「いっそ、私を殺してください」
そんなことを言う雪姫の瞳は、深海を思わせるほど真っ暗だった。
前田の情緒がおかしくなった時を思い出す。あの時の前田も、真っ暗な瞳をしていた。ただ、前田には引き込まれるような暗さだった。のちにそれは、その奥に潜む妖しい魅力がそうさせたのだと知った。
雪姫の黒はただそこにある黒だった。だから、深海というのは表現として正しくなかったかもしれない。彼女の瞳は言うなれば、電源の入ってないパソコンの画面のようだった。
「………」
僕は彼女の首筋に手を添えたまま、しばし言葉を失った。
頭の中に様々な感情が蠢動して、脳髄は痺れるように痛む。何か言わねばと言葉を探したが、僕の中から生まれた言葉は、全て海風が浚っていってしまった。
「!」
硬直する身体に鞭を打つように、僕は何とか彼女の手を振り払って二歩か三歩ほど引き下がる。距離を取ったというよりは、恐れを為した男の挙動だった。
そうすると、忘れていた呼吸を思い出すことができた。
カラカラになった唇を動かして、雪姫に言葉を投げる。
「雪姫……それは、重いよ……」
僕の言葉に、彼女はたしかに傷ついたような顔をした。
しかし、
「それでもいいです。どうでもいいんです。私は、ただ……ただ、涼太さんに――」
「雪姫の気持ちは嬉しい」
遮るように、僕は言った。
「でも、その気持ちには応えられない。それが僕の答えだ」
「そんなこと……言わないでください……涼太さんならきっと、何とかできるはずです。私には思いつかないような方法で、誰も傷つかない解決策が、きっと……」
「そんなものはない」
あったなら、よかったけど。
或いは、あるのかもしれないけど、僕はそれを知らない。
誰も彼もは幸せにできない。人は生きているだけで、誰かを不幸にしなければならないことがある。それでも、選ばなければならない。
「僕は僕を幸せにしなくちゃいけない。だから……ごめん」
雪姫は泣いていた。
立ったまま、真っ黒な瞳を丸めて、瞬きすることもなく、えずくこともなく――ただ滂沱の涙を流していた。
「どうして……どうして、私を、選んでくれないんですか?」
もはや激しさはない。出会った頃のように平坦な声音の雪姫が問う。
どうして私じゃダメなのかと、僕に問う。
「半年前の僕が星川を選んだからだ」
お前よりも星川が好きだから――と、そう言えばそれまでのことだったけど……僕は雪姫に、そして自分に嘘は吐けなかった。
「何か掛け違えば、僕は雪姫を選んだかもしれない。ほんの少しのタイミングの違いで、僕は全く別の誰かに恋をしたかもしれない。僕の意思なんて、そんな紙っぺらより薄弱なものだけど、でも、僕は星川を選んだんだ。僕が選んだんだ。僕は僕の選択に責任を持たなければいけない。僕は星川のことを好きじゃなくなるまで、好きでいなきゃいけないんだ――だから僕は僕の都合で、雪姫、お前を選べない」
自分の言っていることに、僕は顔から火が出そうだった。
なんて自意識過剰で、なんて傲慢で、なんて自己中心的。死にたくなるほど恥ずかしくて、殺してやりたくなるくらい自分の事が嫌いになりそうだ。
でも、そうしなければならなかった。こう言わなければならなかった。
僕はそう思う。
まだ、僕は雪姫に、そして雪姫は僕に言いたいことがあったと思う。
でも、タイミングの悪いことに電車がホームに入ってきたので、それらは終ぞ言葉になることはなかった。ゆったりと入ってきたレトロな電車に乗り込み、僕らは帰路に付く。夕日の赤色に沈んだ電車の席に、僕と雪は一つ空席を挟んで座った。
「どうして……」
車窓から雪の舞う海を眺めながら、雪姫は呟いた。
先ほどの話の続きかと思って身構えた僕だけど、違った。
「どうして、こうなってしまったのでしょう……」
後悔の滲む声で、雪姫は言う。
「本当は、もしフラれても素直に納得して、潔く引き下がるつもりでした。好きになった人のことを一番に考えれて、迷惑を掛けない、そんな女の子でいるつもりでした。デートの計画を練っているときも、今朝家を出るときも……涼太さんに告白する直前まで、そのつもりでした。なのにいざ言葉にすると、心の底から我儘の虫が出てきて、どうしても諦められなくて……泣いたり喚いたりするつもりなんて、本当になかったんです……本当に、なかったんです……」
その独白は、雪姫は雪姫なりに、自らの闇を吞み下そうとしているのだと僕は思った。
僕は絞り出すような口調で答える。
「そんなになるまで僕を好きになってくれてありがとう。本当に嬉しいよ」
僕のキャラクターに合わない、クサすぎるセリフだった。
けど、言わなければならない言葉だと思った――いや、それも違う。僕が言いたいと思った言葉だった。だから僕はそう言った。偽らざる本音だった。
それ以降、僕らは帰り着くまで無言だった。
僕たちはまだまだ子供だった。
誰も、僕たちを赦してはくれなかった。
◆
家に帰り着いて、直ぐに布団に潜った。
夕飯の時間には間に合っていたが、外で食べてきたと嘘を吐いてしまった。食事が喉を通るような気がしなかったから。
芯まで冷え切った身体が、羽毛布団の温もりでじんわりと温まっていく。しかし、凍てついた心が氷解することはなかった。
まんじりともせず天井を眺めていたが、一時間もしない内に飽きてスマホを眺めることにした。
電源を付けると、SNSにたくさんの通知が来ている。そういえば今日はクラス会だった。彼らの盛り上がり具合を窓の外から眺めるような気持ちで見る。
そしてそれを直ちに後悔した。
手の届かない、電子の壁の向こう側。そこに一枚の画像が貼られていた。
おそらく、集まった皆で集合写真を撮ろうということにでもなったのだろう。クラスメイトが集まって笑っている写真だった。中央の方には星川と前田がいて、端には普段通りの千種と、少し恥ずかしそうにした累が映っている。
僕は間違いなく動揺した。
ただ、何故動揺したのかは自分でもわからない。
僕は逃げるようにSNSを閉じた――ちょうどそのタイミングで、一件の通知が画面上部に表示される。それは忘野先輩からのメッセージだった。躊躇いながら、表示する。
『雪姫の告白にはなんて答えたのかな?』
息が止まった。
しかし、考えてもみれば、彼女がこの事態を見透かしてるのは当たり前のような気がした。
『君のことだから断ったのかな?』
『それとも二股を決意した?』
返信はできない。
けど、彼女からのメッセージは止まらなかった。
『冗談冗談』
『本当は帰ってきた雪姫の反応を見て、断ったのは察しが付いてるよ』
返信をしようとしても、指が縺れて上手くできなかった。仕方なく、電話をかける。ワンコールで出た。
『もしもし?』
「………」
何も考えずに電話を掛けたので、何と言っていいかわからなかった。言葉を探してから電話するべきだったと、今さらのように後悔する。
「……忘野先輩に、聞きたいことがあります」
『唐突だね。うん。いいよ』
「雪姫のこと、わかってたんですか?」
下手くそな日本語だと思った。
しかしこれで伝わるだろうという確信もあった。いつかの放課後、思わせぶりなことを言っていた彼女を思い出す。
『わかってたよ。私がわからないことなんて何もないんだから』
「………」
『断っておくけど、私は、それも雪姫に必要な経験だって思ったから放っておいたんだ。そして、君にとってもね』
「……忘野先輩がなにを考えてるのか、僕にはさっぱりわかりません」
『だから、成長を促したんだよ。君の成長をね。雪姫はまあ、そのついで』
「さっぱりわかりませんね。忘野先輩は妹のことを何だと思ってるんですか。自分をどれだけ偉いと思ってるんですか――第一、今回の一件で、僕は忘野先輩を嫌いになりましたし、人の好意を拒絶することを覚えました」
君が好きだよ、と、どろりと言った電話を向こうの彼女を想う。
「忘野先輩にとって何の意味があったんです。本末転倒で、目的を全く果たせてないじゃないですか」
『目的は果たせたよ。それに意味はあった、大きな意味がね』
「……?」
『篠宮後輩は悩んで、苦悩して、苦しみながら成長した。成長した篠宮後輩は以前よりもずっと魅力的になった。そんな君を私はもっと――』
忘野先輩は、艶っぽい声で続けた。
『もっと、好きになった』
だから意味はあった。
彼女はそう言って、聖夜の電話を終わらせた。