そしてまた時は少し流れ。七月七日。七夕でもあるこの日は、朝から見事なまでの日本晴れだった。梅雨も出口に近づき、雨も少なくなっている。
湯川の家で朝食を食べながら、テレビを眺める。
「このお天気なら、織姫と彦星も無事に会えそうですね」
愛らしい表情で人気のニュースキャスターが、そんな洒落たことを言っていた。
続く天気予報では、各地で気温が三十度を超える勢いだということを、満面のスマイルで伝えてくれる。聞いただけでやる気がなくなる情報だった。
「許されるなら、学校サボりたいな」
登校中、湯川が僕の隣を歩きながら呟く。
「許されるわけないだろ。今日、期末試験だぞ?」
「期末って休んだらどうなるんだっけ?」
「後日再試。点数は七割換算。僕はそれでも問題ないけど、お前はヤバいんじゃないか?」
「余裕で赤点だね(笑)」
「『(笑)』じゃねぇよ。お前、今日はマジで頑張れよ? お前に勉強教えるために割いた僕の時間を無駄にしてくれるな、頼むから」
「しょうがないな。そんなにお願いされたら、私も無下にはできないよ」
「なんだお前」
「勉強って何のためにしてるんだろ……?」
「将来のためってことになってるんじゃないか?」
「将来ね……私、サンタクロースになりたい」
プロゲーマーじゃないんかい。
「年三百六十四日休みだからか?」
「バレたか」
「バカって本当にバカなこと言うんだな、勉強になった」
「ここテストに出るよー」
「出ねぇよ」
暑さに耐えながら登校した僕らを迎えたのは、英語と数学の試験。英語に関しては満点の自信まであるが、数学に関しては回答提出後に一問計算ミスしていたことに気付いた。
「よお、湯川。試験どうだった?」
「数学はまずまず。英語はワンチャン」
「ワンチャンどうなんだよ?」
「ワンチャン赤点を回避できる」
「そうか。残念ながら将来サンタクロースになるのは無理かもな」
「そういう篠宮はどうなの?」
「……まあ、少なくとも一問はミスしてるな」
「なんだ、仲間じゃん」
「仲間じゃない。断じてな」
僕がミスっても試験の点数が上がるわけじゃないのに、なぜか湯川はほっとしている。
バス停までの短い通学路は、我が校の生徒でごった返していた。普段の帰り道より混雑しているのは、試験期間のため、部活動で放課後に校舎に残る生徒がいないせいだ。
校門を出てすぐに、僕は見覚えのある後姿を見つけた。
生真面目に紐を短く締めて背負ったリュック。忘野だ。
どこか居心地悪そうに俯き、しょんぼりと肩を落としてひとりで歩いている。いつも一緒の相庭はどこにも見当たらなかった。
周りの人間は、そんな忘野をちらちらと見ながら、ひそひそと陰口を叩いている。
忘野も、それに気が付いているようだった。
「湯川」
「わかってる。可愛い彼女と楽しんできな」
「楽しいことになるといいんだけどな……」
歩道の端っこを、忘野は申し訳なさそうに歩いている。周囲にいる生徒は、忘野から僅かに距離を置き、見えない壁を形成しているようだった。同じ空間にいるのに、忘野だけが別の空気に包まれている――閉じ込められている。
小走りになった僕は、集まる視線を無視して忘野の隣に並んだ。その肩を優しく叩く。
「よっ」
「涼太さん……」
一度は顔を上げた忘野だが、すぐに俯いてしまった。
僕が合流したことで、注がれる視線は遠慮がなくなった。かといって、露骨に見てくるわけではない。噂の真偽を確かめるように、探るような目を向けてくるだけ。
適度にせせら笑い、噂話を面白がり、どことなく見下したような視線の数々。
僕にしてみれば――今の僕にしてみれば、もはや痛くも痒くもないもの。何とも思わない。しかし、隣にいる忘野は窮屈そうにしていた。
少し俯いた横顔はいたたまれない感情に支配されている。情けなさと恥ずかしさが心を蝕んで、逃げ出したくてしょうがないという思いが、僕には痛いほどに理解できた。
その忘野に追い打ちを掛けるように、背後からどよめきが聞こえてきた。
びくっと、忘野の肩が跳ねる。
もうすでに面倒臭く感じながら振り向くと、モーセの伝説のように人の波を割って、ひとりの女生徒が姿を現した。三年生の制服に身を包んだ、北欧風の顔立ち。全体的に色素の薄い彼女は、どこか儚げな魅力を湛えている。
触れれば壊れそうだし、できれば関わりたくない。切実に。
「生徒会長だ」
「わっ……初めてこんな間近で見た。凄い美人……」
一同の視線も釘付け。もはや近づきたくない。痛切に。
まだ僕は諦めない。この場を上手くやり過ごせば、逆に忘野先輩が周りの興味関心を全て攫ってくれること間違いなしなんだから。というか、忘野先輩が僕らに話しかけてくる道理なんてない。僕の自意識過剰だ。
そんなことを考えていたら、紺碧の双眸とばっちり目が合った。
瞬間、忘野先輩はキラッキラッの笑顔(作り物)に。
「あっ! 篠宮後輩!」
瞬間、僕はシラッシラッの真顔(ガチ)に。
みんなのアイドル――どころか、みんなの女神ですらある彼女が、僕らへと惜しげもなく手を振っていたら、全ての視線が僕らに刺さる。ふざけんな。
「篠宮後輩! おーい、篠宮こうはーい!」
僕はまだ諦めない。忘野先輩に背を向けて歩き出す。
名前を呼ばれている気もするが、きっと気のせいだ。たまたま僕と似た名前の人がいるのだろう。『死の宮・荒廃』という渾名の友人が、忘野先輩にはいるのだ。忘野先輩は中二病なのだろう。
忘野先輩が僕の肩を掴む。
「篠宮後輩」
「あっ、人違いです」
「人違いじゃないよ」
ワンチャントライしてみたが失敗。何事も挑戦は大事である。
僕の隣で、忘野の口が無意識に「姉さん」と動く。音にはなってない。
「やあ篠宮後輩、それから雪姫。今から帰り? それともデート?」
「………」
忘野先輩からの質問に、忘野は答えない。答えられないと言った方が正しい。視線を落として、忘野先輩からの質問に沈黙を返している。
そして忘野先輩も、最初から妹になんか訊いていなかった。
その視線は僕を捉えている。
さてどうしたものか。
忘野は僕の陰に隠れるように身を潜めているが、僕がこの場を乗り切ってあげるのは正しいことなのだろうか……。
「………」
だが、沈黙を貫く忘野に状況の打開を期待するのは難しいのも事実だった。
仕方がないので、僕はゆっくりと口を開く。
「僕と忘野は今から――」
「忘野? 雪姫って呼んでるんじゃなかったのかい?」
この野郎。
「……僕と雪姫は今から一緒に勉強です」
「なあんだ。そうだったのか。妹が迷惑をかけているようですまないね」
「迷惑なんかじゃありません、好きでやってることですから」
僕は割と本気で言ったのだが、忘野先輩は「あっはっはっ」と笑った。
「ま、試験勉強するのは良いことだ。三年になっても、勉強してない自慢する奴がいるくらいだからね。偉いぞ、雪姫。頑張れ」
その言葉の空虚さに、僕も思うところがなかったわけではないが、しかし、結局何も言えなかった。ただ、忘野の手を引いて歩き去った。
尻尾を巻いて逃げるように。
◆
「――つーわけで、こういう『つまり』とか、『だから』みたいなディスコースマーカーの前の文は消しちゃってもいいんだ。同じように、『しかし』とか『とはいえ』みたいなディスコースマーカーの前の文も消していい。そうすれば、読まなくちゃいけない文章が半分ぐらいに減ることもあるぞ」
僕は適当に入ったファミレスで、対面に座る忘野に現国を教えていた。
忘野に勉強を教えるのも慣れたもので、最近では要領を掴み始めたころでもある。勉強自体は昔から湯川にも教えていたので、もはや手慣れたものだ。
「………」
とはいえ。
当の忘野が勉強に身が入っていないのなら、僕の才覚も無駄も無駄だ。
忘野の前には現国の教科書とノートが開かれている。しかし、忘野がそれを見ている様子はない。視線を虚空に彷徨わせ、気も漫ろにしている。
嘘でもひと月以上、彼女の恋人を務めてきた僕だ。
その浮ついた表情を見たら、その内心も何となくわかる気がした。
「別にいいんじゃないの?」
「………」
忘野の目が「何がですか?」と問いかけてくる。
「お姉さんのことが好きでもさ」
「っ⁉」
「劣等感を感じても、妬ましく思っても、やっぱり好きなんだろ」
「………」
忘野は何も言わない。いつも呆としている瞳を動揺に揺れさせて、じっと僕を見ている。見詰めている。僕の真意を探るように、瞬きすら忘れて……。
「……おかしくないですか? そんなの、おかしくないですか?」
少しの間を空けて、忘野が自信なさげに訊いてきた。
姉となんでも比べられてきた。嘲りの言葉も、いくらでも言われてきた。たぶん、姉の存在をどこか疎ましく思っているはずだ。
それでも、忘野は姉を嫌いになれなかった。
それをおかしいと思う気持ちがある一方で、好きなままでいたいと思う気持ちもあるのだ。
「おかしくない」
少なくとも、僕は微塵もおかしいとは思わない。
「好きだけど嫌い、嫌いだけど好き――そんな風に思ってたっていいじゃないか」
「でも――みんなとは違います」
「そうじゃない。『みんな』に合わせてやる必要なんてないんだよ。うちはうち、よそはよそって親に言われたことない?」
「私の家では『お姉ちゃんみたいに』って言われることの方が多かったです」
呪詛のように忘野は呟いた。
「そりゃ、たまんないな」
「………」
「――でも、事実として忘野の中じゃ結論出てるんだろ? 忘野先輩に『偉いぞ』って褒められて、『頑張れ』って応援されて、試験勉強に身が入らないくらい喜んじゃってるんだから、もう答え出てるだろ」
「………」
疼痛を堪えるように、忘野が胸元を握り締めた。
「姉さんの……」
「ん?」
「大好きな姉さんの、大好きな妹になりたい……」
その言葉は――独白は僕の胸にすとんと落ちてきた。
「さ、じゃあ、忘野。勉強でもするか」
「涼太さん」
忘野はノートに向けるべき目を、なぜか僕に向けている。
「ん?」
「よかったら、私のこと、『雪姫』って呼んでもらえませんか?」
「……なんで?」
「その……えっと……あの……なんとなく、です」
真っ白な肌をほんのり赤くして、そんなことを言ってくる。
いや、そんな言い方されたら、断れるわけなくね?
「わかったよ、雪姫――ほら、勉強しよう。少しでもいい点とって、お姉さんに褒めてもらおうぜ」
そう言って、僕は忘野――じゃなくて、雪姫を促した。
雪姫はスイッチが入ったように集中力を取り戻して、問題集に取り掛かる。
その様子を眺めながら、僕は全く別のことを考えていた。
この拗れた人間関係の解決について。
雪姫の姉への思いを知った今、僕の厄介な人間関係は、割と簡単に解消できる。
――ただし。
その終幕は決して、ハッピーエンドなんかじゃなくて――むしろ、バッドエンドと呼ぶべき幕引きを迎えることとなるだろう。
或いは、これ以上ないくらいの醜悪な結末が待っているかもしれない。