夏休みの宿題があらかた片付くと、急に暇になった。
僕は昨日も一昨日も普通に宿題を熟していたので、集まったメンツの中だと一番最初に宿題を終えた――厳密に言うと、忘野先輩は受験生で夏休みの宿題が課されていないので、一番は彼女ということになるかもしれない。
ということで、僕は適当に引き抜いてきた本を流し読みしながら忘野先輩と駄弁っていた。
「篠宮後輩はよく本を読むのかい?」
「そうですね……まあ、読みます」
「ふ~ん。好みのジャンルは? 小説? 雑誌? はたまた実用書?」
「小説ですね。割と雑食です。ミステリも古典文学もライトノベルも、なんでも読みますよ」
「そうかい。なら、私にお勧めの小説でも紹介してくれないか。あまり物語を嗜んでこなかったんだ」
「いや、あの……それは別にいいんですけど……つか、なんでそんなに近いんですか? 離れてくれます?」
「何を遠慮しているんだい? 私と君の仲じゃないか」
パチリ☆
と、可愛らしい擬音が聞こえるような所作で忘野先輩は片目を閉じた。ウインクなのかな? それともサイクロプスの物真似かな? どうかサイクロプスの方であってくれ。
僕の右隣にぴったりとくっついて、熱心に僕の広げている本を覗き込んでくる忘野先輩。この人は何がしたいんだか全く読めない。どうせろくでもないことを考えているんだろうけど、冷ややかな視線を向けてもサイクロプスが身体を擦りつけてくるクソシステム。
助けを求めて周りに視線を向けたけど、
「………」
案の定誰も助けてはくれなかった。
誰もがただ黙々と目の前の宿題に筆を進めるばかりで――あの、なぜか空気が冷え冷えとしているんですけど。
「私ってよく告白されるんだけど、実は彼氏がいたことないんだよね」
パチリ☆
「それなりに高スペックだとは思うんだけど、身持ちは固いんだ」
パチリ☆
「でもそろそろ彼氏が欲しいかなあ。お気に入りの後輩なんかに告白なんてされたら、あっさりオーケーしちゃうかも」
パチリ☆
星を飛ばしそうなサイクロプスが、夏の大三角を生成しながら迫ってくる。
何がしたいの、ねえ、何がしたいの――と、大混乱した僕だったが、割と直ぐにこの人が何を求めているのかは察しがついた。
コイツ、僕と星川で遊んでやがる。
付き合いたての僕らの仲を乱して、おもちゃのように遊んでいるのだ。忘野先輩は『人で遊ぶ』タイプの人間だ。ふざけた趣味である。
お世辞にも趣味のいい趣味とは言えないが、しかし、結果的には面白いことになっていた。
今もほら、星川の表情がどんどん氷のように凍っていって、ただの熱量を求めるだけの問題にマクスウェル方程式が登場している――動揺の仕方が天才物理学者なんよ。
それを見た忘野先輩がプルプルと震える。笑いを堪えているようだ。性格悪いってレベルじゃねぇぞ。
「あの……忘野先輩? 離れてくれません?」
「いつもみたいに
そんな呼び方は一度もしたことがないのですが? あなたの名前が響姫であることも、今の今まで忘れてたくらいなんですが?
そう否定の言葉を紡ごうとした瞬間、忘野先輩が組み付いてきて、僕の不満は不発に終わった。
そこそこサイズの胸が腕に当たる。
僕は巨乳派、僕は巨乳派……、何度もそう念じたが、『おっぱいに貴賤なし』という至言が僕の脳裏を駆け巡った。なるほど、ここが
――その瞬間。
ぴしっ、と何かが破裂するような音がした。
それは千種がシャーペンを叩きつけた音だったみたいだけど、ひょっとしたら、やっぱり何かが破裂した音で間違いなかったのかもしれない。
「……篠宮くん、これは新手のシチュエーションプレイと捉えても相違ないかしら?」
「相違しかないな……正直僕もこの人が何したいんだか正確には理解できてない」
「という設定のオプションなのね?」
「違う。なんでエロい店みたいになってんだ」
「お客様、これ以上の延長は、追加料金を頂くわ」
「違うっつってんだろ。てか、お前は誰なんだよ」
「当店のモットーは『乳房はお金じゃ買えないが、愛はお金で買えます』よ」
「だからお前は誰なんだよ!」
助けてくれるのか、或いは嫉妬してくれたのかと思ったけど、全然違った。コイツ、ボケたかっただけだ。
言いたいことを言い終えたのか、千種はすっと立ち上がって何処かに行ってしまった。
そしてすかさず、忘野先輩がひと言。
「ふたりっきりだね……」
「いいえ全然?」
千種がひとり去っただけで、他のみんなが普通にいる。何ならみんなこっちを見ている。おい湯川、おもしろがってないで早く助けろ。
――今、みんな見ていると言ったけど、それは嘘だ。いや、厳密には嘘でもなんでもないのだけれど、とにかく、ひとりだけ見ていない娘がいる。雪姫だ。
まあ、『見ていない』というのもまた、正確な表現ではなくて、厳密には見ている。顔を問題集に向けたまま、目だけをこちらに向けていた。渾身の見てないフリ作戦も、しかし、傍から見ればバレバレのバレだった。
「ふふっ……雪姫も面白いね」
と、忘野先輩が耳元に口を寄せて囁いてくる。僕もそれに倣って声を落とし、内緒話に興じた。
「面白いって?」
「人間としての魅力の話。前の雪姫は全く面白味のない子だったんだけど……君のお蔭かな? 今の雪姫は愛玩対象として、とっても価値がある」
「………」
そのあんまりな物言いに思わず拳を握り締めた僕だったけれど、でも、世界中の誰より、僕が一番彼女のことを責められない人間なので、結局、握り締めた拳は何も為さずに解かれることとなった――殴られるべきは、僕なのである。
そういう僕の苦悩も、また、忘野先輩は楽しんでいるのだろう。雪姫を弄ぶような発言も、僕の自責を駆り立てる為の嘘なのかもしれない――それなら、それでいい。むしろ、そうであって欲しい。今の言葉が嘘であってくれるなら、僕は彼女の玩具でいい。
しかしその言の真偽は、僕には杳としてしれない。それなりに敏い男を自称している僕だけど、彼女の内心は全く見通せるものではなかった。
――ところでなんだけど、今の僕と忘野先輩を傍から見たらどうなるかというと、忘野先輩は僕に組み付いているわけで、僕は彼女に何事かを囁かれて、少し戸惑い、そして忘野先輩はそれを見て悦びのままに頬を緩めているという状況になるわけである。
つまりどういうことかというと、
「痛ぁっ⁉」
「………」
「あの、星川さん? 貴女がそのピーンと伸ばした爪先でぐりぐりしておられるのは、彼の弁慶でも嬉し恥ずかし泣き笑いしてしまうことで評判の人体の急所であらせられるわけなんですけども‼」
「知ってる」
「そっかー、知ってたかー」
さすが星川さん、半端ねぇっす。博学っす――といった感じで、おもねってみた僕だったけれども、星川の怒りが鎮まることはなかった。その様子を見て、僕に抱き着いた忘野先輩は忍び笑い。この人はあれかな? 悪魔なのかな?
そんなことを考えていたら、弁慶の泣き所にぐりぐりと押し付けられていた爪先の感触が
まさか瞬身の術⁉ ――と、慄く僕の隣の席に何者かが着席。トイレに行った千種が帰ってきたのかと思ったら、そこにいたのは星川だった。
「これ、教えて」
と、物理の問題集を指し示す星川。
示された問題はモーメントの問題。力学系は公式丸暗記が必須になるので、わかんないときはどれだけ考えてもわからないものだ。
「えっとこれはな……」
ちょっと複雑な問題に頭を悩ませて、言葉に詰まる。ペンをくるくる回しながら、解法を編み出そうとする僕の横から忘野先輩が、
「それは偽の誘導がたくさんあるだけで、整理すれば、回転体が吊り合うのに必要な端Aの筒にかかる力NAを求めればいいだけだよ」
と、口を挟んできて、ノートの隅に必要な公式を書き記した。
「すげえ……」
その鮮やかな解法に、何より、一瞬で余計な情報を見破るその慧眼に、僕は瞠目した。自分は賢いと驕っていたことが、途端に恥ずかしくなるような瞬殺具合だった。
「……生徒会長には訊いてないんですけど」
星川が攻撃的に睨む。
「どうせなら、より
「は?」
「ん?」
そう言って、僕を挟んで火花を散らすふたり。
金髪ギャルVS銀髪クォーターVSダークライ。夢の共演をありがとう。できればこの映画は客席の方から鑑賞したかった。やめて、わたしの為に争わないで!
僕の身体は星川の精神的な圧と忘野先輩の物理的な圧でぺしゃんこになってしまいそうで、助けてだれか男の人呼んで――
「――図書館では、お静かにお願いします」
それまで黙々と独り宿題を熟していた雪姫が。
針で一刺しするように呟いた。
僕と星川と忘野先輩。
誰が責任を取るのか、しばらく僕らの間で視線の応酬があった。