ゴールデンウィーク明け初日、ちょっとぶりの登校日は生憎の雨だった。しとしと降りしきる雨には、げんなりとした気分にもなる。
気怠い気持ちで授業をやり過ごし、四時限目の授業が終わって現国の教師が退室すると、席を立った星川が僕のところにやってきた。
「篠宮、湯川、お昼一緒に食べない?」
教科書とノートを机に突っ込んでいた僕と、その後ろで同じ作業をしていた湯川に向けたランチのお誘い。
僕は湯川に目配せすると、
「もちろん。僕の方から誘おうと思ってたくらいだぜ、ミ・アモーレ」
気障に答えながら、湯川と机をくっつけて小さな島を形成した。星川が度し難いものを見るような目を向けてくるが気にしない。気にしないったら気にしない。本当は傷ついてたりなんてしない。
胸に走る痛みを幻痛と断じながら弁当を広げると、湯川と星川も同じように弁当を広げた。
湯川の弁当は完成度の高いバランス弁当。おばさんが腕を振るったらしい。
星川のは相も変わらずの野菜弁当。見ているだけで元気が吸われる。
「前から思ってたけど、湯川のお弁当、めっちゃ美味しそうだよね!」
湯川の弁当を覗き込んだ星川が、そんな大げさなリアクションをした。
いや、大げさというのは少し語弊があるかもしれない。
家事の達人であるおばさんの料理は、見慣れない人からするとそれぐらいの価値があってもおかしくはない。むしろ自然だ。
そうやって見ると、そういう視点を提示されると、見慣れたような湯川の弁当もより美味しそうに見えるものだった。
「湯川、そのミニハンバーグ僕にくれないか?」
隣の芝生は青く見えるというか、他人のものはよく見えるというか、見ているうちに欲しくなってしまって、僕はそんなお願いをした。
そんな僕のお願いに、湯川はあからさまに顔を渋くする。
「ダメ。このハンバーグ、私が作ったものだし…」
「そうなのか? よくできてるな。まあ、誰が作ったものだっていいから、ちょっと味見させてくれよ」
「で、でも、全然上手くないし……」
「そんな気にすることないだろ。最初はみんな初心者だし」
「だって……恥ずかしいし……」
「ちょっとだけ、ちょっとだけだからさ」
「な、なんでそんな強引なの……もう……ホントにちょっとだけだから……」
「――なんかいやらしくない!?」
なにか不埒なことでも想像したのか、星川が慌てて、僕と湯川の会話に割り込んでくる。僕と湯川は純真無垢な顔を
「いやいやいや、なんでそこまで無垢な顔ができんの!? わざとでしょ!?」
「いや、ごめん、なんのことだか分かんない。僕は星川ほど思春期拗らせてないから」
「星川さんはどんないやらしい妄想をしたの?」
「やっぱりわざとじゃん!!」
星川は怒声を上げながら蹴りを入れた。
僕にだけ。
理不尽極まりない。
「ほい、篠宮」
机の下でそんな暴行事件が勃発している間に、件のミニハンバーグを箸でつかんだ湯川が、その箸先を僕に寄越す。僕はそれを身を乗り出す様にして、口で迎え入れた。
それを見た星川はあんぐりと口を開ける。
「あ……あんた達、ちょっと、なんていうか……」
僕と湯川をおろおろ眺めて、星川がぎくしゃく言葉を漏らす。
これに関しては本当に心当たりがないので、僕と湯川は怪訝な表情で星川を見返した。
「前から思ってたけど、あんたら距離感バグってない?」
「そうか? 普通だろ」
「普通の幼馴染はあーんなんてしないっつぅの!」
「あーんって……おいおい」
あれはそんなんではない。そんな意図はなかったし、そんな風に見られるのも心外だ。
未来の恋人に捧げるはずの僕のあーんヴァージンは未だ健在なはず。
それを確かめるために、確認するために湯川に目を向けると、なぜか箸先を渋い顔で眺めていた。
「どうした?」
「いや、この箸使ったら、篠宮の童貞が
「童貞は感染症じゃねぇよ! いや、そもそも病気じゃねぇ!」
酷い偏見である。
というか、僕が童貞なら湯川も処女なので、感染るどころか同じ病気に罹患しているはずなのだが。湯川の自分のことを棚上げにする能力には舌を巻くばかりだ。いや、まったく素晴らしくもないのだが。
問題はクラスの反応である。
僕と湯川のハッピーセットに、星川が加わっているという珍しい取り合わせに意識を向けていたクラスメイト達が、今の話題でざわついたのが感じ取れた。繊細な湯川も気づいているようだが、意外と図太いのか、星川がそれに気づいている様子はない。
どころか、
「ふ~ん。篠宮って童貞なんだ」
と、ぼそっと呟く始末である。
火にガソリンぶちまけて火薬を投げ込むような発言だった。
「星川」
「ん?」
「あまり童貞とか言わないでくれ。もっとこう……隠語というか、別の表現というか、そういうのあるだろ?」
僕は最後の抵抗というか、苦し紛れな気持ちでそう言った。
「例えば?」
しかし、なぜか星川がくらいついてきたせいで、話は終わらなかった。
この話を膨らませる気などさらさらなかったので、僕は答えに窮する。
「例えば……湯川、なんかいい呼び方あるか?」
「ん~。『新品』とか?」
「言い得て妙だな……言い得て妙なんだけど、もうちょっと捻ったのがいいかな」
「『
「無駄にカッコいい。無駄にな」
「じゃあ、『
「だから無駄なんだよな、カッコよさが。というか、勝手に僕を生涯童貞にするのやめろ」
「篠宮は一生童貞に決まってんじゃん。星川さんもそう思うでしょ?」
と、自然なように不自然な流れで、星川に水を向ける。
星川は特に気にした風もなく、野菜を食みながら答えた。
「まあ、そのうち卒業できるんじゃない」
何でもない風に言ってのける。何でもないことのように切って捨てられる。
僕の人生を左右しかねないことなのでもう少し真剣に悩んでほしかったが、星川にしてみればまさしくどうでもいいことだったのだろう。
しかし、その発言は僕らからすれば明確な隙で、降って湧いた幸運で、二度はないチャンスだった。
多分にして話題を誘導したことは否めないが、チャンスは自分で掴み取るものともいうし、僕らがそこに嬉々として食い下がったのも誰にも責められないことだと、僕は強く主張しておきたい。
「さすが、歌舞伎町の
にやりと笑ってそんなことを言う僕を、星川がぎろりと睨む。
「星川さん、経験豊富だもんね」
湯川が追撃というか援護射撃をしてくる。
星川は裏切られたような顔をして湯川に目を向けた。
「年上の恋人とか、いいよな」
「なんか、響きがエロいよね」
「エロいっていうか、オトナだよな」
「オトナな恋、私もしてみたい」
息の合ったコンビネーションで、星川を煽りに煽る。
悪い噂に乗じるような物言いに良心が痛まなかったと言えば噓になるが、それでも僕らは嬉々として……は、なかったけれど、揚々と星川を嬲った。
「まあ、いいことばかりじゃないだろうけどな」
「酸いも甘いもってやつ?」
「そうそう。オトナな星川にはオトナな苦悩があるんだよ」
「そうなんだ。星川さん、大変だね」
「辛くなったら相談しろよ。ま、童貞な僕じゃ何の役にも立たないだろうけどな」
「ごめんね、星川さん。私も処女だから」
――ダンッ、と。
それは星川が机を両手で叩いた音で、その反動を使うようにして、星川は立ち上がった。
「前も言ったけど…」
前置きを挟む星川の顔は紅に染まっている。
それが羞恥によるものなのか怒りによるものなのかは判然としない。そして、僕に言わせればそんなものはどっちでもいいし、心底どうでもいい。
「――あたし、処女だからね!」
それはいつかどこかで聞いた言葉で、僕が今日、引き出そうと画策していた言葉だった。
それはもちろん僕が聞きたかったからではなく、クラスメイトに聞かせたかったからなのだが。
クラス中のギョッとした視線が星川に集まる。
今の言葉を聞き逃した奴はいないだろう。そして今の一幕は、すぐさま噂になって学校中に広まるだろう。それくらいのインパクトがあった。強烈なインパクトが。
それは僕の狙い通りであり、計画通りであり、計算通りだった。