水族館を後にした僕と星川は、駅への帰り道をゆったりと歩いていた。ぐっしょりと濡れた背中は既に半分ほど乾いている。僕と星川の歩幅が半歩ほど合わないのは、僕らが本物のカップルじゃない証拠のようだ。
夕暮れに向かう時間のせいか、道は全く混雑していない。逆にそのせいで僕と星川の距離は離れているのだが、くっつきたいわけでもないので別に構わない。僕らは各々の歩幅で歩いた。
「篠宮さぁ」
「…?」
「結構いいデートコース知ってんね。水族館、楽しかった」
「それは何よりだわ。いや、ホントに」
水族館に行く、くらいしか決めていなかった大雑把なデートプランだったが、楽しんでもらえたなら計画した甲斐もあったというものである。昨日は緊張で夜も……まあ、ぐっすり寝たのだが、緊張していたのは本当だ。最悪、変な空気にならなければいい、くらいにしか思ってなかった僕にしてみれば上々の出来と言えるだろう。
「友達と水族館なんて……なかなか来ないし。新鮮だった」
「彼氏に連れてきてもらったこととかないのか?」
「彼氏とかいないし」
「じゃあ、元カレとか」
僕がそう言うと、少し先を歩いていた星川がくるりと振り返った。垂れ下がった髪の毛が、ふわりと追随する。
「あんたにひとつ言っときたいんだけど」
「胸を見すぎてることなら謝る」
「それはもう、諦めたっつぅの」
「なら、なに?」
「……」
僕を見上げる星川からは、ただならぬ緊張を感じる。
なにか大事な話かもしれないな。そんな気がした。
「あたし、処女だからね。学校で色んな噂流れてるの知ってるけど、あれ全部嘘だから」
しかし、星川の口から飛び出したのは、そんな話。
「またまたー。僕には謙遜しなくていいぞ」
僕は慰めるように星川の肩に手を置いた。瞬時に振り払われる。
「その返しはおかしいっつぅの!」
「もっと自分の恋愛遍歴に自信持てよ。酸いも甘いも知り尽くした歌舞伎町の
「違う!」
「ま、冗談はこのくらいにして」
「いまの一連の流れ、絶対いらなかった!」
「…このくらいにして」
努めて無視する。
星川が脚を振って、蹴りを入れてきた。それをさらりと回避する。
「避けんな!」
「避けるだろ……それはともかく、僕があんな噂を信じると思ってたのか?」
「だって、噂ってそういうもんじゃん。どれだけ馬鹿馬鹿しくても、話してるうちに信じちゃうような…」
それはその通りだ。
星川という、学内でも特別目立つ陽キャラ。そんな彼女に、援助交際とか、年上の彼氏とか、そんなセンセーショナルな火種が投下されたのだ。燃え上らないわけがないし、鎮火も容易ではない。
噂なんて所詮そんなもの。実際、大半の連中も本気で言っているわけではないのだろう。しかし、星川のことをよく知らない奴からすれば真実味を帯びてしまうのも無理はない。だから、星川の心配も一概に杞憂とは言い難い。
とはいえ、である。
「ま、僕は学校じゃあ湯川ぐらいとしか話さないから、そんな噂どうでもいいくらいにしか考えてなかったけどな。実際に話してみたら、噂は所詮噂ってすぐに分かったし。たぶん、湯川もそう思ってる」
「まあ、それなら……別にいいけど…」
「それにしても、『あたし、処女だからね』は、思い切った発言だったな」
「ちょっ、誰かに聞かれたらどうすんの!」
「『あたし、処女だからね』は、思い切った発言だったなぁ!」
「うるさい!」
丁度通りがかった老夫婦が、「若いねー」と言いながら通り過ぎていった。
星川は頬を紅潮させる。相変わらず、揶揄い甲斐のある奴だ。
そのまま、再び歩き出す。ずれていた呼吸はいつの間にかぴったりと合い、僕と星川は隣を歩いていた。
「高二にもなって処女ってさ、恥ずかしいかな?」
そんなことを訊いてくる。
「…それ、僕に訊いてるのか?」
「むしろ、あんた以外、誰がいんだっつぅの」
「むしろ、僕以外の誰かに訊いてくれよ。僕は友達いないから、僕の意見しか言えない」
「じゃあ、あんたの意見でいいから」
「……」
そこまで言われるなら、答えないわけにもいくまい。
「…まあ、僕が星川以外で知ってる女子っていったら湯川しかいないけど、湯川は処女だな。そして、湯川は恥ずかしい奴だから、高二にもなって処女なのは恥ずかしいんじゃないか?」
「…なにそれ」
星川は少し苦笑いして、それきりだった。
二人連れだって歩く。
気づくと、空の色はみるみる赤くなっていた。
「ねえ」
「ん?」
「ひとつ聞いてもいい?」
躊躇いがちに、星川が言葉を溢す。
頷いて星川を促すと、車の音に搔き消されそうな声で訊いてきた。
「湯川と篠宮ってさ、お互いのこと、名字で呼び合ってるじゃん?」
「まあ、そうだな」
「あれって、なんでなのか訊いていい?」
「…なんでって?」
「だって普通、名前で呼び合うもんじゃん。小さいころからの付き合いなら」
僕の周りには僕らのような境遇の人がいないので、普通、というか相場が分からない。しかし確かに、創作の中の幼馴染たちは名前で呼び合っているような気がする。そういった観点で考えてみると、星川から見た僕らは、もしかしたら歪な関係に見えているのかもしれない。故に、その言葉は躊躇いを含んでいるのだろう。
「別に、なんとなくだよ」
「………そ」
「……」
「……」
「…いや、ホントになんとなくなんだよ。深い訳も気まずい理由もない。昔は名前で呼び合ってたけど、中学入った時に友達に揶揄われて、なんとなく恥ずかしくて湯川のこと名字で呼ぶようにしてたら、湯川もそれに合わせてきただけ」
僕も中学生の頃は、それなりに中学生していた。だから男の子特有の
高校生になってからは、新しい友達を作るのが面倒で湯川と過ごすことが多くなったが、呼び方はそのままだった。名前から名字で呼ぶのはなんとなくでいけるが、名字から名前は意外とハードルが高い。
「湯川のこと、ホントは名前で呼びたいと思ってるとかないの?」
「僕が? ないよ別に。呼び方なんて、なんでもいいし」
「てか、そもそも湯川の下の名前ってなんだっけ?」
「シキだ。累積の累で
「うわっ。すぐ出てくるじゃん。ホントは下の名前意識してるんじゃないの?」
「酷い暴論だ…」
罠にかかったというより、罠を投げつけられたような感覚である。
「そういえば、湯川の
「ああ。『シキ』をローマ字にして、ひっくり返して作ったらしい。コロンがどっから沸いてきたのかは僕も知らん」
「あはは。湯川っぽいかも」
「そうか? それでいうと、星川の【紅茶猫】はどういう意味なんだ?」
「意味とかない。単に紅茶と猫が好きなだけ」
「お前、紅茶好きなの!?」
「ギャルが紅茶好きじゃダメ?」
「ダメじゃないけど……こう、イメージがあるだろ。ほら、タピオカとか!」
「古っ…タピオカとか、あたしがギャルになる前の流行りなんだけど」
「マジか、星川にもギャルになる前とかあるのか。生まれた時からギャルなのかと思ってた」
「そんなわけないじゃん。この姿でママのお腹から出てくるとかありえないっつぅの」
「そうか……まあ、そうだよな」
言われて気づく真理というやつである。
突き当たった大通りの信号に引っかかり、僕らは足を止めた。これを渡れば、もうじき駅が見えてくる。僕と星川は電車が別方面だから、もうすぐデートも終わりだ。
「あたし、栃木の出身なんだよね」
星川が唐突にそんなことを言ってくる。
「栃木ね…」
頭の中で地図を開く。
栃木県……北関東三県の真ん中の県。たしか、新幹線が通っているはずだ。それ以外は……日光東照宮があることくらいしか分からない。
「栃木ってさ、関東にあるけど、結構田舎なんだよね」
「へえ」
「上京してくるまで、ギャルなんて見たことなかった。上京してきて、初めてメイクしたし、お洒落な美容室にも行った。ファッション雑誌読んで服の勉強もしたし、体型維持のために食事も変えた」
「それで? 『本当のあたしはこんなんじゃない』って?」
「そんなんじゃない。あたしは今のあたしのこと大好きだし」
「カッコいいギャルだな」
「カリスマ目指してるから」
その言葉がどれほど本気なのかは分からない。たぶん、あまり本気ではない気がする。
そんな話をしていたら、僕らを堰き止めていた信号が青になり、僕らは歩き始めた。すぐに、目的の駅が見え始める。
「栃木ってさ、海ないんだよね」
歩きながら、星川がそんなことを言った。
「ん? ああ、内陸県だもんな」
「だから、夏と言ったら海水浴、みたいな文化もなくて、あたし泳げないんだ」
「泳げないって、言ってたな」
「篠宮は泳げるって言ってたよね?」
「まあ、ひと通りな」
「やっぱりさ、カリスマギャルが泳げないのってどうかと思うじゃん?」
「思わないけど?」
「夏に、みんなでプール行ったときに困るじゃん」
「なるほど。みんなでプールね。僕にはない発想だった」
星川が呆れたような目を向けてくる。しかし、すぐに「ま、いっか」と、視線を前に戻した。
「…だからさ、篠宮、あたしに泳ぎ方教えてよ」
「え、今この場で?」
「バカなの? 普通にまた今度。次のデートはプールにしよ?」
「ああ。それならまあ……もちろん」
そんな話をしているうちに、僕らは駅に到着した。
お互いに「また、学校で」と、言い合って、僕らは各々の家路に着いた。