「忘野‼」
校門を出てから少し走ると、忘野の背中が見えた。
どこか寂しげな空気を湛えるその背中を呼び止めると、彼女はゆっくりと振り返った。呆としたその黒い瞳が僕を捉えると、その表情が少しだけ華やぐ。
「涼太さん」
……。
彼女は僕を『先輩』と呼ばなくなった。
理由はわからない。
下の名前で呼ばれるというのは、男女の関係で言えば進展したと捉えるものだが、僕はその呼び名に、どこか空虚な気配を感じているのだった。
それはともかく。
「ちょっと話がしたいんだけど、いいか?」
「はい、私も涼太さんと一緒に帰りたいと思っていたところなので」
何気なく、忘野が呟く。
「……そう、そりゃよかった」
そう返すしかなかった。
そのまま言葉を交わすことなく、ふたり並んで家路を歩む。話は僕から切り出すべきなのだろうけど、その勇気が僕にはなかった。
交差点で詰まると、バスが一台横切っていった。のんびりとした速度。乗客の顔まではっきりと見える。早々に下校した我が校の生徒の姿もちらほらと目についた。
離れていくバスの背中を漫然と眺めていると、信号が青になった。
待っていた同じ学校の生徒たちがぞろぞろと歩き出す。僕と忘野もその一部となって歩き出した。
目の前は急斜面の上り坂。突き当りには小さな神社がある。左折すればバス停で、そこからは駅まで一直線だ。
バス停には生徒たちが隊列を成して待っている。
駅まで行けば人のいない場所なんてない。
「寄り道するか……」
返事を待たずに僕は神社に足を進めた。
忘野の足音が後ろから付いてきた。
なかなかな急勾配を攻略し、さらにボロボロの石段を上ると、僕らは木陰を求めた。最近どうも暑い。それに湿度も高い。汗ダラダラだった。
「寂れてんなー。自販機もないのかよ」
無人の神社は人の気配がなかった。
狙い通り、誰も寄り付かない場所らしい。
しかし、それ故、自販機がないのは誤算だった。あるのは精々、絵馬の無人販売程度である。
「涼太さん、飲みますか?」
忘野が鞄から取り出したのは、ピンク色の水筒だった。
六月も頭から水筒を持ち歩いているとは、なかなか準備のいい後輩だ。
「いや、大丈夫」
「……そうですか」
残念ながら、間接キスなんて嬉し恥ずかしイベントを消化するわけにはいかない。
だって今から――
「……忘野。この前の件だけど――この前の、告白の件だけど……」
断るにしても、その前に相手の話くらい聞いてもいいんじゃない――星川にそんなことを言われた。
その通りかもしれない。
僕はもともと用意してあった話の展開を全て放棄して、舵を切った。
「どうして、僕に告白なんかしたんだ?」
「それは……」
「僕のことが好きってわけじゃないんだろ? それくらいわかる」
僕に告白したときの忘野は至って普通の彼女だった。
動揺も恥じらいもなく。
とてもではないが、恋する乙女のそれではなかった。
「……姉に」
「ん?」
「姉に、恋人はいないのかと訊かれて、それで……」
「それで?」
「まだ私には早いかって言われて」
「え、まさか、勢い余っているって言っちゃったのか?」
「……はい」
マジか……。
いや、そういう嘘吐いちゃったら引っ込みがつかなくなった経験は僕もないわけじゃないので、一概に忘野のことを責めることはできないんだけど、とはいえ、他人の嘘に巻き込まれるのは素直に応じることのできない抵抗感が残る。
「……どんな理由であれ、嘘はよくないだろうな」
「………」
真っ向勝負の正論に忘野が露骨に怯む。
違う違う――やめてくれ。露骨に怯まないで、湯川みたいに詭弁を弄してきてくれ。僕は他人を論破するのが苦手なんだよ。
そんなことを考えていると、忘野は唐突に頭を下げた。低く、低く。
「お願いします、フリでいいんです。私と付き合ってください。お願いします」
低頭平身。
どこまでも真摯に、真剣に、彼女はともに嘘を吐いて欲しいと宣う。
思えば初対面の時も、堂々とサボりを自称していた彼女である。そう思えば、忘野のキャラクターは一貫していると見ることもできる。
「こんなことをお願いできる男の人は、涼太さんしかいないんです」
そんなことを言われても……。
「わかってるのか、忘野。自分がなにしようとしているか」
嘘を吐く主な相手は忘野
誰と誰が付き合っているなんて噂は勝手に拡散していく。それが事実であろうとなかろうと。
なにやら既に不名誉な噂を携えている僕絡みの話題となればなおさらだ。
つまり、生徒会長ひとりを騙すためには、学校全体を騙さなければならないのだ。
「全校生徒に嘘を吐くってことだぞ?」
忘野が彼女の姉にしたような、ちょっとした見栄の比ではない規模の嘘だ。
「わかってます」
僕の話を聞いても、忘野に驚きや戸惑いはなかった。
これは肝が据わっていると見るべきか、純粋さが歪んでいると見るべきか。
「お願いします」
再度、忘野が頭を下げた。
九十度に近い、最敬礼の姿勢だった。
だが、どれだけ強くお願いされようと僕は……。
「協力していただけたら、お礼に何でもするので」
「なん……だと……」
今、なんでもするって言った?
それって、なんでもしていいってことだよね?
やっほうっ。
………。
違う違う違う。
あっぶね。
危うく心の中の悪魔に唆されるところだったぜ。僕の心の天使ちゃんもちゃんと仕事して?
「――なんでそこまでするんだ? 無駄に嘘を大きくするくらいなら、お姉さんに嘘でしたごめんなさいって言えばいいだろ」
「………」
「………」
「……姉に勝ちたいんです」
「勝ちたい?」
「ひとつでもいいから、なんでもいいから、姉に勝るところが欲しいんです――姉さんの、妹でいるために」
その言葉を忘野は小さな声で呟いた。
僕の胸に、心に、何かがすんなり溶け込んでくる。
「みんなから、何をやっても姉の下だと思われるのは、恥ずかしい……です」
「……そっか」
妙に納得した気分だった。
恐れるのは姉に劣る自分ではない。姉に劣る自分をみんなに見られるのが嫌なのだ。みんなに噂されるのが嫌なのだ。どこか馬鹿にされたように陰で笑われるのが、何よりも嫌なのだ。
忘野はそういうのを気にしない性格のように見えて、しかし実際、そういう風に見られる人間ほど他人の目を気にしていたりする。
どんな感情の何よりも、恥ずかしさこそが、未熟な心を一番傷つける。情けなくて、どんどん人を卑屈にさせていく。自信を奪い去っていく。
「………」
黙って俯いてしまった忘野の頭に、僕はぽんっと手を置いた。
「涼太さん?」
不安そうな上目遣いで、忘野が見上げてくる。
僕も忘野の気持ちがわかったりわからなかったりする。
詳しくは割愛するけど、僕も湯川の天才肌に嫉妬して勉強を頑張るようになった、という過去を持っていたりするからだ。
周りから、近しい人間と比べられるのは味が悪い。
僕には、昔の自分と今の忘野の姿が重なって見えていた。
だからと言って……。
でも……。
「………」
………。
「……わかった」
僕は一度大きく息を吐き出してから、そう言葉にした。
「え?」
「あくまでフリだけど、忘野の恋人になるよ」
僕は立ち上がって財布から百円玉を三枚取り出すと、絵馬の無人販売所に足を向けた。
募金箱みたいな箱に三百円を突っ込んで、代わりに絵馬をひとつ手にする。
「縁結びの絵馬だってさ」
近くの結びの樹に控えめな数の絵馬が括りつけられている。
『ご自由にお使いください』と書かれた木筒からマジックペンを一本取って、絵馬に『篠宮涼太』とフルネームを書いた。
「ほら」
「神様に嘘を吐くんですか?」
「神様くらい騙せないようじゃ、全校生徒を騙すなんて無理だろ」
「罰当たりじゃないですか?」
「罰が怖いなら、最初から嘘なんて吐くべきじゃないかな」
「………」
少し悩んでから、忘野もペンを走らせる。『篠宮涼太』の隣に、『忘野雪姫』の文字が並んだ。僕はそれを横からひょいっと取り上げると、絵馬を裏返して再度ペンを走らせた。
『嘘の恋人がバレませんように』
そして、絵馬を再度引っ繰り返して、結びの樹に括りつけた。
「神様が裏面まで確認してくれる注意深い性格ならいいんだけど……」
あーあ。
人間関係を整理するはずが、余計にこんがらがってきてしまった。どうして僕はこう、押しに弱いんだろう……。
このことをどう星川に告げたものか。ただでさえ、星川との関係は曖昧なままにしてある。例のキスは明確な好意の喧伝だと思ってはいるが、しかし、こちらから寄っていくのは恥ずかしくて、関係を宙ぶらりんのままにしておいてしまった。
そのツケを今払わされているわけだが。
とはいえ、敵を騙すならまず味方から。
この場合、誰が敵なのかは定かじゃないが、味方ははっきりとしている。
湯川を騙すのは無理だからまあ正直に事情を打ち明けるとして、星川に対してはどうしたものだろう。
「ま、明日のことは明日の僕が何とかしてくれるか……」
なるようにしかならない。
明日は明日の風が吹くのだ。
明日の風が暴風じゃないことを神に祈りつつ、僕と忘野は神社を後にした。