「浴衣ってある?」
「ナイチンゲール」
祭りの前日、母親に聞いたらそんな答えが返ってきた。僕の母のキャラクター性については何も訊かないで欲しい。小学生の頃から、授業参観と三者面談が、何よりも苦痛だった。
そして、浴衣はないということだ――〝ナイチンゲール〟というのは、つまり〝ない〟という意味なんだと思う。深く追求する気にはなれないので、確認はできないが。
まあ、そりゃ、ないだろう。僕も浴衣なんて着たことない。僕は一人っ子だから。当然のようにおさがりもない。
遊園地に行ってから、一週間とちょっと。
僕は星川を夏祭りデートに誘っていた。言い分としては、前回のデートがちょっとあれだったので、今度こそマトモなデートをしようというものである。
もちろん、忘野先輩にはこの予定を告げていない――ということもなく、普通に教えて、そのうえで邪魔しないでくださいというメッセージを送っておいた。既読も付いたし「了解」という返信も来た。これで邪魔が入ったら、彼女の責任を追及できる。
さて、これで万難を排してカノジョとデートに洒落込もうといったところで、問題が発生した。
縁日デート、何着ていくか問題である。
普段着でもいいかな、一応浴衣を持っていないことは確認したわけだし――と、甘えたことを考える頭の中に、ある人物が出現した。
千種だ。実体のないそいつを、仮に脳内千種と呼んでおこう。
脳内千種は悪魔の恰好をしていた。毒舌キャラなので、悪魔のコスプレが妙に似合う。
で、その脳内千種がこう言った。
「普段着とか……篠宮くんって本当に面白くない奴ね」
言いそう……というか、絶対言われる。
「面白くない人間の世界が面白くないのは、貴方が面白くないからよ。面白くない人間の色眼鏡を通して世界を見ているから、面白くなく見えるの。面白くないのは世界じゃなくて、貴方なのよ」
説法じみた理論で怒られた。怒られたっていうか、シンプルに罵倒された。所詮は脳内千種のくせに、リアリティーのある千種である。
そこに脳内前田がやってきた。天使の恰好をしているので、天使役らしい。
「美穂ちゃん、ちょっと言い過ぎだよ。篠宮くんの私服、普通にかっこいいじゃん」
よしっ、天使前田、悪魔千種を斃せ! 最悪殺せ!
「篠宮くんの私服がかっこいいかどうかは置いておくとして、かっこいいから良いというものではないのよ。縁日にTシャツで挑もうとしているその姿勢が気に食わないと、私は言っているの。それはドレスコードの必要なお店に王様のコスプレで行って『でも、これも正装ですよね? だって王様ですよ?』って言うようなものよ」
「論理の飛躍が過ぎるよ!」
千種は僕の脳内でも絶好調だった。
大体、僕はこの二人が会話しているところを見たことがあるわけではないので(友達ではあるらしい)、本当にこんな感じの会話をするのかは知らないが……。
続けて、脳内千種は悪びれもせずにこう言った。というか、またこっち向いた。
「そもそもね、クラスメイトのコスプレを妄想してる時点で、篠宮くん、相当キモいわよ。面白くないとかじゃなくて、キモい……本当にキモい」
なんかメタいこと言ってきた⁉ そんで、キモい連呼してきた‼
僕は慌てて脳内の二人を掻き消した。
しかし「面白くない」か……。
その通りかもしれない――が、浴衣は買いたくない。あれ、高いんだよね。夏の、それも縁日にしか着れないくせに、なんであんなに高級な物買わなきゃいけないんだよ……、という、みみっちい感覚が購買を邪魔する。
「う~ん……湯川に相談するか……」
先日の一件以来、湯川は我が家に訪れなくなっていた。連絡も取っていない。言っても一週間顔を見ていない程度の話なのだが、なまじ毎日顔を合わせてきた手前、そわそわとしてしまう僕だった。
だから。
僕はうっきうきで湯川にメッセージを送った。それとない口実ができたことを喜んで。
「星川と……縁日デートする……とき……なに着てけば……いいと……思う? ……っと、送信」
メッセージ自体には、五秒ほどで既読が付いた。スマホをいじっていたのだろう。
返信はなかった。
五分経って。
十分経って。
それでも返信がなかったので、僕は財布とスマホだけを持って、炎天下の外に繰り出した。日陰から日陰に飛び移るように移動しながら、ドンキを目指す。
浴衣はざっと五千円くらいした。
「高すぎるだろ……」
値札を見てげんなりしたところで、ポケットに入れていたスマホが振動を伝える。見てみると、湯川から返信が来ていた。メッセージを送ってから、三十分近く経ってのことである。
「『
僕は浴衣コーナーの端っこにあった甚平を手にした。なんだかご隠居みたいな服である。まあ、そこまで高くなかったので、それを手に取ってレジに向かった。
会計している最中にスマホが再び震える。
代金を払ってから見てみると、湯川から追記のメッセージが飛んできていた。
「『ごめん、スマホ見てなかった』……ね」
それが嘘であることは明々白々だったのだけれど、僕は、その嘘に切り込むことはなかった。
湯川は何だかおかしくなっているし。
それにつられるように、僕もまた、調子を崩している。
◆
そして迎えた縁日当日。
張り切りすぎて約束の三十分も前に到着してしまった僕は、既に、四十分以上の待ちぼうけを食らっていた。つまり、星川は約束の時間から十分遅刻しているわけなのだが、連絡を取るかどうかが難しい判断である。
十分程度で連絡を入れるのはさすがに小さくはないか……とか、色々考えてしまう。
遅れるならそっちから連絡してくれ、と相手側に責任転嫁してみたり。
そういえば、初デート(まだ付き合ってない)の時も、星川遅刻してきたな、とか思い出してみたり。
そんなことを考えて時間を潰している僕の背に、声がかかる。
「おはよ」
声を掛けられて、僕はゆっくりと振り向いた。
約束の時間から既に十五分。
遅刻ながらも、やっと来たのかと呆れながら振り返った僕の眼に映ったのは、カノジョの姿ではなかった。
真っ直ぐとストレートに下された黒髪。
水色の生地に色とりどりの金魚が泳ぐ浴衣。
紅の帯によって強調された、豊かなふくらみの胸。
顔はどことなく見覚えがあるが、メイクのせいか、判別はつかなかった。
総評、知らない人。
だから僕は、こう口にするしかなかった。
「えっと……どちら様?」
と……。
問うてみて、そして、その一瞬後にどことなく見覚えのあるその顔に、やっと心当たりが見つかった。
あれはそう、まだ四月の頃。
湯川がインターネットで出会った友人と直接会ってみたいと言って、なんやかんやあって僕だけで集合場所に行くことになって(今考えると、なんでだよってなる展開だ)、そこにいたのが、彼女だった。
ハンドルネーム【紅茶猫】。
ギャルを苦手とする湯川を警戒させないために、髪を黒く染めて登場した……つまり……
「え、星川⁉」
声を裏返して驚く僕に、黒髪の彼女は――つまり、星川はにししと笑って、
「気づくの遅いっつぅの。しっかりしてよ、カレシ」
と、悪戯気に言うのだった。