僕の恋路は壁が多い   作:銀楠

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やはり、スポーツはルールに則って行うべき

 

 

 結論から言うと、僕の心配は徒労に終わった。

 泳ぎを教え始める時は今日中には終わらないかもしれないと、というか、十中八九終わらないだろうと踏んでいたのだが、それはまさしく杞憂だったと言わざるを得ない。

 星川は一瞬で泳げるようになった。

 最初こそ水に怯えてはいたものの、そこを克服してからは本当に一瞬のことで、泳法に関してはちょっと教えただけで持ち前の運動神経とセンスを活かし、瞬時に会得した。といっても僕が教えたのはクロールだけだが。

 

 というか正直言って、この分なら僕が教えるまでもなかったのではとすら思う。

 インターネットで調べれば、星川ひとりでも習得できた説は濃厚だ。

 

 なんてことを考えても僕には一円の得もないので――

 

「ねえ、篠宮」

「ん?」

「泳ぐのって、めっちゃ楽しいね!」

 

 と、満面の笑みを向けてもらっただけ、労力分以上の何かを得たということにしておこう。

 

「………」

 

 プールサイドに座り、泳ぎ続ける星川を漫然と眺める。最初こそ溺れないかと冷や冷やしながら見ていたのだが、今ではそんな心配もない。ただゆったりとクロールを泳いでいるだけでも、スタイルがいい少女がやるととんでもなく映える。競泳を本気でやっている選手から見ればフォームの無駄は多いだろうが、そうでない僕からすると、星川は水に愛された少女のようにすら見えた。

 まさしく、水心あれば魚心。

 さっきまで泳げなかったなんて嘘なんじゃなかというくらい、星川は流麗に泳いでいる。ターンは教えていないので二十五メートルごとに止まってはいるが、されど休みなく泳ぎ続けていた。

 

 対岸へと離れていった星川が向こう岸の壁をタッチして、また戻ってくる。

 そしてこちら側の岸まで泳ぎ切った星川は、急に止まり、水面から顔を上げた。

 

「チョー気持ちい!」

 

 それがかのメダリストの名言を踏襲したボケだったのか、はたまたただの偶然の一致だったのか僕には判断がつかなかったので、僕は苦笑いをするに留めた。

 

「ね、篠宮。あたし勝負してみたい!」

 

 と、星川が言う。

 

「勝負? お股のカッコよさ勝負か?」

「それは湯川とやってろっつぅの! 違う! 湯川ともやるな! もう! あんたホント疲れる!」

「ははは。星川は今日も元気がいいな」

「うるさいっ!」

 

 星川が両手を振るって、大量の水をかけてくる。もうやめてしまったとはいえ、それなりの年月水泳教室に通っていた身からすれば顔に水をかけられる程度のことなんてことないのだが、それでもあえて、僕は大げさに仰け反った。

 

「で、勝負って?」

 

 と、話をもとの軌道に戻す。

 

「だから……あんたと、水泳で勝負したいの」

「ああ、なるほど。そういうことね。もちろんいいよ。受けて立つ。ハンデは五秒でいいか?」

「は?」

 

 星川は僕の言っていることが全く理解できないとばかりに首を傾げた。そんなちょっとした所作でさえ、水中でやると妙にエロティックだな、と思った。

 

「だから、ハンデ。今日泳げるようになった星川と僕とじゃ、実力に差があるだろ。たぶん五秒くらい遅れてスタートするのがちょうどいいと思うんだけど」

 

 僕がすました顔でそう言うと、星川の顔はみるみるうちに赤くなっていく。

 

「……っ。好きにすればいいじゃん! 言っとくけど、ハンデとか言って大差で負けたら、超恥ずかしいかんね!」

「そうなのか? それはいけないな。負けたときに僕だけ不利を被るのはフェアじゃない。星川にも何かしらのペナルティがあるべきだ」

「はあ!?」

 

 僕の当たり屋もびっくりな暴論に星川が声を上げた。僕はそれを尻目にプールへ体を投げ込む。急激に全身を襲った水圧に、僕の体が驚いているのを感じた。

 

「そうだな……もし僕が勝ったら、星川、お前のおっぱいを揉ませてくれないか?」

「死ねっ!」

「そう怒るなって。分かった。じゃあ、キスでいいよ」

「要求下がってないっつぅの!」

「ドア・イン・ザ・フェイス失敗か」

 

 そんな冗談を言いながら、全身をくまなく解す。水泳は全身運動だ。普段意識しないような部分とか、聞いたこともないような名前の筋肉が攣ったりする。溺れて死ぬ可能性もあるので、準備運動は大切だ。

 

「よし、じゃあ、始めるか。ルールは先に向こう側に着いた方が勝ち。僕は星川の五秒後にスタートする。これだけでいいよな?」

「それ以外なにがあるの?」

「競泳には本来、あれしちゃいけないこれしちゃいけないって細かいルールがあるんだよ。でも、面倒くさいからそういうのはなしでいいだろ?」

「オッケー。絶対負けないから」

「そう。じゃあ、星川の好きなタイミングでスタートしてくれ。僕はそっから五秒数えてスタートする」

 

 星川はギラリとした目をゴールへと向けた。それは湯川がガチでゲームをやっているときのようで。ゲーマーってのはどいつもこいつも負けず嫌いなんだな、とどうでもいいことに思考が向けられる。

 

 やがて準備が整ったのか、星川が壁を蹴ってスタートした。

 泳法は当然最速のクロール。

 激しく水しぶきをあげながら、瞬く間に星川が離れていく。

 しつこいようだが、やはり今日泳げるようになったばかりとは思えない。水の抵抗から推進力を得た星川は、五秒後には、それなりの距離を進んでいた。

 

 それを見ながら、僕はありったけの空気を肺に押し込んで潜った。同時にプールの壁面を蹴って、水の抵抗を減らす姿勢で数メートル進む。そしてそのまま浮上することなく、水底スレスレをドルフィンキックで進んだ。

 一度も、浮上することなく。

 

 結果的には、この勝負は僕の勝ちという形で幕を下ろした。

 かなり僅差だったものの確実に僕の勝ちと分かるような差で。

 審判もVARもないのでごねられたら勝敗を有耶無耶にすることくらいはできそうだったが、星川はそうはしなかった。やはり、実直で真面目なやつなぁ、と。

 

「ねえ、あんた。クロールじゃなかったよね?」

 

 勝負後、プールから上がりながら星川がそんなことを訊いてくる。

 全力で泳いだからか、星川は呼吸が乱れていて肩で激しく息をしていた。それはそれでエロい。というかもはや、卑猥ですらある。こういう時エロい目を向けられざるを得ないので、美少女って損だな、と思った。

 

「ああ、潜水してた」

「それってさ、あたしに手加減してたってこと?」

 

 と、星川は不満げに訊いてくる。

 ハンデをもらった上に手加減されて負けた、なんてプライドが許さないのだろう。

 

 まあそれは、全くの見当違いなのだが。

 

「いいや、手加減したんじゃない。本気も本気。超本気だよ。抵抗の関係上、水面でクロールするより水底を潜水した方が速いんだ」

「えっ!? でも、自由型って、みんな必ずクロールしてるじゃん」

 

 おそらく世界水泳とか、オリンピックとかの中継をイメージしているのであろう。星川のそのイメージは間違っていないが、しかし、致命的に間違っていることがある。

 

「まあ、競泳は潜水禁止だからな」

 

 と、僕は飄々と言った。

 

「ルールでスタートから十五メートル以上の潜水は禁止されてるんだよ。たぶん、見栄えとかを意識したルールなんだろうな。観客からしてみれば、選手がずっと潜水してるのなんて見ても盛り上がらんし」

「………」

「おっとルール違反なんて言わないでくれよ? 僕は事前にちゃんと『細かいルールはなし』って言って、星川もそれに同意したんだから」

 

 僕がわざとらしく芝居がかった調子で言うと、星川は拳をぐぐぐっと握りしめた。マジで拳が飛んでくる五秒前。

 …と、思ったのだが、結局拳が飛んでくることはなかった。

 さんざん力んだ星川だったが、最終的には力なくその腕を下す。その顔には呆れたような笑みが浮かんでいた。一周回って、というやつだろうか。

 

「ねえ、あんた、バタフライも泳げるって言ってたよね?」

 

 その言葉の真意を測りかねて、僕は首を捻った。

 

「……? ああ」

「あたし、昔からバタフライ泳げるようになりたかったんだよね」

「歌舞伎町のアゲハ蝶(バタフライ)だけに?」

「違う! ………はぁ」

 

 溜息を吐きながらも星川が近づいてきたのでボディブローかと身構えた僕だったが、それは全くの勘違いだった。

 呆れ故の嘆息。諦め故の嘆息。

 一歩近づいたことによって、視線が変わる。僕は星川はよりほんの少しだけ長身なので、見下ろすような視界になった。僕の視線が星川の顔ではなく谷間に吸い寄せられているのは、さすがに不可抗力だと、ここに記しておきたい。

 

「ねえ」

 

 星川がそう言って、僕を見上げる。俗にいう上目遣いにキュンと来たとかではなく、シンプルに近すぎて、僕の心臓はパーリナイ状態になった。

 

「今日は疲れちゃったからもういいけど、次来るときはバタフライ教えてよ」

 

 と、悪戯気にはにかむ。

 その表情に、僕はやっと揶揄われていることを察した。

 だからムキになったというわけではないが、僕は毅然と――少なくとも僕にとってはシャンとした態度で、言い返した。

 

「もちろん」

 

 またしても次のデートの口実を作られていたことには、ついぞ家に帰り着くまで気付かなかった。

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