そして午前九時。
学校ではそろそろ文化祭二日目が開催されたころだろうか。僕のクラスの演劇の開演まで、一時間半しかない。
今更どんな顔してと思ったけど、僕は湯川宅に来ていた。僕がどんな顔してるかは知らないけど、こんな顔していくしかないのだ。
勝手知ったる湯川宅。合鍵まで任されている僕は、もはやインターホンすら使わない。合鍵で玄関を解錠し、一応儀礼的に「お邪魔しまーす」とだけ言って、幼馴染の家に侵入した。
そのまま階段を上り、二階へ。
ちょっと息を整えて深呼吸。湯川の部屋のドアをノックする。
「よ―、湯川。文化祭行こうぜー」
「………」
返事はない。
仕方ないなぁとばかりに扉を開けようとしたら、開かなかった。鍵がかかっているらしい。しょうがないなぁと、僕はポケットに入れた財布に手を伸ばす。
僕が少し黙っていたら。
「……何しに来たわけ?」
たっぷり時間をかけて返事があった。すぐ近くから聞こえる。もしかしたら、僕がさっき言った「お邪魔しまーす」の声を聞きつけて、ドアの反対側に張り付いて聞き耳を立てていたのかもしれない。思っていたよりはアグレッシブだ。元気なようで何より。
だけど声はいつもの落ち着いた一定トーンのものではなくて、まるで精神状態がそのまま反映されてしまっているかのような、不規則な波を描く声だった。
「だから、文化祭に誘いに来たんだよ。ちょっとトラブって、湯川の力が必要になったんだ」
「……やだ」
「そぉんなわけないだろぅ」
「いやあるんだよ。私の力が必要な事態なんてあるわけないし、あったとしても力なんて貸したくない」
「嫌よ嫌よも好きのうちってやつだな」
「違う……ねぇ、なにしてるの?」
「うん。鍵をこじ開けてる」
「え……え、どういうこと⁉」
住宅の部屋鍵なんてものはちゃちだ。ロックされてるかどうかを示すくぼみに十円玉を差し込んで、ガチャガチャひねると、造作もなく内鍵が回ってしまう。
「テッテレー〝サムターン回し~〟(ダミ声)」
鍵は簡単に開いた。
そのまま扉を引っ張るが、しかし、開かない。なるほど、湯川が内側からドアを押さえているらしい。無駄な抵抗だ。もうやめちゃっとはいえ、僕は二年前まで。バッキバキのスポーツマンだったのである。生来のインドア派である湯川に、単純なパワー勝負で負けるわけがない。
一回腰を入れて、本気でドアを引っ張る。内側のノブに掴まったまま、淡いブルーの寝間着姿が廊下に転がり出てきた。
「久しぶり、湯川」
「な……な……っ⁉」
湯川は金魚みたいに口をぱくつかせて驚いていた。濡れ羽烏の黒髪はぼさぼさに跳ねている。目は驚愕に見開かれたままだ。
無理もないことではある。
僕はこれまで、湯川に対してフィジカルで言うことを聞かせるようなことはなかった。
彼女がドアを押さえてまで閉じこもるなら、言葉を尽くして出てきてもらう、交渉が上手くいかなかったら、こちらにどんな事情があろうとも潔く諦める――それが今までの僕のスタンスだった。湯川も、そのイメージを捨てられなかったのだろう。男も女も平等に殴るとか口では言いながら、その実、湯川にだけは実力行使をしてこなかった。
しかし。
そんな紳士だった篠宮くんは死んだのだ。
ヒー・イズ・デッドだ。
なんだかんだ幼馴染の意志を最優先にしてしまっていた篠宮くんはもういない。星川とお付き合いするようになって、前田や千種と友達になって、雪姫や相庭と戯れるようになって、忘野先輩に構われるようになって、篠宮くんは変わってしまったのである。
きっと――
きっと湯川の不調の原因は、そこにあったのだ。僕はずっと、湯川が調子を崩したから僕まで調子を崩しているのだと、そんなどこまでも被害者面した予想をしていたのだけれど、でも、真実は全くの逆だったのだ。
僕の変化に湯川は戸惑っている。
それだけのことだったのだ。
「じゃ、行こっか」
「なにが? どこに? なんなの?」
もともと癖っ毛なのに、さらに寝ぐせも相まって信じられないくらいぼさぼさになっている髪を、ぶんぶん振りながら拒絶する湯川。
そしてそれに取り合わない僕。
「自分で歩かないなら僕が運ぶからな」
「きゃっ……ちょっ……お母さん、お母さぁん‼ 篠宮に乱暴されるーっ! 孕まされるーっ‼」
「そんなことになったら、おばさんは大喜びだろうな」
強制的におんぶしただけで、ずいぶんとひどい言い草だ。あと、孕ませるわけねぇだろ。
抵抗する足を腋に挟み込んで立ち上がる。湯川って太ももむっちむちだなぁ、とか、首に掴まってくれないとおんぶしずらいなぁ、とか思った。ちなみに案の定、背中には柔こい双丘の感触がある。ふっ……この程度で僕が動揺すると思っているなら、それは勘違いというぅぅぅぅぅマーベラス‼
「離して……ちょっ、ほんとに離して。出歩けるわけないでしょ」
「ダメだぞ湯川。そうやって安易に引きこもったら。人間は陽の光を浴びないとうつ病や自律神経失調症のリスクが高まるんだから」
「いやそういう問題じゃなくて。パジャマだから。私パジャマだから」
「あ、すいません。お騒がせしました」
リビングを通り抜けがてら、おばさんに会釈する。笑顔と万歳と何かしらのハンドサインが返ってくる。具体的には、右手で作った指の輪っかに、左手の人差し指を通すような……。お前は一生セリフなしだ。
「一人娘が拉致されそうになってるのに笑顔で送り出す母親ってどうなの……。ねえ、一生のお願いだから着替えだけでもさせて」
「お前の一生のお願いは既に五十三回聞いてるから駄目だ。五十三回転生してから出直せ」
「……一瞬論破されかけたけど、どう考えても、私の一生のお願いをカウントしてるの気持ち悪すぎるでしょ」
「愛故だよ、愛故。いってきまーす」
イってらっしゃーい――というおばさんの嬉し気な声をバックに、僕は湯川宅を出た。おばさん、お前は一生セリフなしだっつったろ。
「うう……」
「大丈夫だって。学校に着いたら、かぐや姫の衣装に着替えさせてやるから」
「そんなの……うん? いま、なんか変なこと言わなかった?」
「変なこと?」
「かぐや姫がなんとかって……」
「ああ、言ったな。お前がかぐや姫だ」
「え? は? でも……かぐや姫って、星川さんじゃないの?」
「お前クラスライン見てないのか? 星川は昨日の食中毒の件で検査だ。劇に間に合うかは正直微妙。だから、お前が代役」
「でも……セリフとか……」
「即興劇をやることにしたから大丈夫だ」
「てか、私やるなんて一言も言ってないんだけど」
「かっかっかっ! どうしても嫌だと言うのなら、僕を倒してみせることだな」
フィジカルにものを言わせることを覚えた僕は、もはや以前とは違う。論理的じゃなくたって、別に構わないのだ。作戦名は『無理を通せば道理も引っ込む』である。
あの手この手でかぐや姫を辞退しようとする湯川をあしらいながら、携帯でタクシーを呼ぶ。結構な出費になってしまうが、致し方ない。
◆
「君たち大丈夫なんだよね? 何か犯罪に関わってたりしなよね?」
訝し気な視線を寄越してくるタクシーの運転手に軽く事情を説明してから、出発進行する。
乗ってから気づいたが、湯川は靴も履いていなかった。小さく美しい素足をシートの上に乗せ、皺の寄ったパジャマを抱きしめて体育座りしている。誰がどう見ても犯罪的な絵面だ。
「そんな顔するなよ、湯川。学校に行くだけだ」
「劇の主役をやらせようとしてるくせに。絶対やらないから」
「絶対やらせるよ。一生のお願いを使ったっていい」
「篠宮の一生のお願いは既に十二回聞いてるから。十二回転生してから出直して」
「お前も数えてんじゃねぇか」
湯川は顔を膝に埋めてしまった。僕の顔も見たくないのかもしれない。
「かぐや姫なんて絶対やらない。劇の主役なんて絶対できない」
「いいやできる。湯川ならできる――湯川と僕ならできる」
「……絶対できない。他の人を代役にすればいいじゃん。もう、放っといてよ……」
殻にこもるようにどんどん丸まっていく湯川。心の距離がどんどん離れていくのを感じる。
もう、僕の湯川の求めている言葉を吐く能力はない。僕が変わってしまったから、以前の僕のように、湯川の思考をトレースすることはできない。深いところで複雑に繋がっていたはずの僕らの繋がりは、
だけど――だからお別れってことにはならないはずだ。
「放っておけないから僕はここにいるんだ。幼馴染なら、それくらいわかれ!」
「えっ……」
「お前の感じてることはわかるよ。僕は変わったかもしれないけど、それでも、お前と調子が合わないと、体の半分が動かなくなったみたいな不快感を感じる。前みたいに誰かと話せる自信がなくて、星川や千種を避けてるんだろ」
「……違う」
「違わない」
湯川と僕の繋がりはもうないかもしれないけれど、それでも、僕こそが、この世界中の誰よりも僕こそが、湯川累という少女を一番理解している断言できる。だから、湯川の欺瞞を自信をもって看破することができる。
「お前と僕はずっと一緒に育ってきた。忘野先輩は僕らのことを共依存関係だって言ったけど、それはちょっと違う。依存してるのは、お前だけだ。中学の時も、そして今回も、お前は僕と疎遠になるとすぐに他人との関りを断ってしまう。お前は僕がいないとダメなんだ」
「………」
「――でも、僕はお前と一生を添い遂げるつもりはない」
「……っ!」
湯川は膝に目尻を擦り付けている。もうすでに半べそだ。あとちょっと押したら、シートをぐっしょり濡らすくらい泣き始めるだろう。
「僕には星川っていう恋人がいる。海でお前が言ったことは正しいのかもしれない。たまたま一番最初に仲良くなった女の子が星川だったから、星川を好きになったのかもしれない――でも、好きなんだ。たまたまだったとしても、ホントウじゃなかったとしても、好きなんだ。大好きな恋人より、お前を優先するなんてことはない」
「………」
「僕はきっと、いつか結婚する。それが星川なのか、それとも別の誰かなのかはわからないけど、少なくとも、結婚する誰かはお前じゃない」
「………」
「湯川……僕はお前を、いつまでもは支えられない」
「…………………………………だからもう、放っておいてって」
「――うるせぇ!」
「……っ‼」
湯川は虚を突かれたふうに身体を硬直させた。僕は畳みかける。
「放っておけないって、さっき言っただろ! お前が幸せそうにしてくれないと、僕の幸せはどれだけ頑張っても半分までしか満たされないんだよ!」
「……なんで……そんな」
「なんでとかないんだよ。リクツなんかつかないんだよ。なんとなくだよ、なんとなく」
湯川のことは全く全然好きじゃない。
将来お前と結婚することはあり得ないと断言してしまうくらいに、僕は湯川を異性として見ていない。
――でも。
大事な人としては見ているのだ。
幸せになってほしいとは思っているのだ。
「……………………………………」
湯川が考え込み、僕が荒ぶる気持ちを静めている間に、タクシーはひた走り、やがて学校に到着した。清算を済ませてドアが開く。
「……靴、ない」
「そうだな。そうなんだよなぁ」
「運んでよ」
「おんぶでいいか?」
「私はかぐや『姫』だよ? お姫様抱っこでしょ」
湯川がこちらに両手を伸ばす。僕は苦笑いした。
「あんま上手くないけど、いいだろう」
なんやかんやで。
結局、僕は湯川にベタ甘なのだった。