文化祭はまだ始まったばかりということもあり、校舎内の出し物はまだどれもガラガラだった。
いま通りかかったクラスをちょっと覗いてみたが、メイド喫茶をやっているらしいクラスは客の入りもなく、メイドのコスプレをした女子高生たちが思い思いにスマホをいじっているだけの空間になっていた。
別に不人気というわけでもないと思う。校舎内の出し物は、どうしてもピークが校舎外のそれよりワンテンポ遅れてしまうものだ。
ならば逆に、空いているうちに校舎内の出し物を楽しんでしまった方が有意義だろう。
「あっ、篠宮後輩じゃないか」
階段の方から声がしたと思ったら、上の階から降りてくる忘野先輩がいた。
銀色の髪と、その毛先に入った特徴的な青メッシュを揺らして、気さくに手なんか振ってきている。
「あっ、どもっ、それじゃあ僕はこれで」
三十六計逃げるに如かず。
この人とは関わりたくない。
「まあ待ちなよ」
しかし回り込まれてしまった。
逃げると言っても、この校舎内で追いかけっこをするわけにもいかないので、呼び止められてしまったら答えざるを得ない。
「はあ……開始早々忘野先輩と会ったとか、縁起悪いなぁ。黒猫に横切られる百倍きついです」
「言うよね」
忘野先輩はからからと笑った。ノーダメージだ。
「忘野先輩はなんでこんなところにいるんですか? 暇なんですか?」
「暇だよ。三年はクラスでの出し物もないからね」
「じゃあ受験勉強しろよ、受験生」
千種を見習え――やっぱ見習わないで。
あんな毒舌が二人に増えたら、僕がもたない。
「前にも言ったけど、受験は余裕だからいいんだよ。今は高校最後の青春を楽しむことの方が大切だ」
「………」
僕は肩を竦めた。
「それより篠宮後輩こそどうしたんだい? ひとりで歩いて――かわいいカノジョとはもう別れちゃったのかな? それならお姉さんな先輩が拾ってあげようか?」
「僕と星川は別れてないですし、よしんば別れても忘野先輩に拾われることはないです」
「ふふふ……その言葉、一年後にもう一度言えるかな?」
「なにする気⁉ ねぇ僕になにする気⁇」
怖っ。
戦慄する僕だった。
「ま、カノジョちゃんは友達付き合いに苦心してるってところでしょ――相変わらず、つまんない子だね」
「……っ」
星川を侮辱するようなその発言に腹を立てなかったわけではない僕だけど、しかし、忘野先輩に口で勝てる気がしなくて、僕はただ閉口した。
「じゃあ、湯川後輩はどうしたの?」
忘野先輩は何でもないことのように言う。
しかし、その口端は不気味な程に吊り上がっていた。確信する。どこまで知っているかはわからないけど、この人は、僕らの現状を理解している。新しいおもちゃを見つけて、遊ぼうとしている。
心がざわついた。
「……湯川はサボりです。去年もそうでしたから」
「ああ、なんだ。逃げちゃったのか……まあ、予想通りといえば予想通りだけど、やっぱり湯川後輩もつまらないね」
その言葉に、ささくれだった僕の心はあっさりと着火した。
「アンタは………ッッッ――」
怒声を張り上げようとしたその瞬間、忘野先輩の人差し指が僕の口に添えられて、強制的に黙らされる。
機先を制した忘野先輩は、冷酷な笑みを湛えていた。
「カノジョちゃんの時は我慢できたのに、湯川後輩の時は我慢できなかったね」
にぃっ――と笑う忘野先輩から逃れようと、僕は無意識に一歩後退った。忘野先輩はその分僕に近づく。
一歩離れて。
一歩近づく。
いつの間にか、僕は廊下の端を背にしていた。逃げ場を失った僕に、忘野先輩はさらに近づく。その北欧の血を色濃く継いだ美貌が、息もかかるほどの距離に近づく。僕は呼吸も忘れて、凍り付いていた。
「やっぱりは君はおもしろい」
全身が警報を鳴らしている。
できたなら、僕はきっとこの場から走って逃げていた。
恐怖。
そうとしか表現できないものを、僕は年がひとつしか変わらない先輩に感じている。恐怖を与えられている。
顔を覗き込まれる。
柑橘系の甘い香りが薫った。
それすらも、僕の心臓を縛り付ける。
――それでも。
「……っ‼」
僕は忘野先輩の肩を強引に掴むと、身体を反転させて立ち位置を入れ替えた。
反転、僕が忘野先輩を追い詰めたような形になる。
僕よりずっと小柄な忘野先輩は、しかし、その顔に恐怖ではなく、恍惚とした笑みを浮かべていた――不気味な程に。
「そうだよね。君はそうでなくっちゃ」
呟く。
紺碧の瞳は、僕を真っ直ぐと見据えている。
爛々と。
ギラギラと。
僕をただただ、見詰めている。
僕は喉を一度鳴らした。
一歩下がる。
それは女子との適切な距離を測るために離れたのか、それとも単に怯えたのか――僕には判然としなかった。
「君は結局、狼なんだ。以前私は、君は牙を抜かれ、爪を剥がれた犬みたいだと評したけど、あれはまるで見当外れだったと撤回せざるを得ない。牙を抜かれても、爪を剥がれても、君は――篠宮後輩は狼だ。武器をなくしても、闘争本能まで失くしたわけじゃない」
「そんなことは……」
言い淀む。
……負けるな。
「そんなことはどうでもいいんですよ」
僕が狼なのか犬なのかなんて、どっちでもいい。どうでもいい。
「忘野先輩、なんで僕の幼馴染にちょっかいを出したんですか?」
「なんのことかな?」
「惚けなくていいです。湯川に直接聞きました。夏休み、僕の予定を忘野先輩に漏らしてたって。忘野先輩、あなたに頼まれて――どうして、そんなことをしたんです?」
「さて……ね……」
忘野先輩は、にやりと笑った。
下品な笑みも、彼女がやると画になってしまうから、困ったものである。
僕の問いに、しかし彼女は答えず、
「ありがとう篠宮後輩」
彼女は殊更声を張り上げて、急に感謝を口にした。
その何の脈絡のない言葉は僕に放たれたものではなく――僕は後ろを振り返る。
三階の廊下には、疎らな生徒がいて、廊下の端で何やらもめているらしい僕らのことを、胡乱な目で眺めていた。
「いやー、いい演技だったよ。その調子で、明日の劇も頑張ってくれたまえ」
そのあまりにもお粗末な言い訳も――人徳のなせる業だろうか、彼らは納得したように頷き、それぞれの文化祭に戻っていった。
「湯川後輩のことだけど」
しばしの後、忘野先輩は口を開く。
「あの子の不調は私のせいじゃない」
「………」
「そんな疑るような目で見ないでくれ。ゾクゾクしちゃうだろ。本当だよ。むしろあの子が爆発しないように、私はある程度カウンセリングしてあげてたくらいだ。それでも爆発しちゃったのは――誰のせいか、心当たりはあるだろ?」
「………」
海での一幕を思い出す。
僕が自分を抑えられずに、湯川に当たってしまったせいだ。
僕と湯川は深いところで繋がっている。湯川が調子を崩すと、僕も調子を崩す。
いつもなら何気なく流せる言葉にも、過剰反応してしまう。
「私に言わせれば、ただの成長だと思うけどね。年頃の男女が共依存関係だなんて、冷静に考えて、不健全だよ」
「まるで……………まるで、湯川がなにを思っているのか、わかってるような口振りですね」
僕ですらわからないのに――という言葉は、意地で呑み込んだ。
「わかるよ。私にわからないことなんて何もないんだから――でも、私がそれを篠宮後輩に教えちゃうのは何の解決にもならないから、教えてはあげないけど。応援してるよ。こう見えて、後輩想いなんだ」
「やけに上からくるじゃないですか……年、ひとつしか変わらないでしょ……」
「高校二年生なんて赤ちゃんみたいなものだよ。私もバブバブ言ってた」
忘野先輩がバブバブ言ってるなんて想像が付かないどころか、生まれた瞬間に天地を示して「天上天下唯我独尊」とか言ってそうなイメージまであるけど……。
「ああ、そうだ。私、仕事があるんだった」
思い出したように、忘野先輩は言った。
「生徒会として、未申請の出し物を取り締まらなくちゃいけないからね」
どこか空々しい忘野先輩は、そう言って去っていった。