木曜日は朝からぐずついた空模様で、雨が降ったりやんだりを繰り返す嫌な天気だった。
午後になっても、晴天が顔を出す気配はなく、どんよりした曇り空には溜息が出そうだ。
「篠宮」
名前を呼ばれて、顔をそちらに向けた。
今日は、湯川が僕の部屋に来ている――今日『も』か。
部屋の中心に折り畳み式の座卓を広げ、僕と湯川は斜向かいに座っている。斜め四十五度から見る湯川の顔は窶れ気味だ。
「ん?」
「なんで私、勉強なんてさせられてんの?」
「明日まで期末試験だからじゃないか? わかんないなら教えてやるから、まずはその問題を自力で解いてみろ」
物理の問題を指差す。
ドップラー効果の設問。
「五分考えてわかんなかったら教えるから」
実際の試験なら、三分弱で解くレベルの問題だ。
五分でわからないなら、教えるしかない。
「赤点さえ回避できればいいんだけどな」
「お前はその赤点ラインすらスレスレだから、こうして勉強を見るよう、おじさんに言われてんだよ」
「私の勉強なんて見てて、篠宮は大丈夫なわけ?」
「お前に心配されるのが屈辱的なくらい大丈夫だ」
「篠宮って、ちゃんと進路は考えてるの?」
「まあ……将来はサンタクロースになるとかほざいてる奴よりは『ちゃんと』考えてるだろうな」
そんな曖昧な返事をすると、湯川から珍しくも真面目腐った視線を寄越された。
どうやら、真面目に答えてほしいらしい。
「大学に行こうとは思ってる」
そのためにはクリアしなければならない条件がふたつ。ひとつは学力面。志望大学によっては、そろそろ本腰を入れて勉強し始めなければならない。もうひとつは経済面の話。もちろん学費を自力で工面するなんて無理なので、親には当たり前に相談しなければならない。
「湯川は?」
「進学予定」
「ゲームに集中するんじゃないんだ」
「しながらでも、通えるでしょ。今までもそうだったし」
今もそうだ。
「でもま、私たちのクソ長い腐れ縁も、高校までか……」
「そうだな。僕と湯川が同じ大学に通うことにはならないだろうな――つうか、そうならないように気を付けるわ」
僕もいつまでも余裕ぶっこいているわけにはいかない。
具体的な進学先は何も決めてないが、狙いは公立だ。国立にしろ、市立にしろ、難関大学には変わらない。
場合によっては浪人も辞さない覚悟だが、できれば現役で進学したい。
「可愛い彼女は進路どうするって言ってるの?」
「『可愛い彼女』が雪姫のことを言ってるなら、あいつはまだ一年だからそこまで考えてないだろ」
「いや、そっちじゃなくて……ん? 『雪姫』? あの子のこと名前で呼ぶようになったの?」
「まあ……そう呼ぶよう本人に頼まれてな。忘野先輩と区別を付けるためにも、下の名前で呼ぶことにした」
「ふ~ん」
あまり興味なさそうに、湯川が相槌を打つ。
しかし、虚空を何度も行き来するシャーペンの動きを見るに、どうも勉強に集中できていないようだった。
まあ、湯川が勉強に集中できていたことなど一度もないのだが、それにしても気が散っている。
「訊きたいのは、僕と雪姫の関係か?」
「………」
少し驚いた顔で、湯川は僕の顔を見てきた。
なにを今更。
顔を見れば相手の考えてることがなんとなくわかるのは、お互い様の事である。
「いや……ただ、いつまで嘘の恋人なんて続けるのかなって思って。もうすぐ夏休みだし」
「……色々込み合った事情があんだよ」
「お姉さんへの劣等感だっけ?」
「ああ」
厳密には、事態はもうちょっと複雑なのだが、それを言葉にしたところで、理解してもらえるとは思えない。
そもそも。
湯川は昔から天才肌な人間だった。
身近な誰かを妬んだり、劣等感を抱いたりとか――そういうのとは無縁な人間である。
「わかるなぁ」
湯川は物理の問題に視線を落としたまま、そんなことを呟いた。
「私も、ちょっと前まで篠宮が羨ましかったから」
「……………は?」
「ん?」
「え、……なに、どういうこと? 羨ましかった? お前が? 誰を?」
「だから、篠宮が」
「僕が? なんで?」
「そりゃ、篠宮が勉強できるからでしょ。実は運動神経もいいし」
「……なんだそれ」
自慢じゃないが――いや、自慢だが、僕はそこそこ勉強ができる。
でもそれは、湯川みたいな天才になりたかったからだ。
運動だって、湯川みたいに広い舞台で活躍したかったから頑張っただけだ。
「なんだよ、ホント」
お手上げだ。
僕は何だか馬鹿馬鹿しくなって、机に突っ伏した。
「……実を言うとな、僕はずっと、お前みたいになりたかったんだ」
「そうなの? 私もずっと、篠宮みたいになりたかった」
理解できない話だった。
僕なんかになりたい意味がちっともわからない。
――きっと。
湯川も、同じことを思っているのだろう。
僕らはお互いのことをなんでも知った気になっていて、その実、全然お互いのことを理解していなかった。
「似てるな、僕たち」
「幼馴染だからね」
僕は苦笑いした。
幼馴染だから似てる、か。
僕が湯川になりたかったように、湯川が僕になりたかった――そんなアイロニックなすれ違いが、あの姉妹にも適応できたなら、僕の頭を悩ます問題はひとつ減るのだが……。
「篠宮はさ」
ドップラー効果の問題は未だ解への道を見せていないのか、湯川はシャーペンをくるくると回しながら口を開く。
「もうわかってるんじゃないの?」
「その問題の答えか? ――それなら、ひと睨みでわかったけど……」
「じゃなくて」
言いながら、湯川はシャーペンを動かし始める。
ノートの上を、黒鉛が走った。
「――可愛い彼女を助けてあげる方法が、もう思いついてるんじゃないの?」
「………」
敵わないな、と思った。
同時に――やっぱりな、とも思った。
やっぱり、幼馴染とはいえ、何でもかんでも通じ合えるわけではない。
顔を見れば考えていることはわかるけど、心が読めるわけじゃない。騙そうと思えば、騙すこともできる。
「雪姫を助けることはできない」
忸怩たる思いで、僕は呟いた。
「僕が助けられるのは、僕だけだ」
僕が思いついた作戦は。
僕がやろうとしていることは、全員を少しずつ不幸にして、僕がひとりだけ得をするという、最低最悪の作戦だ。
忘野との関係を解消することはできるが、到底、実行する気にはなれない。
「なんだかわからないけど、作戦があるなら早めに実行した方がいいと思うよ。最低でも、夏休みまでには」
「……そりゃまたなんで?」
「なんでって言われたら、なんとなくかな――ほい、解けた」
そう言いながら、湯川はノートを僕に手渡してきた。
さっきから湯川が取り組んでいた、ドップラー効果の問題。
「………」
そこに書かれた途中式はめちゃくちゃで一ミリも合っていないのに、解答だけは完璧に正解を示していた。