五日間に渡る期末試験がやっとこ終わった金曜日の放課後、前々からの約束で、僕は雪姫とデートすることになっているのだが、その前に、僕は四階にある三年生のフロアを訪れた。
目的の人物がどのクラスにいるのかは知らないので、教室をひとつひとつ覗き込んでいく。
三つ目に覗き込んだ三年三組の教室で、僕はやっと目的の先輩を発見した。
「忘野先輩」
白い髪と青い瞳。
日本人ばかりの教室で、いい意味で浮いている彼女を大きな声で呼び止める
僕の声は予想外に大きく反響し、教室中の視線が僕に集中した。
そしてやおら、先輩たちがひそひそと噂話を始める。
僕が忘野先輩の妹と交際しているのは、三年の間でも話題になっているらしい。
僕はそんなことは一切気にしないで、忘野先輩を手招きした。
「やあ、篠宮後輩。急にどうしたんだい?」
「どうしたかというと……」
僕は周りに目を向けた。
今日初めて見るばかりの顔が、揃ってこちらを注目している。
「………」
好き勝手に噂されるのは構わないが、今からする話を周囲に聞かれるのは具合が悪い。
「ちょっと、人気のないところに来てもらっていいですか?」
ざわっと、周囲がどよめいた。ちょっと言葉が足らなかったかな……。
「急にどうしたの……もしかして、告白かな?」
空気を読んで、忘野先輩が茶化す。
「はい、そうです」
僕は意趣返しに、そう言ってやった。
面白いように、教室が騒めく。
珍しいことに、忘野先輩も目を見張って驚いていた。
僕は悪戯が成功した子供のようににやりと笑って、
「ただし、罪の告白です」
と、続けた。
◆
「おい」
忘野先輩への『告白』と、それから『お願い』を終えて、雪姫との待ち合わせ場所に向かう途中で、そんな風に乱暴に呼び止められた。
声の主に目を向けると、小柄な後輩男子が柳眉を逆立てて立っている。
「よう、君島――今日も雪姫の件か? 飽きないな、お前も。やれやれだぜ。おとといきやがれってんだ」
「一昨日も昨日も来ただろ! お前ホントいい加減にしろよ!」
「一昨日も昨日も期末試験だったんだけどね。君ちゃんと試験勉強してる?」
「う、うるさいな……そんなことはどうでもいいんだよ」
「どうでもよくないだろ、どう考えても」
学生の本分は勉強だ……なんてうるさいことを言うつもりはないが、だからと言って、勉強を蔑ろにしていいとは思わない。
「なんだったらあれだぞ、雪姫と一緒に君島の勉強見てやってもいいぞ。ツッコミ役がいてくれた方が僕も楽だし」
「勉強になんでツッコミがいるの⁉ ねえ⁉ アンタ勉強中に何してるんだよ⁉」
「あっはっはっ」
「――ていうか‼ その『雪姫』って呼び方もムカつくんだよ。俺だって……まだ、そう呼べてねえのに……」
「え? 『親父にも殴られたことないのに』?」
「言ってねえよそんなこと‼ 俺はアムロか‼」
「『ED君島』だろ?」
「違ぇよぉぉぉぉ‼」
あっはっはっ。
君島は今日も元気がいいなあ。
「じゃ、僕はこの辺で――いまから、雪姫とデートなんで」
「あっ、そうなんだ。引き留めて悪かったな……ってなるとでも⁉ 行かせないよ⁉ ――てか名前! 呼ぶなって言ってんだろぉ‼ 何度言えばわかるの? ねえ、何度言えばわかるの? 『雪姫』って言った回数分殴ればわかるのかなあ⁉」
「雪姫雪姫雪姫雪姫雪姫雪姫雪姫雪姫雪姫雪姫雪姫雪姫雪姫雪姫雪姫雪姫――さて、何回『雪姫』って言ったでしょうか?」
「なんなのお前⁉ ホントに何なのお前ぇ⁉」
あっはっはっはっ。
君島は本当に元気がいいなあ。
「ありがとう君島。お前のお蔭で元気が出てきた」
「……はあ?」
「ありがとうついでにお願いがあるんだけど」
「お前何言って――」
遮るように、僕は頭を下げた。
後輩に対して、低頭平身。
安い頭を深々と。
「雪姫と……あいつと友達になってやってください。遠巻きに見てるんじゃなくて、ちゃんと声をかけて、仲良くなってやってください」
「………」
「お願いします」
深々と、真摯に、真剣に。
僕は本気で懇願した。
臆面もなく。なに恥じることなく。
自意識の欠片もない僕にしかできないことだと信じて。
「……なんだよ」
やがて、君島が居心地悪そうに呟いた。
「なんだかわかんないけどわかったから、頭なんて下げるなよ。気持ち悪いだろ……」
先ほどまでのパンパンに膨らんだ風船のような勢いはどこへやら、萎んだ調子で投げやりにそんなことを言う君島に、僕はにっこり。
はいはい、ナイスツンデレ。
「ありがとう。恩に着るよ」
「……おう」
「じゃ、僕は今から雪姫とデートだからこれで」
「ああ、また今度な……って、騙されねえよ⁉」
走って逃げた。
◆
そして、校門の前で待ち合わせをした僕と雪姫は、お互いのテストの出来の話なんかをしながら、左右に並んで歩き始めた。
ちょっと色々時間を食ってしまったせいで、下校する生徒の波は疎らだ。
舗装されたアスファルトの道を下り、家路をゆるゆると歩いていく。最近では、意識せずとも雪姫の歩幅に合わせられるようになった。
バス停前の交差点を渡り、そのまま直進していく。
「涼太さん? 駅には行かないんですか?」
雪姫が左を指差す。駅へと一本で続く、ほぼ学生専用と化したバス停だ。
「たまには高校周辺を開拓するのもありだろ?」
「そうですね。言われてみれば、この辺の地理を全く知りません」
「意外とそんなもんだよな」
電車通学の人間は、普通、学校周辺の地理に詳しくないものだ。バス停と校門を行き来するくらいなものだし、帰りがけに遊びたいなら、バスで駅まで行ってしまった方が色々と充実している。
事実、僕らが今まで敢行してきたデートも、殆どが駅周辺で行われたものだった。
例外は、だから、最初の一回だけだ。
進行方向には、濃い夏の陽炎が揺らめいていた。上り坂の天辺は歪んでいて、下からだとよく見えない。
上空を優雅に旋回しているのは鳶だ。しかし、その優雅な滑空もこの酷暑のせいか、どこか弱弱しい。
二百メートルほど続いた長い長い坂を上りきると、目の前に朽ちた石段が見えた。これを上れば、いつぞやの神社に辿り着く。その石段を無視して左折すると、またうんざりとするような坂が現れた。道幅も狭くなり、懐かしい趣が一段と増す。両脇には、この令和の世に昭和感を醸し出す様々な商店が軒を連ねていた。
ゆったりとした時間の流れる街を、雪姫を連れ立ってゆっくりと歩く。
学校からほど近い場所だというのに、忙しないあの場所とは対照的な時間の流れる道だった。
商店を営む人やそこに訪れた客たちは、誰も僕らのことを笑わない。
時折、声を掛けられることはあったが、誰もが僕と雪姫というカップルをにこやかに歓迎してくれていた。
「暑いですね」
「ああ、そして何より坂がキツいな」
このなんだかいい感じのレトロな道は、ゆったりとカーブを描きながら、地味に険しい坂になっている。
ここに住むと、毎日この坂を行き来することになるのだろうか。なるほど通りで、地元民が妙に健康そうである。
途中で駄菓子屋を見つけたので、休憩がてらラムネを買った。
ポンッ、と炭酸の弾ける音共に開栓すると、途端に夏が薫る。
ラムネなんて十年ぶりくらいだが、不思議なことに、栓の開け方は忘れていなかった。
「あー、カップルだー」
通りがかった小学生くらいの男の子が、僕らを指差して冷やかしてくる。
同じ冷やかしなのに、同級生にされるそれとは全く不快感が違う。違うというか、小学生に冷やかされても全然不快じゃない。悪意の有無だろうか。
「そうだ、カップルだぞ。どうだ、羨ましいだろ?」
「んー。なんか不釣り合い」
「そうか?」
「お姉ちゃんは凄い美人だけど、お兄ちゃんはそうでもない」
「そうでもないか」
「うん。ほら、あれ、なんだっけ……美女と野獣先輩? みたいな」
「惜しい……『美女と野獣』だろ。先輩はいらない」
「お兄ちゃんは先輩じゃないの?」
「先輩だけど、野獣先輩ではないな」
「そうなんだ」
「ていうか、僕、別に野獣って感じの顔じゃないだろ」
「う~ん。野性味のない野獣って感じ」
「……それはどうしようもないな」
悪意はなくても――いや、悪意がないからこそ、深く切りつける言葉もあるんだな……。
雪姫は隣で忍び笑っていた。
将来有望な少年をやり過ごして、再び重い腰を上げると、僕らはさらに坂を上っていった。
雪姫は何も言わずに、僕についてくる。
何も訊かずに。
これがひと月で築き上げた、僕らの信頼関係だった。
坂を更に上っていくと、道幅は殊更狭くなる。ついには人影は絶え、未開発の自然が顔を覗かせた。
殆ど未舗装の道をじっくりと攻略する。
見えてきたのは、ところどころ塗装の禿げた朱色の鳥居。
「ここは……」
「そ、あの神社」
僕と雪姫の関係が始まった場所。
石段を登っていくのではなく、坂を上っていく迂回路を選んだのは、もちろん、時間稼ぎの為である。
「どうしてここに?」
雪姫が不思議そうな目で訊いてくる。
何の色もない、無感動で無垢な瞳。
その目に射竦められた僕は、きりりと痛む胸を押さえつけた。
――罪悪感なんて感じてんじゃねぇよ。そんな資格ないだろ。
それでも、心っていうのはそんな簡単に切り替えられるものではなくて、僕の内心は時間経過とともにぐちゃぐちゃになっていく。
だが。
一晩考えてきた言葉は、息をするように紡がれていく。
「始まった場所で終わる方が、なんかお洒落だろ」
「……え?」
瞠目。
息も絶えた。
痛いくらいの沈黙が、境内を支配する。
「雪姫……嘘の恋人は、もう終わりだ」
言って。
僕は例の結びの樹に近づいた。
この神社の神主がそうとうサボっているのか、それとも普通そういうものなのか――ひと月も前に結んだ絵馬は、まだ結びの樹に括りつけられたままだった。
不信心にも、僕はそれを解く。
「どうして……」
雪姫が呟く。
これはただの演出だ。
絵馬を回収したことによって、そこに書かれた願いも無効になる……というルールがあるのかは知らないが、まあ、そういう演出である。
「雪姫、僕は最初、お前の力になりたいと思って、この嘘の恋人を引き受けた。お前の、身近な人間に劣等感を感じる心は、僕としても共感できる部分があったから。だから、お前を助けたいと思ったんだ」
「はい。とても助かりました」
「いいや、助かってない。僕はお前に何もできてない。だってお前の本当の目的は――本来の目的は、お姉さんを見返すことでも、周囲にお姉さんより優れているところがあると認めてもらうことでもなかったんだから」
そう、そんなことはどうでもよかったのだ。
僕が勘違いしていた。
『みんな』なんて、最初から雪姫の眼中にはなかった。
「お前は、お姉さんに認めてもらいたかったんだ――そうだろ?」
「………」
だから、無意味なのだ。
雪姫が恋人を作ったって、その恋人と仲睦まじくやったって、そんなことでは忘野先輩は認めてはくれない。そんなことは雪姫もわかっているから、いつまで経っても満たされない。でも、嘘の引っ込みがつかない。
ならばその嘘は、先輩として、僕が収拾してあげなければならない。
嘘に協力するなんて、愚かな真似をした僕にできる、最後の罪滅ぼしだから。
だから、僕は今、絵馬を外した。
絵馬を外して、そこに書かれたお願いを無効にした。
よって、僕と雪姫の縁結びのお願いも取り消しだし。
裏面に書かれた『嘘の恋人がバレませんように』というお願いも、取り消しである。
そういう演出である。
「なあんだ、そういう事情だったんだ」
そんな声が、僕のでも雪姫のでもない声が、二人しかいないはずの境内に響いた。
その声は、神社の
「え?」
気づいていなかった雪姫が驚いて顔を上げる。
「やあ、雪姫、篠宮後輩。こんなところで奇遇だね」
そこにいたのは、忘野先輩だった。