「篠宮君、ちょっといいかな……?」
そして明くる月曜日。
登校してきて席に座ろうと中腰になった僕に、そんな声を掛けてきたのは前田だった。
この状況で「いや、よくないかな」とは言えないので、なんだか既にちょっとげんなりしつつも、言葉を返す。
「……ああ、なんだ?」
「少し顔を貸してくれないかな? 空き教室に来てほしいな。始業前には終わるから」
肝心の頼みの時にだけ、前田はやりづらそうに眼を逸らした。
「なに? 告白でもするの?」
余計な茶々を挟んできたのは、僕と一緒に登校してきた後ろの席の累だ。
「黙れ累。ダルいタイプの陽キャみたいになりやがって。お前をそんな女に育てた覚えはないぞ」
「そもそも涼太に育てられた覚えはない。むしろ私が育てたまである」
「までねぇよ」
「――あの……それで、いいかな?」
あ。
ごめん前田、すっかりお前の存在忘れてた。
胡乱な目を向けらる。
さっきは目を逸らされたのに、イマイチ納得がいかない。
「おけおけ」
前田が移動を開始したので、僕はその後ろをついていく。
結果として背中を見ることになったが……、前田って、意外と背低いな。イメージ的には星川と同じくらいの身長かと思っていたが、全然そんなことはなさそうだ。累よりちょっと小さいくらいか?
二年一組の三つ隣にある空き教室は、人の姿もなく、静謐な空気が沈殿していた。
なにかの時のために開けてある教室らしいが、その『なにか』が実際に起きたことはないので、空き教室に足を踏み入れるのは入学以来初めてだ。
教室の中央辺りまで歩を進めたあたりで、前田は振り向いた。
振り向いたときは毅然とした顔だったが、だんだん威勢がなくなっていく。青菜に塩を掛けた時のような反応だ――うん、ちょっとカッコつけた。料理なんてしたことないから、青菜に塩掛けた時の反応なんて知らない。
「あのさ……篠宮君に頼みたいことがあるんだ……」
前田は腰の前で手を組んで、もじもじと摺り寄せた――どうでもいいけど、スカート姿の少女がもじもじしてるのって、なんか萌える。
「頼みたいこと? ふっ……おいおい前田。僕が今までお前にどれだけ助けられてきたと思ってるんだ? 頼みごとのふたつやみっつ、いくらでも聞いてやるぜ」
「ホ、ホント?」
僕と前田は身長差が二十センチ近くあるので、目の前で弱気になられると、逆に困る。
なんていうか……、やっぱかわいいってズルいな。
これが男子だったら、単にオドオドしてるだけの雑魚っぽくなるのに、顔面の整った女子がやるとかわいいのズルいな。中学の頃、クラスで格下みたいに扱われてたやつは、常にオドオドした奴だった。
今になって思えば、卑屈に接して敵を作ってばかりという、典型的なコミュニケーションの悪手だ。今、累がクラスに溶け込めていっているのも、あいつが女子だからという理由がなきにしもあらずだろう。
「あのさ、篠宮君。いきなりのことで戸惑うかもしれないけど……」
前田の声が上擦っている。
こ、この雰囲気はまさか……。
――なんて勘違いはしない。
僕は割と人心に敏い方だ。好かれていて気付かないなんてことはない。
前田が僕を他の友人とはちょっと違う目で見ているのは気付いているけど、それは決して恋心ではない。言うなればそれは……まあ、これはいいか。
「あの、篠宮君に私の……」
私の……?
なんだろう。「私の師匠になってください」とかだったらどうしようかな。僕が前田に教えられることなんて、パイルドライバーくらいなものだけど……。
前田が僕の弟子になったら、千種は前田にとっておばあちゃんに当たるわけか……。千種のことを「おばあちゃん」とか呼んだら怒るかな? 怒るだろうなぁ……。
「私の生徒会選挙の応援演説人になってほしいの!」
……………え?
「……………え?」
ちょっと予想していなかったことを言われたので、思わず思考と発言が一致してしまった。
「ほら、生徒会選挙には応援演説人がひとりつくことになってるの。その役目を……篠宮君にやってもらえないかなって……」
ああ、なるほどなるほど。そうだった。そういえばそんなポジションの奴がいたな。去年の演説でも本人だけでなく、応援人みたいな奴が喋っていたような気がする。
まあ、それはそれとして、どう答えたものか。
やりたいかどうかと問われれば、そんなのNOに決まっている。だってめんどくさすぎる。演説人をやる利点なんて、投票しなくていいくらいのものしかない。
でも、わざわざ場所を変えてまで相談されたのに断るのは気まずすぎる。僕が悪人みたいな雰囲気が出てしまうじゃないか……。いわば、ご飯を奢られた後のお願いの断りづらさみたいなものがある。
「……僕より、もっとまともな奴を応援人に選んだ方がいいんじゃないか? ほら、千種みたいな」
一番最初に思い付いた断り方がスケープゴートを立てる、というものである辺り、自分の卑怯さが滲み出ているようで恥ずかしかった。
ごめん千種、あとでジュース奢るから……。
「実は美穂ちゃんにはもう相談したんだけど……、篠宮君の方が向いてるからって……」
「あの野郎……」
考えることはみんな一緒だった。
千種、お前は僕にジュースを奢れ。
「ね、篠宮君、お願い」
うむむ……。
先ほどなんでも頼みを聞いてやると言った手前、まっすぐ断るのも忍びない。スケープゴート作戦が失敗した今……。
というかそもそも、無理に断る必要もないではないか。
今まで彼女にどれだけ世話になってきていると思っているんだ。
最初から僕に選択肢などなかったのだ。
「わかった。そのお願い、謹んで引き受けさせてもらう」
言葉だけ仰々しくした。
「……ホント?」
断られる可能性も視野に入れていたのだろう。僕を見上げる彼女の瞳は、わずかに潤んでいた。
やめてくれ、その上目遣いは僕に効く。
「本当だよ。このタイミングで嘘吐く意味がわからんだろ」
投げやりに。
僕はそう言って、苦く笑った。