頭上から注ぐ蝉時雨。
燃ゆるアスファルトの陽炎。
七月二十七日。
僕と湯川は電車とバスを乗り継いで、県立図書館に訪れていた。
何度通っても、図書館特有の静けさには身体が馴染まない。僅かに緊張が走る。湯川は逆に図書館の空気が肌に合っているようで、小さく鼻歌を歌っているほどだった。
それなりに大きな図書館ではあるが、しかし、昨今の活字離れというのは恐ろしいもので、図書館は夏休みだというのにガラガラだった。入った直ぐのところにある雑誌、新聞コーナーでは、老眼鏡をかけたおじさんが難しい顔でスポーツ新聞を読んでいる。
貸し出しカウンターの前を通り過ぎ、書架を横切ると、勉強机が並んだコーナーが現れた。高校生や大学生、ノートパソコンを広げた社会人らしき人の姿もちらほら見えるが、全体的にガラガラだった。
その中に、見慣れた髪を見つけ、近づいて小声で話しかける。
「よっす」
話しかけられた金髪の少女――星川瑠璃はやおら振り向いた。見慣れない細縁の眼鏡を掛けた瞳がこちらを捉える。
「遅かったね、篠宮、湯川」
「お前が早いんだよ」
つけていた安物の腕時計を見せつける。集合時間まで、まだ十五分はあった。
そんな話をしていると、湯川がいそいそと星川の隣に腰を下ろしたので、僕は机の反対側に回って、星川の正面に腰掛けた。
そして鞄から、夏休みの宿題を取り出す。
今日は、仲間内で揃っての勉強会だった。
勉強会というか、夏休みの宿題をやっつけちゃおうの会――と、呼ぶべきだが。
というのも、湯川は例によって例の如く、夏休みの宿題を最終日までやらないタイプのおバカなので、どうせ僕が面倒を見ることになるなら、知り合いにもこの負担を分担してもらおう、という魂胆がある。
声をかけたのは、ここにいる星川の他に前田にも声をかけた――が、超人気者の彼女は捕まらなかった。まあ、仕方ないと言えば仕方ない。
そしてもうひとり、声をかけたのが――
「失礼するわね」
そう言って、しかし、僕の許諾も待たずに僕の隣に腰掛けたのは、我らが風紀委員、千種美穂だった。
白い半袖のTシャツにタイトなジーパンという、あまりにもラフな格好をしている。服装の女子力は皆無だが、スタイルのいい彼女がシンプルな格好をすると、脚線美が強調されているようでなかなかなものだった。
「篠宮くん。悪いんだけど、スケベな視線を寄越すのはやめてもらっていいかしら? 妊娠しそうだわ」
「しねぇよ。人はスケベな視線を向けられたくらいじゃ妊娠しねぇよ」
「あら、スケベな視線を向けていたことは否定しないのね」
「ま、事実だからな」
と言った瞬間、千種から豪速のビンタが飛んできたので身を逸らしてギリギリで避けた。
――が。
正面に座っていた星川の蹴りは避けられるわけもなく、僕は机の下で見事に脛を蹴り抜かれていた。
視線を正面に戻すと、星川がこちらをもの凄い形相で見ている。
……申し訳ありません。
確かに、カノジョの前で他の女の子にスケベな視線を向けるのはまずかった。今度からは、彼女の視線を掻い潜ってやろう。
『カノジョ』
まだ、実感の湧かない単語である。
終業式の日から――つまり、付き合ってから、まだ一度もデートしてないし、何だったら、僕の恋愛遍歴は、雪姫とのデートの方が多いくらいである。
雪姫……か。
彼女とは、未だに何の連絡も取り合っていない。姉の方とは、かなり頻繁に連絡を取り合っているのだが。
「篠宮後輩」
と、ちょうどそのタイミングで声を掛けられたから、僕は一瞬、幻聴を聞いたのかと思ったのだけれど、まあ、そんな訳もなく、僕が声の方向に支線を向けると、忘野先輩がそこにいた。
忘野先輩と、その妹の雪姫と……それから、なんか相庭もいた。
「わ、忘野先輩? なんでここにいるんですか?」
「なんでって、今日は勉強会なんだろう? 飛び入りで混ぜてもらおうと思って来ちゃったのさ」
「来ちゃったのさ――じゃねぇよとか、ひとりで受験勉強しろよ受験生とか、マジで色々言いたいことがあるんですけど、ひとつだけいいですか?」
「なんだい?」
「どうやって今日、ここで、僕らが勉強会することを知ったんです? 僕、言ってないですよね?」
「ふふっ……なんでだろうねぇ」
「妖艶な笑い方に不覚にもドキッとしたけど僕は誤魔化されませんよ。この件に関して、僕は追及を辞める気はないです」
「おお、怖い怖い。そんな怖い篠宮後輩には、茅を押し付けることにしよう」
そんなことを言いながら、忘野先輩は相庭を僕に押し付けてスイッチバック。
入れ替わるように前に出てきた相庭は、ウェーブのかかった黒髪をシニヨンに纏め、首にはお洒落なシルバーアクセサリー、服装は白いブラウスに透け感のあるキャミソール、プリーツスカートと、なぜかこの場で一番の女子力を発揮していた。
「不覚にもお待たせしてしまったようですね、リョータ先輩」
「いや全然待ってない。お前を待っていたと思われた僕の方こそ不覚だわ」
「照れずとも。あなたの後輩が、勉強を教えに来てあげましたよ」
「お前に教わることは何もない。帰れ」
「やれやれ……これが噂のツンデレというやつですか。そう言いつつも、リョータ先輩が初めて見るわたしの私服姿に、目を奪われているのはわかっているんですよ?」
「まあ、確かに服は素敵だな――服はな。トイレで雪姫と服を交換してこい」
と言いつつ件の雪姫の方に視線を向けると、そこには既に彼女の姿はなかった。
どこに行ったのかと首を捻って探してみると、既に机の反対側に着席して、忘野先輩に宿題を見てもらっていた。
――驚くべきことに。
忘野先輩は、妹の勉強を見ながら湯川の勉強の面倒も見ていた。湯川と雪姫、どちらの面倒も見てきた僕からすると、その両方を同時に熟しているのは目を剥かざるを得ない。あまつさえ、忘野先輩はその二つを熟しながら、同時に赤本の問題を解いている――化け物かな?
……というか、ナチュラルに湯川とコミュニケーションを取っているそのコミュ力が恐ろしい。初対面ではまともに会話も成立しないことがほとんどの湯川と、普通に会話している。
「……ま、来ちゃったのに追い返すのもな。仕方ない。ここ座れよ、相庭。お前の勉強は、僕が見てやる」
「ふっ。真の教える立場がどちらか、直ぐにわからせてやりますよ」
「お前やっぱ帰れ」
僕の割と本気の忠告を無視して教材を広げた相庭に、仕方なく物理を教える。相庭はバカだが勉強が致命的にできないわけじゃないので、教えるのは割と簡単だった。
「さすがはわたしの見込んだリョータ先輩。相庭家の専属家庭教師にして差し上げましょう」
「お前は発言に一貫性を持たせることすらできないのか」
「『必要なら、自分を曲げろ』が相庭家の家訓なので」
「お前の家、家訓とかあるんだ……」
「『変われない人間になるより、変われる人間になれ』という家訓もあります。なのでこのように、毎日違う髪型にしているのです」
「ふ~ん」
そう言われてみると、確かに相庭は会う度に違う髪型をしていた。
「しかしどうやら、わたしのリョータ先輩はシニヨンはお好きではないようですね」
「僕は断じてお前のリョータ先輩ではないが――まあ、僕は長い髪の毛が好きだからな。黒髪をストレートにしてるのが理想」
「ほう、それは例えばミホ先輩のようにですか?」
と相庭が言うので、一瞬、ミホ先輩って誰だ――と、思った僕だが、直ぐに千種のことだと思い出し、殴られると思って闇雲にガードを構えた。
が。
予想に反して、千種から拳は飛んでこなかった。
何故だろうと千種の方に視線を向けると、懸命にノートに向かってシャーペンを走らせている。こちらの会話など、耳に入らない様子だった。
その熱心に机に向かう姿に、僕は思わず感心する。
なにかと苦手意識を感じている彼女だが、しかし、根がちゃんとした奴なのは僕も既に知っているところだった。
――ん?
しかし、冷静になってみると、二年生の夏休みの宿題でノートに書いて提出のものはなかったはずだ。
いや、まあ、千種なら既に夏休みの宿題など片付いていて、自主的に学習しているだけの可能性もあるのだが、僕はなんとなく気になって、そのノートを覗き込んだ。
夏―――それは君 万象の励起する、女神の如きサマー
蝉―――それは奴 夏と常に共にある、滅びるべき害虫
太陽――それは私 夏を愛で照らす、勇猛なナイト
海―――それは
家でやれ。
「ふぅ~……それにしても、暑いですね~」
「いや、寒いだろ」
「え?」
「え? ……あ、いや。そうだな。暑いな。夏だもんな。まったく、女神の如きサマーだぜ」
「なんの話です?」
「な、なんでもないよー」
慌てて視線を泳がす僕の視線の先で、相庭がブラウスをパタパタと扇ぐ。
乱れた胸元から青いブラがちらっと見えて、僕は今日がいい日であることを確信した。やったぜ。
ふと視線を感じて前を向くと、星川が度し難いものを見る表情で僕のことを見ていた。やばいぜ。
「ねえ、篠宮。彼女の前で後輩の女子と戯れるのってどんな気持ち?」
「ふ、複雑な心境です」
「ご安心くださいギャル先輩。たしかにリョータ先輩がわたしにメロメロなのは疑いようもない真実ですが、わたしにその気がありませんから」
「もしもこの世に疑いようもない真実があるとすれば、それはお前が馬鹿だってことだけだ、この馬鹿」
そんな馬鹿話をしながら、僕らは夏休みの宿題を熟していった。
相庭の勉強を見るのは湯川のそれよりも幾分か楽で、僕は例年より進捗がいい。それは湯川にとっても同様で、ハイスペック生徒会長に勉強を見てもらうことによって、順調に宿題を終えているようだった。
そんなこんなで二時間ほど勉強し、時計の針が十二時を示す頃、突然、忘野先輩が口を開く。
「ん……そろそろお昼だね。いったん食事スペースに移動しようか」
「あ、すません、忘野先輩」
僕は割り込む様に声を上げる。
「僕弁当忘れちゃったんで、外で適当に食べてきます」
「そうかい? なんだったら、私の弁当を分けてあげても――」
「結構でーす」
絶対碌なことにならないので、僕は急いで机の上に広げていた勉強道具を片付けると、逃げるように図書館を出た。
冷房の効いた図書館から出たことによって、夏の熱い空気が全身を包む。
照りつける太陽に一瞬怯んだ僕の背後から、スニーカーの足音が追い縋る。
振り向くと、千種がいた。
「どうした、千種?」
「……別に。私もお弁当忘れただけよ」
なるほど。
「じゃ、一緒にメシでも行くか?」
「あら。それじゃあ、遠慮なく遠慮するわ」
「そんな日本語ないんだよ。いいだろ、一緒にメシくらい」
「死んでもお断りよ。むしろ、貴方が死になさい」
千種は今日も絶好調だった。