「はよーございまーす」
六月一日。
僕は雑な朝の挨拶と共に、湯川家の玄関を開け放った。
親しき中にも礼儀ありという言葉を思えば、インターホンくらいは鳴らしてもよさそうなものだと思われるかもしれないが、生憎、僕は家主に無許可で家に侵入することを赦されている。驚くべきことに、この家の玄関の鍵を授かったのは、湯川よりも僕の方が先だ。なんでだよ。
「お帰りなさーい。ア・ナ・タ」
聞こえてきたのは、なんだか久しく声を聞いていなかった気がするおばさんの声だ。
軽妙な足音がパタパタと近づいてくる。
現れたのは、妙に若々しい女性。見た目年齢が実年齢のマイナス十五歳くらいなのでややこしいが、湯川の母親、梅子おばさんだ。
「おばさん……貴女、亭主がいるんだから、冗談でもそんなこと言っちゃダメでしょ」
「大丈夫よ。あの人、嘘寝取られとかで燃えるタイプの人だから」
「そういう秘密は、夫婦の寝室に封印しておいてください」
娘の幼馴染にそんな話聞かせんな。
どんな顔すればいいんだよ。
「
「はい。僕が起こしてきますね。普通に」
そんなわけで、僕は湯川の部屋に向かう。
一応、部屋の前で立ち止まって、ノックをした。
無言で突撃して着替え中の湯川に出くわすみたいなラッキースケベは、もう人生で十回くらいやってるのでお腹いっぱいだ。
当然のようにノックに反応はなかったので、まだ寝ているのだと判断して僕は扉を開けた。
「よー湯川。朝だぞ、起きろー」
ゆさゆさと湯川の身体を揺さぶる。
「私、明日まで寝ることにする」
「学校はいいのか?」
「うん」
「じゃあ、僕も一緒に寝ちゃおうかな」
とか言いながら、布団を捲り上げて入り込もうとしてみる。
「いいよー。久しぶりに一緒に寝よっか」
「ふざけんな、起きろ馬鹿が」
「そっちから言ったのに?」
布団から湯川を引き抜いて、リビングまで引き摺っていく。
体勢的に、脚の付け根辺りに湯川の豊かな胸がぽよぽよと当たっていたが、僕はマジで気にしなかった。
「なあ湯川、つかぬことを訊くんだが……」
「なに? えっちなこと?」
「違うな」
「篠宮が私にえっちじゃないことで訊きたいことなんてあるの?」
「まずお前が僕のことを何だと思ってるのか訊きたいな」
「手のかかる弟みたいなものだと思ってる」
「渾身の屈辱!」
そんな話をしているうちに目が冴えてきたのか、湯川は僕に引き摺られるのをやめて、自力で立った。
そしてまだ半分寝ぼけた眼で、僕の顔を呆と見詰めてくる。
「………」
「……なんだよ?」
「いや、また何か悩み事かなーって」
そして急にそんなことを言ってくるのだから、幼馴染には敵わない。
「……よくわかるな」
「わかるよ。だって、篠宮が悩んでると面白いから。うぷぷっ」
「人とは思えない笑い声が洩れてるぞ」
「
「……何でもない。顔洗ってこい」
「やー」
イエスなんだかノーなんだかわからない返事をして、湯川はふらふらと洗面所の方に歩いて行った。
それを見送ると、入れ代わり立ち代わり、今度はおばさんが現れる。
「うふふ。まるで新婚さんみたいね」
「どっちかって言うと兄妹じゃないですか?」
「ふたりがきょうだいなら、誕生日的に累がお姉さんね。それもアリだわ――ああでも、姉弟は結婚できないからやっぱりナシね」
「おばさんは今日もなに言ってるかさっぱりですね」
「もうっ。梅子さんって呼んでって言ってるのにッ!」
おばさんが何か言っている。おばさんが。
それにしても、姉弟か……。
僕も湯川もひとりっ子なので、姉というのは身近にない感覚だ。
よく、幼馴染は姉弟みたいなものだと言う人がいるけれど、僕と湯川に限っては全くそんなことはない。
多分だけど――僕と湯川は姉弟よりも、もっと近しいものだ。
姉弟いないから知らんけど。
それはともかく、姉である。
最近、ちょっと縁のあったワードだ。
「姉、か……」
「なに、涼太くん? お姉ちゃんが欲しいの?」
「いや、そんなことは言っ……てはないですけど、まあ、欲しいっちゃ欲しいですね」
「五歳の頃、サンタさんに『お姉ちゃんが欲しいです』ってお願いしてたものね」
「僕のクリスマスのお願いが余所様に筒抜けになってんだけど、僕のプライバシーどうなってんの、両親」
「あの頃の涼太くんって、本当にかわいかったわよね。もう、産みたいって感じだったわ」
「はいはい……はい?」
産みたいってどういうこと?
え?
なに?
ホントに怖いんだけど。
「どうしてもお姉ちゃんが欲しいなら、私が何とかしてあげるわよ、涼太くん」
「何をどうしたら、僕に姉ができるんですか?」
「まず、十八年前にタイムスリップするでしょ?」
「『まず』の時点でもうおかしいんだよなぁ」
「あ、そうね。まずはタイムマシンを発明しないといけないわね」
「……そっすね」
「で、十八年前に戻って、お父さんと一発かまして長女を授かるでしょ?」
「そういう生々しい発言を娘の幼馴染にするのはやめてください。マジで。そろそろセクハラで訴えますよ?」
「で、その一年後にお母さんのお腹の中にいる涼太くんを私の
「僕と湯川が双子になるとかならないとか以前に、今なんかヤバいこと言ってませんでした?」
僕をおばさんの胎に宿……え、なに、どういうこと?
人間って、そんなタツノオトシゴみたいなことできるの?
根源的な恐怖を覚えたまま、僕は湯川と朝食を取り、まだちょっとおばさんのことを警戒したまま、ひとまずは学校に行くことにした。
湯川と連れ立って、駅を目指す。
他愛もない話をしながら電車に乗り込み、数十分揺られた。
電車を降りたらバスに乗り換え、学校を目指す。
いつもと、代り映えのない日常。
だが、胃のあたりに不穏な気配を感じる。
学校に近づくほど、後回しにした問題に近づいていくような。
校門を抜けて昇降口に入ると、諸々の事情でいまちょっと会いたくない星川に遭遇した。
……なんか僕、いつも星川に会いたくないって思ってるな。実は星川の事嫌いなのか?
「はよ、篠宮、湯川」
「うっす」
「おっす」
僕と湯川は揃って適当に返事をした。
適当過ぎて、湯川に至っては柔道部員みたいになってるが。
「篠宮、寝癖立ってる」
「立ってないよ」
「立ってるっつぅの。なんで否定できると思った?」
「だって、僕には僕の寝癖見えてないし」
僕がそんな――言い訳になってない――言い訳をすると、星川は懐から何かを取り出し、それを黄門様のように僕に見せつけた。
それは手鏡だった。
鏡面には派手に寝癖の立った僕が映り込んでいる。
「なんで鏡なんて持ち歩いてんの?」
「女子は普通持ち歩いてんの」
「いつでも仮面ライダーに変身できるように?」
「あたしは龍騎か――つーか、世代じゃないっつぅの」
世代じゃないのに知ってるんですね。
「湯川、龍騎の変身ポーズってどんなんだっけ?」
「こう」
湯川が星川の掲げた手鏡に向かって、龍騎の変身ポーズを行う。
「なんでやらせた? そんでなんでできんの?」
「湯川は平成ライダー全部の変身ポーズを暗記してるんだぜ」
「地味に凄い」
「地味に凄いっていうか、無駄に凄いよな」
本当に無駄なことに。
そんなことを覚える暇があったら、英単語のひとつでも覚えてほしいものだが。
そんなこんなで、今日も一日が始まった。