この日、僕は人生最大の窮地に立たされていた。
いつもなら静謐な空間となっている三階の空き教室には、ただならぬ緊張感が漂っていた。ぴりぴりした雰囲気。
昨日出したばかりの夏服の制服はびっしょりと汗で湿っていた。暑いからではない。むしろ寒いくらいだった。誰かに指示されたわけでもないのに僕は正座して、いつもは丸まっている背中をピンと伸ばしていた。
その理由は室内を見れば一目瞭然だった。
正座する僕を見下ろしているのはふたりの女子。
右にいるのは湯川だ。僕と一緒に登校したばっかりに巻き込まれてしまい、所在なさげに身を縮こまらせている。
左にいるのは星川。異様な迫力を湛えた瞳で、僕を睨んでいる。
「あ、私、お茶でも買ってくるね」
口火を切ったのは、意外なことに湯川だった。
と言ってもそれはこの場から逃げる口実に違いない。
逃がすか。
「僕が……」
買ってくるよ――と僕は続けようとしたのだが、その前に、
「あたしが買ってくる」
と、星川に機先を制された。
「いや、僕が……」
「あんたは言い訳でも考えてろっつぅの」
ぴしゃりと言われ、それ以上食い下がれない。
「はい。すません」
途中まで浮かせた腰を素直に下す。ここで食い下がると、機嫌を更に損ねかねないと思ったからだ。
立ち上がった星川は流麗な歩き方ですたすたと教室から出ていく。そして、二、三分経った後に、飲み物を三本携えて帰ってきた。
星川に考えておけと言われた言い訳は、まだ思い浮かんでいなかった。
星川は僕にコーラを、湯川にオレンジジュースを渡すと、自分はアセロラジュースの蓋を開ける。僕の分はないかもしれないと思っていたが、さすがにそんなことはなかった。
「篠宮」
湯川が僕にオレンジジュースを差し出してくる。
「いや……でも……」
「なに? どうしたの?」
星川の鋭い眼光が僕を射抜く。
いや、さすがにこれは被害妄想か。単に視線を寄越されただけに違いない。そうであってくれ頼むから。
「ぴえっ……いや、ちがっ……ほら、篠宮って炭酸苦手だから」
「ふ~ん。そうだったんだ」
そんなことを言いながら、星川はアセロラジュースを口に運ぶ。
それに倣うように、さながら御通りの作法のように、僕と湯川も各々のジュースを口に運んだ。だが、室内の張りつめた空気が邪魔して、味はよくわからなかった。
「で、大事なことから確認するけど」
それを待っていたようなタイミングで、星川はそう切り出してきた。その目は、深い疑念を宿して、僕を正面から見据えている。
「あの後輩とはいつから付き合ってるの?」
「あの、どうして星川さんがそれを知っているんでしょうか?」
「噂になってんの。学校の掲示板とか、見てないの?」
「これはもう明確にプライバシーの侵害だと思うんよ。僕にだって私生活を誰にも知られずにひっそりと暮らしていく権利が――」
「で、いつから?」
星川が同じ質問を繰り返してくる。静かだけど、迫力のある声。僕の横やりなど、まるで意に介した様子もない。
僕はひとまず視線を彷徨わせながら、
「えっと、昨日から、です……はい……」
「ふ~ん」
星川の視線が突き刺さる。妙に冷ややかで静かな視線。それは単純な怒りや軽蔑のそれとは違って、真意を測るのが難しい。ただ、何か深い感情を携えていることだけは確かで、僕の心を圧し潰していく。
これが本気で怒っているときの星川なのかもしれない――そう思うと、肝が冷える。
「ちょ、ちょっとタイム!」
僕は両手でTの形を作り、タイムを要求した。
なにか言われる前に湯川に視線を向け、アイコンタクトを図る。
(助けてシキえもん)
(どちら様ですか?)
(篠宮です)
(知ってるけど)
(じゃあなんで訊いたんだよ)
(で、なに?)
(この場を何とか収めてくれ)
(ただいま電話に出ることができません)
(留守電機能で乗り切ろうとすんな)
(ごめん、心の電波が悪くなった)
(なんだそれ、おもしろいな)
(ど修羅場に私を巻き込まないで欲しいって遠回しに言ったんだけど)
(まあまあ湯川。ここはひとつ、僕の事情を聞いて欲しい)
(いや、別に聞かなくても。どうせ、偽の恋人を頼まれて断り切れなかっただけでしょ?)
(……そこまで的確な理解を示されると、それはそれで腹が立つな)
「ちょっと」
「ん? 何だ星川?」
「ふたりで見詰め合ってないで、あたしにもちゃんと説明しろっつぅの」
「いや、ちょっと待ってくれ。今、湯川と作戦会議を――」
「説明」
「イエス・マム!」
僕は姿勢を再び正すと、星川の顔色を窺いながら、忘野の事情を説明した。忘野と偽の恋人を演じることになったこと。忘野と生徒会長の微妙な関係。忘野の苦悩。その全てを包み隠さず全部晒した。
話を聞き終えた星川は、
「ふ~ん、あの子も大変なんだ」
と、素っ気ない感想を漏らした。
「事情はわかった」
しかも、あっさりと納得してくれた。なんのお咎めもないのだろうか。
「それだけ?」
「なんであたしが怒らないといけないんだっつぅの」
確かに過ぎるな。
でもなんだかな……。
それはそれで寂しいな。
叱って叱ってー。
「なんか気持ち悪い……」
さすがの察しの良さだ。
「でも、なんか釈然としない」
「何が?」
「恋人のフリなんて嘘、アンタは好きじゃないって思ってた」
「ま、僕は正直者だからね」
「寝言は寝て言えっつぅの」
「じゃあ寝ます。おやすみ」
ゴロンと寝っ転がる。
「……やっぱ釈然としない。篠宮、なんか隠してるっしょ?」
身を乗り出して星川が睨みつけてくる。
「実は、さっきから星川のパンツ覗いてる」
「死ね」
「黒が好きだけどブルーもいいね」
思いっきり踏みつけられた。
気持ちいい反面死ぬかと思った。
「いいからさっさと白状しろ。っつーか、気持ちいい反面ってなんだっつぅの」
星川の目が据わっている。これはマジのやつだ。
「恥ずかしいんだってさ」
「ん?」
「忘野が言ってた。みんなにお姉さんより劣ってるって思われるのが、そう噂されるのが、恥ずかしいんだって」
僕はゆっくりと噛みしめるように言葉にした。
――恥ずかしい。
忘野がその言葉を口にしなければ、僕は恋人のフリなんて提案、きっと受けなかった……たぶんね。
「助けてあげたい、力になってあげたいって思うのって――傲慢かな? 余計なお世話かな?」
「………」
正しい判断をしたとは思えない。
余計なことをしているのかもしれない。
先輩として、嘘はいけないと言って聞かせるべきだったのかもしれない。
「篠宮」
「なに?」
「あたしはあんたが間違ってるとは思わない」
「そうかな?」
「うん。あんたに余計なお世話を焼かれたあたしが言うんだから、間違いないっしょ」
「……星川」
「でも――」
「でも?」
「その嘘の責任は、ちゃんと取んないとダメだかんね?」
嘘の責任……、か。
「ああ、任せろ。約束する。僕は約束を破らないことで有名な男なんだ。な、湯川?」
「そうでもないかな」
「湯川、ちょっとは空気を読んでくれ」
「あははっ」
朗らかに笑ったところで、星川は何かを思い出したように、口を「あ」の形に開けた。
「篠宮と湯川、今日の放課後、暇?」
「ん? まあ、今日も明日も明後日も暇だけど」
「じゃあさ、三人でマック行かない?」
「僕はいいけど……」
湯川を見る。
「私も別にいいけど……星川さん、昨日もマック行ってなかった?」
「最近暑いからシェイクが美味いんだよね」
「なるほど……」
と、言ったところで、僕のポケットでスマートホンが震えた。
メッセージアプリの着信である。
差出人は忘野だった。
僕はその文面に素早く目を通すと、
「あの」
おずおずと口を挟んだ。その様子を見て、星川は何かを察したようだ。直ぐに退屈そうな表情に戻ってしまう。
「へー、あの一年生とデートなんだ?」
「デートというか、デート的な何かだよね。うん、セーフだなこりゃ」
「………」
「星川さん?」
「……は~」
明らかに萎えた時の溜息が漏れている。
「あっそ」
「………」
「………」
もっと文句を言われるかと思ったが、それ以上の罵声は飛んでこなかった。
「『あたしよりあの子を優先するのね、キィー』とか言わないの?」
「あたしそんなキャラじゃないし」
それに――と、星川は続けて、
「信じてるから、待てる」
と、話を締め括った。