校舎の廊下を猛然と走る。
今日は終業式だったからか、放課後の学校はいつもより人が少なかった。みんな、夏休みに浮かれて早速街に繰り出していったのだろう。
静謐な昇降口で靴を履き替えていると、運の悪いことに靴ひもが解けた。しかも二足同時に。なんでだよ。
「くそっ……今に限って……」
悪態を吐いても仕方ないので、靴紐をパパッと結ぶ。中学時代は何百回とバッシュを履き替えてきたので、靴紐を結ぶのもお手の物だ。昔取った杵柄である。
「篠宮君?」
名前を呼ばれて振り向くと、我らがクラス委員の――僕もクラス委員だが、クラスメイトの誰も『我らが』とは言ってくれないだろう――前田華凛がいた。
「よお、前田。いつもだったらセクハラのふたつやみっつかますところなんだが、今ちょっと急いでてな」
「篠宮君が私にセクハラしていいのは、一日に一回だけだよ――あと、急いでるのは見ればわかる」
「一日一回セクハラを赦しちゃうのが前田って感じだよな――僕、そんなに急いでるように見えるか?」
「篠宮君のセクハラって気持ち悪くないから、なんか赦しちゃうんだよね――急いでるようには見えるよ。急いでるっていうか、慌ててるように見える。だってさっきから、全然靴紐結べてないもん」
言われて気づいた。
手元が狂いまくって、全然靴紐が結べない。
なにが昔取った杵柄だよ。
「もう、仕方ないなぁ」
なにが仕方ないのか、前田は僕の目の前にしゃがんで、僕の右の靴紐を結び始めた。
「えっ、なに、何してんの?」
「手伝ってあげるよ。靴紐結ぶの、苦手なんでしょ?」
いいえ、大得意です。
むしろ、バスケやってた頃はルーティーンにしてました。
そう言って断ればいいのに、でも断れなくて、僕は為されるがままに靴紐を結ばれた。男の意地で、左側の靴紐は自分で結んだが、それが意地を維持できていたのかについては首を捻らざるを得ない。
「瑠璃ちゃんなら、ちょっと前に帰っちゃったよ」
「……僕、星川の名前出したっけ?」
「見ればわかるよ。私、空気読むの得意だもん」
「空気って言うか、心読んでるだろ、お前」
「かもね」
靴紐を結び終わって、さてまたマラソンの再開だ。
――と、いく前に。
僕は前田に相談しておかなければならないことがある。
「前田……前に僕が言ってたこと覚えてるか?」
「ん?」
「お前のカップ数を学校中に言いふらす――っていうやつ。お前はあの時、最悪の場合はそうしてもいいって言ったよな?」
自分の口から出た言葉なのに、自分が一番驚いてるんじゃなかってくらい、最低な言葉だった。
前田はそんな僕の言葉に驚いたように目を丸め、そして優しく微笑む。
「驚いた。篠宮君って自分の為に行動できる人だったんだ」
「幻滅したか?」
「ううん。惚れ直した」
冗談めかして、前田は笑った。
「――ねえ、ひっぱたいていいっていう約束だったよね?」
「ん? ああ、そうだったな……」
そんなことも言った。
もちろん、あの時はこんな事態になるなんて想定してなかったから、軽くそんなことを言ってしまったが……今にして思えば、もっと違うことを対価として提示しておけばよかった――もっと、重めのことを。
「よし、どんとこい」
両手を広げて、無抵抗をアピールする。
今からしに行くことを思えば、顔に紅葉を作っていくのは格好がつかないが、まあ、仕方ない。この最高にできた委員長に払える対価がこれしかないのだから、甘んじて受け入れようではないか。
「ふふふっ……私、人を叩くのって初めてだなぁ」
前田は不自然なくらい爽やかな笑顔でそんなことを言うと、大きく手を振りかぶって。
そして、僕の背中を思いっきりブッ叩いた。
「行って来い‼」
◆
どれだけ急ごうとも、どんな事情があろうとも、もちろん交通ルールというのは守らなければならないものであり、したがって僕も、前田にあんなカッコいい送り出され方をされたわりに、学校を出てすぐの交差点の赤信号には足を止めざるを得なかった。
不思議なもので、走っているときは何も感じなかったのに、止まった瞬間、思い出したかのように夏の暑さが襲ってきて、一瞬にして全身から汗が噴き出始める。
湯だった頭で呆っとしながら流れる車を眺めていると、一台のバスがゆっくりと目の前を横切っていった。
走り始めだからだろうか、走っても追いつけそうな速度のバス。
いやまあ、さすがに走って追いつけるなんてことはないんだろうけど、でも、この路線のバスはなぜか速度が遅い。
バスの中ですし詰めにされた同じ学校の生徒たちは、みな一様に晴れやかな顔をしていた。なんたって、明日から夏休みである。
そんな中、ひとりだけつまらなそうな顔をしていた――とかは関係なく、普通に金髪故に目立っていたのは、星川瑠璃、その人だった。
「まっ……」
待って。
誰に言おうとしたのだろうか?
星川? それとも、バスの運転手?
どっちにしたって聞こえてるわけないし、待ってくれるわけない。
バスはゆっくりと、しかし、確かに車の速度で去っていった。
「クソッ……」
首を伸ばして、道路の向こうにあるバス停を見る。
バス停は混雑していた。今から最後尾に並んでも、バス二、三台は乗れないだろう。
絶望――しかけたその瞬間に、僕は撥ね飛ばされた。
なにかがものすごい勢いで衝突してきて、僕は堪らず尻餅を搗く。
顔を上げると、そこにいたのは自転車に跨った千種だった。
「あら、篠宮くん、ご機嫌よう」
「ご機嫌よくねぇよ。死ぬかと思ったわ」
「惜しかったわね」
「何が?」
コイツまさか、僕のことを本気で殺しに来てたんじゃないだろうな。
ま、さすがにそんなわけないか……ないよね?
「千種、いつもの僕なら、お前から飛んでくる無数の言葉の針を喜び勇んで捌いてやるところなんだけど、今ちょっとそんな気分じゃない――っていうか、なんで自転車乗ってんの?」
「そんなの私が自転車通学だからに決まっているでしょう」
「自転車通学にロードレーサー使ってる女子高生なんて日本中探してもお前くらいだろ」
そう、千種が乗っている自転車とは、自転車界のF1カーとも名高い、ロードレーサーだった。少なくとも、通学に使うようなマシンじゃない。
コイツはなんだ――帰宅部の全国大会でも目指してるのか?
つーか、傷心中の僕にツッコミをさせるな。
「あら、篠宮くん、何やら陰鬱な顔をしているわね。よかったら事情を話してみなさい――私の美容と健康のために」
「……どうして僕の事情を話すと千種の美容と健康の為になるんだよ」
「嫌いな奴の不幸話を聞くと、腸内フローラが整う体質なのよ」
「最低すぎる」
コイツはどうしてこう、好感度の下がるようなことしか言えないのか。
「――でも、ま、いっそ笑われた方がマシか……千種、僕の相談に乗ってくれるか?」
「いいでしょう、乗ってやるわ。話してみなさい」
喧嘩を買うみたいな口調で応じられた。
というわけで、僕は千種の厚意――悪意かもしれない――を受け、これまでの経緯をかなり端折りながら、手短に伝えた。
すると千種は、
「なんだ、そういうことだったなら、もっと早く言いなさいよ、このウスノロトンカチ」
と、欠片も遠慮することなく僕を詰りながら、自転車を降りる。
ウスノロトンカチって……そりゃ、ロードレーサーで通学してる千種に比べたら、僕なんてまさしくウスノロだろうけど……。
そんなことを考えていると、千種が「ほら」と言いながら、僕に自転車を押し付けてきた。
「え、なに? これを片付けて来いってこと?」
「馬鹿ね。貸してあげるって言ってるのよ」
「……はあ?」
何を言ってるんだろうと本気で思った。
裏があるんじゃないかと本気で疑った。
「千種って、僕のこと嫌いだよな?」
「嫌いっていうか――ぶっちゃけ、死ねばいいって思ってるわ」
「ぶっちゃけたなー」
「で、それが?」
「……普通、嫌いな奴を助けたりしないだろ」
まして自転車を貸すなんて。
しかもただの自転車じゃない、ロードレーサーだ。
普通の神経してたら、信頼できない人間に預けたりしない。
しかし、
「言ってることの意味がわからないわね」
と、千種はバッサリと切って捨てた。
「誰かを助ける時に、その相手のことが好きか嫌いかなんて関係ないでしょう。好ましい人間しか助けないくらいなら、誰も助けない方がマシよ」
当たり前の理屈を説くかのような口調。
およそ多数派の意見を代弁しているとは思えないその独特の返答にも、
恐ろしいほどの真っ直ぐさ。
千種という少女は、真っ直ぐに人を嫌うのと同様に、真っ直ぐに人を助けられる――そんな人間なのだ。
裏があるのではと疑った自分が、どうしようもなく恥ずかしいくらいだった。
「……千種、全部終わったらお礼させてくれ」
僕は千種から預かった自転車に跨りながら、そう言った。
「嫌よ。篠宮くんにお礼されるくらいなら死を選ぶわ」
「なんでだよ」
真っ直ぐすぎるだろ。
お礼くらい素直に受け取ってくれ。