僕の恋路は壁が多い   作:銀楠

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禍福は糾える縄の如し

 

 

 屋上で勉強会というのは、失敗だったと言わざるを得ない。

 忘野が持ち寄ったのは物理の問題集。

 屋上のベンチに並んで座って、ページを開いたそれを自らの膝の上に置くと、問題のひとつを指さした。

 

「私、理系の問題が少し苦手で――ここ、わかりますか?」

「ああ、これは……この公式を使えばいいんだよ」

 

 忘野が持参した物理の教科書を開き、熱量の公式が載っているページを開く。

 

「熱量(J)=電力(W)×時間(s)――頻出だから、よく覚えておきな」

「はい。先輩」

「おお。さすがはリョータ先輩。このわたしが生涯のライバルと認めただけのことはありますね」

「黙れ」

 

 どこで調達したのか、本当に道徳の教科書を持ち寄って、熱心に熟読している相庭に喝を入れる。

 

「先輩。もしよかったら、来週からの期末テストに備えて理系の勉強を見てくれませんか?」

「うーん。僕はこれで、馬鹿な幼馴染の面倒も見てるからな。おじさんから頼まれてるし、赤点を取らせるわけにもいかないからなぁ」

「それなら」

 

 と、口を挟んできたのは千種だった。

 何の用事があるのか、今日も今日とて昼休みを屋上に捧げているらしい。

 風に戦ぐ黒の長髪を手で押さえながら、怜悧な口調で僕らの会話に割り込んでくる。

 

「――私が貴方の代わりに勉強を見てあげましょうか」

「千種が? ……まあ、それもありっちゃありか」

 

 と、僕は忘野に意見を仰ぐ。

 何にしたって、一番に彼女の意見が優先されるべきだ。

 

 そして件の忘野は、首を弱弱しくも左右に振るっていた。

 

「千種、お前は怖いから無理だって」

「勝手に忘野さんの言葉を捏造しないでもらえるかしら。ぶっ殺すわよ」

「ぶっ殺すわよ⁉」

 

 なんかすごいこと言われた。

 風紀委員の言葉じゃないだろ。

 いや、風紀委員とか以前に、人としてどうなんだ。

 お前が道徳の教科書を読め。

 

「それなら、忘野さんの勉強は貴方が見て、湯川さんの勉強を私が見ればいいでしょう」

「湯川の勉強を?」

 

 千種が?

 考える。

 いや、考えるまでもなく。

 

「それは無理だ」

 

 僕は言った。

 

「あいつの人見知りは筋金入りだからな。勉強を教えるどころか、湯川がストレスでおかしくなっちまうよ。最悪、変身する」

「するわけないでしょう」

「いや。わからん」

 

 変身するかはともかく、少なくとも、勉強にならないことは明白だ。

 だから、湯川に勉強を教えられるのは僕か、或いは、星川くらいのものだ。

 

「ま、それは僕が何とかするよ――それより、テス勉始めようぜ」

 

 僕が忘野にそう言うと、彼女は僕に密着するように座る位置を微調整した。

 

「はい、先輩。よろしくお願いします」

「よろしくお願いされる前にちょっと良いかな?」

「……?」

「あのさ、忘野。ちょっと近くない?」

「そうですか? そんなこともないと思いますが」

 

 そんなわけがない。ふたりが座る間隔は不自然なほど狭く、身動ぎしただけでお互いの肩が触れ合ってしまいそうだ。

 だが、忘野は気にする素振りもなく勉強を始めてしまう。

 僕も抵抗を諦め、そんな忘野に付き合ってやることにした。

 

「……いやらしい」

 

 仲睦まじく問題集に向き合う僕らを、千種は人も殺せそうな眼力で睨んでいた。

 

 ちなみに、相庭は道徳の教科書に落書きをして遊んでいる。

 ノルマントン号事件の風刺画に、人食い鮫を楽しそうに描き足していた。

 馬鹿は死んでも治らないというが、この馬鹿はそれでも死ぬべきだと思う。

 

「先輩。電力の求め方って、なんでしたっけ?」

「ん? ああ……電力の計算ね。忘れがちだよね」

 

 僕は嘯く。

 正直、電力を求める公式なんて忘れっこない。

 

 忘野は、相庭の申告通り、ちゃんとお馬鹿だった。

 電力の公式なんて、中学物理の初歩の初歩だ。

 

 しかしもちろん、そんなことを言う僕ではない。

 僕は根気強く、忘野のために公式を書き起こした。

 

「電力(W)=電流(A)×電圧(Ⅴ)だ」

「……なるほど」

 

 忘野は自信なさげに頷いた。

 いかにも覚える自信がありませんと言わんばかりだ。

 僕はそんな彼女のために、語呂合わせを口にした。

 

「いいか? 電力の公式の覚え方は『わっと(電力)驚く(電流) (電圧)女優』だ。言ってみろ」

「死になさい」

 

 ドロップキックだった。

 両の足を揃えて放たれた見事な跳び蹴りが僕の顔面に突き刺さる。

 

「なにすんだ千種‼ 死ぬかと思ったわ‼」

「あら。殺しに行ったのだけれど……意外とタフね――ちっ」

「舌打ち⁉ てかお前、ドロップキックって……」

「あら、女らしくないとでも言うつもり?」

「いや、普通にパンツ見えてた」

「風紀矯正ぱんち!」

 

 千種の放った正拳突きが僕のボディを抉った。

 

 悶絶する僕を、忘野が無感動な表情で睥睨する。

 

「先輩。AⅤ女優って何ですか?」

「え?」

 

 え?

 

「そんなことも知らないんですか、ユキちゃん。相変わらずお馬鹿さんですねー」

「カヤちゃんは知ってるの?」

「もちろんですとも。わたしのリョータ先輩が大変お世話になっていますからね」

 

 やめろ、巻き込むな。

 

 そんなんですか――という目でこちらを見ている忘野に首を振りながら、僕は相庭に苦言を呈した。

 

「僕はお前のリョータ先輩じゃないし、AⅤ女優にお世話になってもいない」

「またまたぁ。リョータ先輩、恥ずかしがることはありません。健全な男子高校生として、至って普通の事ですから。わたしは理解がありますよ」

「黙れ」

「黙りません。先輩がお世話になっているアダルトビデオの種類を訊き出すことが、わたしがこの世に生を受けた意味ですから」

「そんな人間は死んだ方がいい」

「わたしが死んだところで第二第三のわたしが現れるだけですよ。自由死すとも相庭死せずです」

「鬱陶しいことこの上ないな」

 

 お前は黙って死ぬこともできないのか。

 

「まったく……リョータ先輩は子供ですね。スカしたりなんてしなくても、あなたの相庭はエッチな男の子を嫌ったりしませんよ――さあ、臆せず言っちゃってください。元気系後輩ものが好きだって」

「スカしてなんてねぇわ。僕は普通に巨乳ものが好きだ」

 

 僕がそう自白した瞬間、忘野と千種の二人は自らの慎ましやかな胸に手を当てた。

 小さな胸がコンプレックスなのだろうか。

 そういうところは可愛らしい。

 

 対して、相庭は何を思ったのか、自らの普通サイズの乳房を強調するように胸を反らした。

 

「なるほど、リョータ先輩はわたしのようなボンッキュッボンッのナイスバディがお好みでしたか。通りで度々リョータ先輩の獣のような熱い視線を感じるわけです」

「オーケー。次は法廷で会おう」

 

 この話を続けていると、千種の視線の温度がみるみる下がっていくので、僕は適当なことを言って下の話を強制的に終了させようとした。

 ――させようとした。

 僕はこの話を終わりにしたいと思ったのだが、しかし、相手は僕の考えに逆行することに心血を注いでいることで有名な相庭なので、そうはいかなかった。

 

「いえいえリョータ先輩、何やら無礼にもこのわたしを疑っているようですが、これが実は本当なのです。わたし着痩せするんですよ。それはもうもの凄く――だから、脱いだら凄いですよ? それはもう、増えるわかめの如くです。おっぱいがバインでボインボインです――乳房の大きさなら、シキ先輩やこの間のギャル先輩にも引けを取らないと自負しておりますとも――あ、いえ。自分に負けるようなわたしではないのですが」

「………」

 

 初対面の時も思ったけど、こいつ本当に自己弁護が凄いな。

 凄い長いし。

 凄いウザい。

 

 しかし――ほう。

 

 巨乳とな。

 本人談というのがどこまでも怪しいが、しかし、巨乳と聞いては黙っていられない。

 着瘦せというのであれば、実際、湯川もかなり着痩せするタイプだし、このウザい後輩の野暮ったいブレザーの下が桃源郷になっている可能性は誰にも否定できない。

 ありえないなどということはありえないのだ。

 まさしく悪魔の証明。

 否――これはシュレディンガーの猫だ。

 観測してみれば、真実を確定させることができる。

 

「よし、相庭。ちょっと脱げ。ついでに揉ませろ――星川に関してはわからんが、湯川に関しては、揉んでみればどっちが大きいかわガッ――⁉」

 

 僕の言葉が中断されたのは、顔面に足が直撃したからである。

 誰の足か。

 もちろん、千種のだ。

 

 それはもう、見惚れるほどに綺麗な回し蹴りだった。

 黄色のパンツがしっかり見えたが、もはやそんなことには意識が向かない。目を奪うは、その流麗な所作か、或いはその脚線美だろう。

 僕がアンパンマンだったら、おそらく首から上がバイバイキンしていただろう。

 

 しかし、僕はアンパンマンではないので、頭部と胴体は首によって繋がれている。

 横っ面を蹴り抜かれた僕は、身体ごと吹っ飛んだ。

 

 その先にいたのは、ちょっと前から話の内容を理解できなくなっておろおろしていた純真無垢な後輩少女――忘野雪姫であった。

 

「うおっ、とととっ⁉」

「せ、先輩⁉ ――きゃあっ⁉」

 

 忘野にぶつからないようにバランスを取った結果、逆にバランスが崩れ、その拍子に座っていたベンチが倒れる。

 当然、そのベンチを使用中だった僕と忘野は放り出され――

 

「あ……」

「せん、ぱい……」

 

 仰向けに倒れた忘野に、僕が覆いかぶさる形。

 咄嗟に両手を突いていなければ、思いっきり圧し潰していたであろう体勢。

 突然のことに千種も相庭も固まっている。

 

 早く退かないといけないのに、僕を見詰める黒曜の瞳がそれを赦してくれない。

 僕と忘野が見詰め合い、ふたりが同時に顔を赤くした瞬間――

 

 ガチャン

 

 それは屋上の入り口が開く音だった。

 音に寄せられて視線を向けると、そこに立つはふたりの女子生徒。

 目に眩い金髪の二年生と、その陰に隠れるように立っている陰の者。

 星川瑠璃と、湯川累だった。

 

 星川は青空の下で絡み合う僕らに冷たい視線を注ぐ。

 

「……アンタ達、なにやってんの?」

「なにって……テスト勉強、かな?」

「保健体育の?」

 

 余計なことを言ったのは我が幼馴染、湯川である。

 

「中間試験に保健体育の試験なんてないし、保健体育のテストに実技はねぇ!」

「じゃあ、なんでテス勉しててそんな体勢になるんだっつぅの?」

「そんなの僕が知りたいくらいだよ」

 

 そんなことを言いながら、この状況の元凶であるところの千種を睨む。

 しかし、

 

「あら、湯川さん。こんなところに何しに来たのかしら」

 

 と、彼女は素知らぬフリをしているのだった。

 

 

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