「なんで……姉さん」
震える声で雪姫が問いかける。
その声は、嘘が露呈した子供のような幼さを孕んでいた。
「雪姫……」
忘野先輩は静かに境内を横断し、雪姫にゆっくりと近づいた。
「全部私のせいだったんだね。ごめんね」
零れる言葉は、痛々しいほどに涙声で。
しかし、潤む瞳は逸らされることなく雪姫に注がれている。
「懐かしいね……昔は、私たち、近所でも有名な仲良し姉妹だった。どこに行くのも一緒で、何をするにも同じことをしてた。私の後ろをちょこまか付いて歩く雪姫、可愛かったなぁ」
縷々言葉を溢す忘野先輩は優しい顔をしている。
「でも……」
その顔に陰りが落ちる。
「ピアノ教室で私が先生に褒められて、それから、変わっちゃったね」
その声は聞いただけで身が引き裂かれそうな寂しさを湛えていた。
「あの頃は……ただただ目が回りそうだったことだけ覚えてる。色んな習い事をやらされて、どこでも『天才だ』って褒められて、最初は嬉しかったけど、途中からは訳わかんなくなっちゃった。一日にふたつもみっつも習い事をやらされて……ホント、目が回りそうだったよ」
忘野先輩の静かな声。
「学校から直接ピアノ教室に行って、夜はバレエ――隙間時間は算盤とか習字とかもやったっけな。家に帰っても寝るだけ……ていうか、帰れない日もあったっけ? 週一くらいでなんかの大会に出てたから、いつもホテルに泊まってたような気がするよ」
あははっ、と忘野先輩は乾いた笑いを溢す。
「なんかそのうち、『天才少女』なんて呼ばれるようになっちゃってさ……新聞とか、テレビとかにも出たことあったなぁ――そんな風に流されるままに流されてたら、いつの間にか、私の知らない人が私のことを私よりも知ってて、気持ち悪いって思ったこともあった。いつも溺れてるような気分で、毎日過ごしてた。色んな人から色んな誉め言葉を貰ったけど、この人誰だろうって……そんなことばかり考えてた」
当時のことを思い出したのか、忘野先輩がくすりと笑う。
「………」
その忘野先輩を、雪姫は泣きそうな顔で見守っていた。
「でも、何よりも……どんなことより傷ついたのは、最愛の妹に避けられ始めたことだった。『お姉ちゃん、お姉ちゃん』って、いつもじゃれてきた雪姫が私を避けるようになって――心が折れた」
「わ、私は……」
「わかってる――雪姫も大変だったんだよね。母さんと父さんが雪姫に色々求めすぎてたことは、私も覚えてるから」
言葉を止めると、忘野先輩は雪姫をしっかりと見据え、口を開く。
「だからね、雪姫」
「………」
「ごめんね」
「っ⁉」
「迷惑かけて、ごめんね」
「姉さん……」
苦悩に満ちた声が、雪姫の口から零れる。
涙腺で耐えていた涙も、また、溢れ返った。
「……違う。違うよ、姉さん」
涙を拭うこともないまま、雪姫は首を左右に振る。
そう。
違うのだ。
雪姫は謝ってほしかったんじゃない。
僕と湯川がそうだったように。
姉妹でも、わかり合えるわけじゃない。
忘野先輩は謝るべきじゃなかった。
話が、どんどん拗れていく。
「迷惑だなんて思ったこと……ない!」
「………」
「ずっと……ずっと姉さんのこと追いかけてた。姉さんみたいになりたくて。お母さんもお父さんも、いつも『お姉ちゃんみたいに』って言ってたけど……そんなの関係なくて、ずっと姉さんに憧れてた!」
「………」
「だけどなれなくて……姉さんはいつも遠くて」
ぼろぼろと大粒の涙が零れていく。
人間の感情というのは、とかく不条理だ。
感情が爆発すると、人間はいつだって話の展開が歪んでいってしまう。
「姉さんに……なれなくて……だから……」
そうじゃないそうじゃないとわかっていても、口は勝手に動いてしまう。
「嫌い……」
震える声がひとつ落ちる。先ほどまでの感情の熱はすっかり冷め、雪姫の瞳はただ無感動に、されど、滂沱の如く涙を流していた。
「姉さんなんて大嫌い」
張りつめた空気。
周囲からは一切の音が絶えた。
からからに乾いた灰色の世界。
無表情な雪姫の頬を伝う涙の雫は、「違う! 違う!」という叫びの代弁に見えた。
「そう、なら……」
痛みに耐えるように、忘野先輩が息を吐く。
「ごめんね、雪姫」
そうじゃない。
そうじゃないんだ。
ここはそんな、大人な対応をするべき場面じゃないんだ。
もっと感情を剝き出しにして。
もっと子供らしく。
いっそ『嫌い』とでもいいから言い返してくれ。
「ごめん」
最後にそれだけ言い残して、忘野先輩は背を向けた。
悄然とした足取りで、神社の境内から去っていく。
静寂が世界を支配した。
音も色もなくなった。
どこまでも苦痛な数秒間が過ぎる。
そして。
石段を下っていく忘野先輩の背中が、ついには見えなくなった。
――その瞬間。
「お姉ちゃん‼」
雪姫の声は悲痛な思いで割れていた。
もはや見えない姉に向かって、痛切に叫ぶ。
「好き……」
始めは小さな声で。
「大好き……」
鼻を啜りながら、雪姫が大きく息を吸い込んだ。
「お姉ちゃん、大好きぃ――‼」
想いが、感情が、雪姫の身体から一気に溢れ出す
その純粋さは空高く舞い上がっていく。
もしこの神社に本当に神様がいるのなら、この願いを叶えてくれないなんて――そんなの嘘だろう。
ドドドド、と足音が聞こえてくる。
石段を猛然と駆け上がる音。
やがて境内に姿を現した忘野先輩は、白銀の閃光とでも呼ぶべき速度で境内を横断し、雪姫を勢いよく抱き締めた。
「雪姫」
そっと、忘野先輩は口を開いた。聞いたこともないほど、優しい声音で。
「ありがとう、私を好きでいてくれて」
「ううぅ……」
雪姫が顔をくしゃくしゃにする。溢れる涙は、煌めいていた。
「私も雪姫のこと、大好き」
「うう……………うわあああああああ……………」
言葉にならない嗚咽が空へと昇る。わんわん泣き喚く雪姫の足元を、涙の雨が濡らしていく。
僕はそれを、どこまでも冷めた目で見守っていた。
雪姫を抱き締めている忘野先輩が、僕に目配せをして、ぱちりとウインクする。
作戦成功だね――と、言っているようだった。