意味もなく夕焼けを見ながら黄昏るシーンをドラマで見るたびに、『そんな奴いねぇよ』と笑ってきた僕であるが、今日の僕は正しくそんな奴だった。
クリスマスイブまで一週間を切った放課後のことである。
僕は星川含む友人たちの誘いを全部断って、わけもなく学校の屋上に来ていた。寒風吹きすさぶ屋上は沁みるように寒く、吐く息はオレンジの夕日を乱反射して煌めく。
沈みゆく太陽を眺めていると、心が少しは落ち着く気がしていた。
けれどもそんなことは全くと言っていいほどなくて、僕の心はいつまでも混沌としていた。
そんな風に屋上で黄昏ていると、軋んだドアの音が聞こえた。
音に視線を寄越すと、屋上のドアが開閉している。出てきたのは、僕らのクラスの担任の新庄先生だった。
「新庄先生……どうも」
「ああ、篠宮、お疲れ。そろそろ施錠したいんだけど……てか、こんなとこで何してんの?」
「いえ、別に、ちょっとカッコつけてただけです」
新庄先生は僕の顔を見つめて数秒黙った。そして「あ、そう」と言って屋上に足を踏み出す。
「先生?」
施錠するんじゃないんですか、という意図を込めて呼びかけるが、新庄先生は答えない。彼女はそのまま僕が立っていた場所の傍らにあったベンチに腰を下ろすと、胸元から何かしらの箱を取り出した。
――何かしらの箱というか……僕くらいの年齢の子供だと、もはや実物を見るのも初めてなのだが、それは煙草のケースだった。
新庄先生は慣れた手つきでケースから一本、煙草を突き出し、それを咥える。
「ちょっと先生、何自然な流れで一服しようとしてるんですか。生徒の前ですよ。てか、ここ学校ですよ」
「うるさいわね、篠宮。学校の先生ってのはね、クソみたいにストレスのたまる仕事なのよ。煙草と酒を辞めたら、一週間で閉鎖病棟行きよ」
「いえ、ですから、煙草吸うのは結構ですど、ご自宅で吸ってくださいって言ってるんです」
「うちのマンション、ベランダで煙草を吸うのも禁止なのよ。部屋の中だとほら、匂いついちゃうから吸いたくないじゃない」
「いや、知らないですけど……あ、ちょっと」
僕の忠告を一切無視して、新庄先生はマッチ箱を取り出して、煙草に火を点けた。不覚にも、マッチを振って火を消すその仕草は、カッコいいと思ってしまった。
「それで篠宮、悩み事?」
新庄先生はそう切り出す。
煙草に関しては知らないからな、と思いつつ、僕の顔はそんなにわかりやすく悩み顔になっているのかと、ちょっと恥ずかしい気持ちになった。
変に強がってもカッコ悪いので、僕は正直に言葉を返す。
「まあ、はい」
「人間関係の悩みでしょう?」
「まあ、そうなんですけど……何でそんなインチキ占い師ごっこしてるんですか? バーナム効果なら、僕も知ってるから意味ないですよ」
「恋の悩み?」
「強行しようとしないでください。僕くらいの男子は、誰だって恋に悩んでるものです」
「――で、誰に告られたの?」
ツッコミを入れようとして、僕の口は空回転した。
何で知ってるのか……と、言ってしまうほど、僕は馬鹿ではないが、新庄先生は、僕の反応からどうにか堪えた言葉も汲み取っているようだった。
「教師っていう職種にはね、二種類の奴がいるのよ。つまり、大学で教育学部に行って、何となく教員免許を取って、モラトリアムの中で自分のやりたいことを見つけられなかったから、何となく教師になったロクデナシ」
それから――と、新庄先生は二本目の指を上げる。
「子供の成長を心の底から喜べて、あまつさえそれの手助けになりたいとかアホみたいなことぬかすヘンタイよ」
「………」
「ちなみにあたしは、前者ね」
「そこは、後者じゃなきゃダメでしょ!」
「そうね。そうありたいと――そうなりたいと、先生も思ってる」
噛みしめるように言う、新庄先生。
そこには、生徒にとって接しやすくて、明るくて、婚活ネタを一生擦ってる見慣れた担任の姿はなく、煙草をふかすひとりの大人がいた。
「あんたたち生徒が思ってるより、あたしたち教員はあんたたち生徒のこと見てるもんなのよ。ここは高等学校だから、いちいち口を挟んだりはしないけど、目は光らせてる。篠宮がどんな人間関係を構築してるかも、ざっくりとは把握してるのよ――特にあんたは、リーダータイプの生徒だからね」
「……そうですかね?」
「そうよ。篠宮は自覚ないタイプだろうけど。周囲に合わせたり、誰かに追従することを選ばないタイプ。そういう人間は、本人がどう思っていようと、勝手に周りが調子を合わせて、勝手に振り回されて、気付いたら、勝手にリーダーにされてるのよ――本人が望んでなくてもね」
「………」
「だから少し心配。篠宮は、大人ぶってるけど、中身はまだまだ子供だから」
と。
その言葉には僕はちょっとした反感を思えた。
「僕、言うほど子供ですかね? 自分で言うのもなんですけど、結構成熟してる方かなって自己評価してたんですけど」
「成熟は全然してないわよ。あんたは賢いから、周囲には大人っぽく映るかもしれないし、本人もそのつもりかもしれないけど――大人ってのはね、賢ければなれるもんじゃないし、年を取ればなれるもんでもないのよ。むしろ逆かもしれないわね。賢い子ほど、精神的成長は遅くなりそうなものだし、年を取るほど、精神的成長の機会は少なくなるから。篠宮は賢いけど、賢いせいで子供のままね」
「じゃあ、大人にはどうやったらなれるんですか」
「すねるんじゃないわよ。これこれやったら大人になれます――なんてものが存在するわけないでしょ。少しずつ子供じゃなくなっていく……それしか大人になる方法は存在しないわ」
新庄先生は煙を吐いた。
イメージよりも清涼感のある匂いが鼻に付く。煙草といえば、薪をくべた焚火のような匂いをイメージしていたのだが、どうもそういうわけでもないらしい。
「――ていうか、新庄先生、せめて風下で吸ってくれます? 僕の制服に匂いが付いたらどうしてくれるんですか。他の先生に喫煙の嫌疑をかけられた、僕、迷いなく新庄先生のこと売りますからね」
「篠宮……『清濁併せ吞む』って言葉は知ってる?」
「知ってますけど、じゃあ、煙草吸ってオッケーとはならないですよ」
清濁併せ吞むというのは、善悪を区別なく受け入れる度量の広さを喩える言葉だ。
「やっぱり、篠宮は子供ねぇ」
「……そりゃ、未成年は喫煙できないって法律で定められてますからね。それに関しては僕が子供のせいじゃないです」
「そうじゃなくて」
言いながら、新庄先生は風下に移動してくれた。
「清濁併せ吞むってのはね、穢いものを受け入れられるようになることを差す言葉なのよ。人は誰しも生まれたときは善心を持っていて、大人になるにつれて悪心を獲得していくものだから」
「……性善説ですか?」
「そんな小難しい話はどうでもいいのよ――いい? つまりね、世の中にはあっちを立てればこっちが立たない、みたいな状況はしょっちゅうあるのよ。恋愛なんてその最たる例ね。誰かを選ぶことは、つまり誰かを選ばないことだから。人はただ生きているだけで、誰かを不幸にしなくちゃならない時があるのよ」
「………」
「篠宮は賢いからわかってきたみたいね……そう、あたしがあんたのことを子供って言ったのは、そういうことよ。色んな人から好意を寄せられて、期待を寄せられて、信頼を寄せられて……でも篠宮がどれだけ賢くてもその全てに応えることはできない。応えることも、堪えることもできない。友達が増えるほど、交友が広がるほど、全てを請け負うのは難しくなっていって、最後は絶対に支えきれなくなる」
「でも」
「でも僕は自分のせいで誰かを悲しませたくない、って? ――それが子供だって言ってるのよ。恥ずかしいほど青臭くて、見てられないくらい痛々しくて……だけど愛おしいくらい純粋な、篠宮の幼さ」
僕の、幼さ。
「何かを選ばなきゃいけない、誰かを選ばなきゃいけない……つまり、誰かを選外にしないといけない。誰かを傷つけなきゃいけない。誰かを傷つけることで、自分を幸せにしてあげなきゃいけない。悩んで黄昏れて、溜息吐いて、鬱になって、辛くなって、悩んで悩んで悩んで……自分は何様だって恥ずかしくなりながら、自分を嫌いになりながら、選ばなきゃいけない」
「………」
「あんたが悲しませちゃいけない人はね……それは自分自身だけよ。他の誰かを傷つけながら、自分だけは自分の味方になってあげなきゃいけないの――そういう自己中心的で、ナルシスティックで、嫌な自分に死にたくなるほど恥ずかしくなりながら、人は大人になっていくの」
熱く語る新庄先生の煙草は、いつの間にか火が消えていた。新庄先生はそれを携帯灰皿に押し付けながら、「熱くなっちゃった」と、照れたように笑う。そこには、見慣れたあの親しみやすい二年一組の担任教師がいた。
「よーし、先生も篠宮を見習って、婚活頑張っちゃうぞ―。高身長高収入高学歴で、優しくて男気があって会話も上手でユーモアもあって、でもピュアなところもあって一途な男をダース単位で引っ掛けてやる!」
拳を突き上げながらふざけたことをぬかす新庄先生に、僕は不覚にも噴き出すように笑ってしまった。何だか、久しぶりに笑ったような気がした。
「大人ですね、先生は」
僕の呟きに、新庄先生は「まだまだよ」と
「誰だって道半ば。先生だって、まだまだ成長するわ」
その言葉が、もう僕からすれば――幼い僕からすれば充分大人なのだけど。
僕は少しだけ、彼女のような大人になりたいと、思ってしまうのだった。
「――あ、先生が屋上で煙草吸ってたのはくれぐれもナイショね? クビが飛びかねないから。本当に頼んだわよ、篠宮」
「ふざけんな。僕の感動返せ」