬を赤らめる彼女に僕がドギマギしたのは、無表情な彼女へのギャップ萌えみたいなものだと、誰にともなく言い訳しておく。
「まあ、甘いものでも食べていったん落ち着け」
沈黙に先に耐え切れなくなったのは僕だった。
目の前のパフェを押して、雪姫にあげる。僕がスプーンをもうひとつ貰おうと店員に視線を寄越した隙に、彼女は、
「ありがとうございます」
と言って、僕が使っていたスプーンでそのまま一口パフェを食んだ。スプーンを
「イブの話ですが――」
雪姫はパフェを僕に返しながら話を元の軌道に戻す。
「クリスマスイブ、私に付き合っていただけませんか?」
「……それはつまり、相庭も誘って三人でか? それとも、もっと色んな奴を誘って?」
雪姫は首を振った。
その反応は、予想していたところであった。相庭を誘う予定があるなら、今この場にいないのはおかしい。
「一対一、二人っきりで、です」
言葉にされると――言葉にされずとも、それはデートと言えるものに聞こえた。
返答に窮する。
「食べないんですか?」
雪姫がパフェを目線で示す。
「ううん、いただくよ」
いただくというか、これはもともと僕のもののはずだが。少し混乱している。パフェを一口頬張った。クリームの濃厚な甘みが口内を満たす。
甘味で少し心を落ち着かせてから、僕は何とか口を開いた。僕の考え着く中で、一番当たり障りのない断り方を。
「……ごめん。イブの件だけど。その日はクラスでの集まりに参加するつもりなんだ」
「キャンセルしてください」
雪姫は言う。
いつの間にか、その顔から赤みは引き、見慣れた無表情に在る黒曜の瞳は、ぽっかりと穴が空いているように、僕には見えた。
息を呑む。
気圧されるように、僕は言葉を紡ぐ。
「クラス会だから……まあ……キャンセルは、できると思うけど――でも雪姫、知ってるだろ? 僕には恋人がいるんだ。それなのに、よりにもよってクリスマスイブに他の女の子と二人っきりっていうのはちょっと」
僕がそう言うと、雪姫少し、口端を動かした。
ポーカーフェイスと言って差し支えない彼女だけど、僕にはその表情は痛みに耐えるように――そして、怒りに震えるようにも見えた。
「星川先輩には……内緒にしてください。星川先輩に内緒で、イブを私と過ごしてください」
「雪姫……それは……」
「今こうして喫茶店に二人で来ているのと同じように、同じスプーンで同じパフェを食べたみたいに、軽い気持ちで来てくれたらいいんです。星川先輩を裏切る意図はなくていいんです。どうか……どうか……」
終いには、雪姫は泣きそうになって言った。
僕は激しく動揺する。頭の中で様々な言葉が浮かんでは消え、浮かんでは消えた。返答を間違えれば、僕は彼女を決定的に傷つけてしまうのだと察した。僕は鈍感じゃない。鈍感じゃないから、もし断れば雪姫を悲しませてしまうことはわかったし、鈍感じゃないから、彼女の意図にも――好意にも当然のように気付いていた。
思考はぐちゃぐちゃに掻き乱されていて、自分の感情がわからなくなっていた。
そうやって僕が返答を遅らせれば遅らせるほど、雪姫の表情は炎に焙られた蝋のように歪んでいった。
「――わ、わかった」
しばらくして、僕は口を開いた。心は未だ、追いついていなかった。
こうは言ったが、僕がわかったことなんて、僕は困ったとき「わかった」と言う癖があるということだけだった。
「イブの予、定は空、けておく、よ」
何故僕の日本語がおかしくなってしまったのか――わかる人がいるなら、教えてほしいくらいだった。
僕の不格好な言葉に、しかし雪姫は救世主を見たような顔になって、
「よかった……よかった……」
ありがとうございます、と、彼女は繰り返した。
そして微笑んだ。
その雪花のような微笑みに、僕の心はキリリと軋んだ。