それから何事もなく二週間ほど過ぎると、気象庁が梅雨入りを発表した。湿度と気温が異様に高まっていき、まだ六月だというのに蒸し暑い。
どんよりとした天気は人間からやる気というものを奪い去ってしまうようで、我が校の生徒たちもどことなく身の入らない日々を送っていた。
そんなしとど鬱陶しい季節の中でも、僕と忘野の灰色の嘘は曇天に融け込む様に継続している。付き合い始めらしい適切な距離を演じていた。
無理にべたべたはしない。毎日の登下校も、偶然一緒になれば共にする、という程度。
忘野の距離感に僕も合わせていた。
そんな僕と忘野の関係は着実に学校内に知れ渡っていき、僕はクラスメイトからの何か聞きたそうな視線を毎日のように感じた。
ただ、野次馬根性ド根性で、実際に僕に尋ねてくる勇者はひとりもいなかった。
僕のクラスでの浮き具合が、まさかの功を奏したパターンである。
当然、僕と忘野が『嘘の恋人』であると見抜かれることもなかった。
それはそうだろう。普通、そんな意味不明な嘘を吐いてるなんて思わないし、そんな嘘を見抜ける程他人同士の関係を熱心に見ている人間なんていない。他人のことなど、その程度の関心で見ているものだ。
僕にとってありがたいことに。
おかげで、嘘がバレるかもしれないという心配はなくなった。
ただ、それとはまったく別の不安要素が、僕にはあった。
「つーか、この噓の恋人……いつまで続けりゃいいんだ?」
◆
放課後、僕は社会科準備室を訪れた。
「ごめん、遅れた」
そう声を掛けながらドアをスライドさせる。
夏服の前田を棚の陰に見つけた。ワイシャツのボタンを大胆に開け、脇に手を突っ込んでいる。
僕がやってくると、前田はドア口に目を向けてきた。
「悪い、邪魔した」
前田としばらく顔を見合わせてから、僕は回れ右して後ろ手にドアを閉めた。
たまには学級委員としての仕事を手伝おうと思ったのだが、日を改めた方がいいらしい。そんなことを思っていると、ドアが内側から勢いよく開かれた。
振り向くと、ひどく慌てた様子の前田がいる。
「違うからね⁉ 本当に違うからね‼」
そんなことを大きな声で捲し立ててきた。
「わかってるって」
「本当……?」
「学校の中でこっそり露出プレイにご満悦中だろ? そんくらい見ればわかる」
「なにも分かってないっ⁉」
汗を拭いてただけだよ――と、前田は何の面白みもない言い訳をする。
もっと弄ってもよかったが、今まで学級委員の仕事をサボりまくっていた負い目があるので、今日のところはこのくらいで許してやることにした。
「ちょうど、篠宮君のこと考えてた」
仕事に取り掛かると、前田がそんなことを言ってきた。
「僕の陰口でも考えてたのか?」
「雪姫ちゃんと付き合ってるってホント?」
僕の冗談には取り合わず、前田はストレートに質問してくる。
「マジだけど」
「そっか」
「実はまだ付き合いたてで、距離感はそんな詰まってないけど」
「ふ~ん」
釈然としない態度の前田。そこはかとない疑いの視線も感じる。何を根拠にしているのかは知らないが、僕らの偽の関係を疑っているようだった。
それでも、前田が追及してくることはなかった。
「ま、だったら、一応耳に入れておこうかな」
前田が僕の横に並んで、一段声を小さくする。
「雪姫ちゃんだけどさ」
わずかに、前田が言い淀んだ。
「よくない噂が流れてる」
「男の趣味が悪いとか?」
学校内での僕の評判を考えれば、それくらいは言われそうなものだ。
「その……」
「なんだよ。遠慮せずに行ってくれ」
「……させ子だとか、ビッチだとか、頼めば誰でもやらせてくれるとか」
気を遣ったというか単純に恥ずかしかったのだろう、前田の声がさらに小さくなる。それでも言ってくれたのは、前田の正義感がなせる業だろう。
「なんだそれ」
僕にとってはどれも初耳。
「篠宮君がいけるならって……本当に失礼な話だよ。雪姫ちゃんにも、篠宮君にも」
それを聞いて、僕は妙に納得した。
忘野は男子に大人気の少女だが、その突き放すような圧倒的美貌故、告白自体はそれほどされたことがないらしい。
つまり、男をフッた実績も少ないのだ。
そこに、ぼんやりした顔の彼氏が登場である。
僕だって、俺だって――そんな思いが、言葉がいつの間にか伝言ゲームされて、歪んで膾炙されてしまったのだろう。
多分、噂自体はまだそこまで大きなものにはなっていないはずだ。
もしその噂が大きくなっていたら、さすがに星川あたりがなにか教えてくれそうだと思う。
異常な広さを誇る前田のネットワークに、辛うじて引っかかった程度のものということだ。
……はあ。
また厄介な状況になったものだ。
僕は何を言われても気にしないが、忘野は案外、そうはいかないだろう。
「さてさて……」
棚の反対側に回る。順番がめちゃくちゃになった資料を番号順に戻す作業に取り掛かった。
これ以上、忘野の悪評が広まるようなら、何か知恵を絞らなければならない。
「篠宮君は、何をしているわけ?」
気が付くと、すぐ横に前田がいた。
「とりあえず、欠けた十七番の資料を探してる」
「そうじゃなくて、瑠璃ちゃんは?」
「だから僕と湯川はそんなんじゃ……あれ? いま、瑠璃って言った? お前、湯川推しじゃなかったっけ?」
「あれは冗談だよ。本当は星川さんと好き合ってるんでしょ? 見てればわかるよ」
「……お前のコミュ力には脱帽だよ」
そんなの、まだギリギリ湯川にも見抜かれてないのに。前田が初めてだ、僕らの関係を見抜いてきたのは。
……。
あっ、いや、よく考えたらもう一人いるわ。
相庭が。
えっとだから、つまり……。
相庭=前田ってこと?
はははっ。
「……篠宮君、なんか失礼なこと考えてるでしょ?」
「正解なんだけど、僕の考えてることを失礼なことって言ってるお前が一番失礼だと思うぜ、僕は」
「……?」
資料整理は、ただ資料を番号順に並べるだけの仕事だ。そんなに難しくはない。
「さっきの噂の話だけど」
棚の反対側に回りながら、前田が独り言のような口調で続ける。
「私の方でも、なんとかはしてみる……けど、あんまり期待しないで欲しいかも……ごめん」
「なんで前田が謝るんだよ」
噂と戦うなんて馬鹿らしい――いつかそう言った。
だが、どれだけ馬鹿馬鹿しい戦いでも、いつかは挑まなければならなくなる。そうでなければ自分を守れない。今回の件に関しては、忘野のためにも。
だから、僕が気を揉むのは自業自得だから仕方ないとして――それでも、前田が苦心するのは筋違いだ。
「前田ってあれだな、優しいよな」
「もう、なんで急に褒めるの」
「褒めてない。憐れんでる――いや、マジで」
優しい人間は他人に気を配らないといけないから損をする。
馬鹿げた話だ。
「――ま、最悪、前使った方法で何とかするさ」
「前使った方法?」
「新しい噂で、古い噂を塗り潰す作戦」
「ああ、瑠璃ちゃんの時の……でも、そんなインパクトのある情報、篠宮君持ってるの?」
「自慢じゃないけど、そんな情報が入ってくるほど人間関係を構築できてない」
「ホントに自慢じゃないね……」
「最終兵器はあるんだけどな」
「最終兵器?」
「『みんなの人気者、前田華凛はCカップらしい』っていう情報」
「最低すぎる⁉」
「冗談だよ。冗談」
ここまで気を遣ってくれている恩人に、そんな仇を返すほど僕は畜生じゃない。
というか、自分のために誰かを貶める勇気が、僕にはない。
いい人でいたいとは思わないけど、嫌な人間にはなりたくないとも思っている。
「あくまで最悪の場合だけど……」
棚の向こうから、前田の赤い顔が覗いた。
「私のカップ数くらい、言いふらしていいからね。あんな最低な噂が学校に蔓延するくらいなら、そっちの方がマシだから」
「………」
「……本気で言ってるから」
「……もしそんなことをする事態になったら、僕のことを遠慮なくひっぱたいてくれ。甘んじて受け入れるから」
前田の厚意に応えるのに、その程度の提案しかできない自分が、心底情けなかった。