「きっかけはね、選挙だったんだ」
前田の手を引いて五階の本屋に逃げ込んだのち、前田はぽつりと溢した。
どろっと吐き出すように。
言いながら。
前田はスマホを操作して、画面を僕の顔の前に差し出してくる。
誰かの写真投稿系のSNSのページ。アイコンは前田のバストアップの写真。
すぐ下の最新コメントには『明日の演説、頑張るぞー』とあった。日付は今日。一枚の写真が張り付けられてる。友達にでも撮ってもらったのだろう。両拳を突き上げた前田が、にこやかに笑っていた。
「これは?」
「……生徒会選挙用に、新しく作ったアカウント。私もできることがしたいって思って――篠宮君に相談もなく……ごめん」
「いや、まあ、言われてみれば、確かにそれは僕が思いつきもしなかった有用な手段ではあるんだが……これがどうかしたのか?」
「………」
前田が小さく頷く。
前田の指が再び画面を往復し、別の画面が表示される。
表示されたのは、ダイレクトメッセージを確認する画面。
――その顔、カリンばいね?
最初のひと言がそれ。
――雰囲気変えたっちゃわかるばい
時間を置かずに、次のメッセージが届き、
――今日、修学旅行で近う来とーけん、会わん?
と、三つ続けて並んでいる。そこからは怒涛の勢いで、
――おるんやったら友達連れてきたっちゃよかけん、会おう
――会うてくれんならカリンの過去バラしてしまうばい
――イジメられとったなんて知られとうなかやろ?
――ねえ、会おうや。会うてくれるよね?
と、短いメッセージが立て続けに続いていた。
僕に向かって画面を向けている前田の手が、不安げに震えている。
「イジメ……ね。立派な犯罪のはずなんだが、なんでこんなに上から来れるんだろうな……」
むしろ知られて困るのはそっちだろと言ってやりたいが、現実はそんな論理的じゃない。
『イジメられていた』という事実は、一種の『弱者』の烙印だ。
イジメられていた人間はそれを隠したがる。だから、イジメというものは基本的に明るみにならない。だから、イジメという社会問題は根絶しないのだ。
僕が社会の闇を憂いていると、前田のスマホが振動した。
ダイレクトメッセージの着信らしい。
前田の肩がぶるりと震える。
僕はそれを見て、前田からスマホを奪い取った。
――今日んこと、忘れんけん
――絶対後悔させちゃるから
――聞いとーとか、おい
――どうなったっちゃ知らんけん
相当スマホの操作に慣れているのだろう。
見ている間に、どんどん新しいメッセージが飛んでくる。ある程度メッセージが落ち着いたタイミングで、画面をスクショする。そして、文面を作成。
「篠宮君?」
構わず送信。
「いま、なにを……⁉」
「これ」
画面を前田に見せた。そこには、送ったメッセージの文面が残っている。
――警察に連絡するから
すると、ぴたりとスマホは黙り込む。メッセージの着信は完全に止まった。
いまさらやり過ぎたことに気付いたのだろう。メッセージがどんどん消されていく。が、それは遅きに失している。
僕は先ほどスクショした証拠画像をDMに張り付ける。
これで完封だ。
「これで大丈夫だろ……大丈夫じゃなかったら、遠慮なく警察に駆け込め」
「……篠宮君は……すごいね。こんなこともできちゃうんだ」
「いや、これは僕と言うより累の知恵だけどな。アイツ、昔からネット弁慶だから。ゲーム用のメイン垢のほかに、サブ垢十個くらい持ってるしな」
女性の若いゲーマーとして有名な累は、たまにヘンな奴に絡まれる。
しかし、SNSマスターである累は、それを千切っては投げ、千切っては投げてきた歴戦の猛者だ。そんな歴戦の猛者の幼馴染として、そのテクニックの一端くらいは知っている。
さて。
もう答えは見てしまったのだが。
中学時代の前田華凛、という彼女の弱点を――そして、今の彼女が被る
いまだに震える前田の肩。
その理由。
「……前田」
意を決して――僕は訊く。
なあなあにできない。
そうすることが、はっきり答えを示さないことが、今日見たことをすべて忘れてあげることが、きっと彼女が本当に望むことなのだろうけど――
もう手遅れ。
僕は前田の物語に片足を突っ込んでしまった。
彼女の心に。
彼女の過去に。
僕は土足で踏み入ってしまった。
「
確認するまでもない。
奴ら自身がそう証言したのだから。改めて問う必要も、本来はないことだ。
だけど。
「誰にも言わないって約束してくれる?」
「ああ。もちろん」
「誰にもだよ。本当に、誰にも。友達にも、先生にも――幼馴染の累ちゃんにも、恋人の瑠璃ちゃんにも、秘密」
「恋人のいる身で他の女の子と秘密の約束をするなんて……燃えるだけだぜ」
「………」
僕のちょっとしたボケを、しかし、彼女はいつものようにツッコんではくれなかった。
沈黙。
張り裂けそうなほどの沈黙が、僕らの間をしばし支配した。
「……うん。イジメられてたよ」
前田は。
はっきりと頷いた。泥を吐き出すように。
「見た目とか……気を遣うタイプじゃなかったから、地味で、たまたま標的にされちゃった。運が悪いことにね」
運が悪い。
その表現は、ちょっと不適だ。だって悪いのは、どう考えても前田の運ではなく、イジメていた奴らなのだから。
僕は、口を挟むことなく前田の言葉に耳を傾け続ける。
「高校に進学して、地元を離れて、華々しく高校デビューしたんだ――大成功だと思ってた。友達がいっぱいできて、蔑まれることもなくて、腫物みたいに扱われることもなくて……私は変わったんだって、勘違いしてた――私は、私のままだったのに」
「………」
「文化祭の時の篠宮君を見てね、思ったんだ。『ああ、私はこういう人になりたかったんだ』って」
「じゃあ……生徒会選挙に立候補したのは……」
「うん。私も――って」
その言葉に。
その表情に。
僕は気を抜くと――
彼女の過去を、彼女の言動を、彼女の努力を、切ないものだと思ってしまいそうになる。
違うのだ。
絶対に違う。
前田は可哀想なんかじゃない。
前田は過去にイジメられていたのかもしれないが、それは別に、彼女が弱者である証左にはなり得ない。
なり得ないし。
あり得ない。
前田は――僕の知る二年のマドンナは、決して可哀想な奴なんかじゃない。
そんなことわかっていても。
どうしても心は言うことを聞かなくて、前田に憐みの感情を向けてしまいそうになる。
「約束したよね? 篠宮君」
と、再び念を押すように言ってきた。
僕を見上げる眼に、ほんの少しの闇を混ぜて。
懇願するように言ってきた。
「約束したよね、篠宮君、誰にも言わないって――約束してくれたよね?」
誰にも。
累にも、星川にも。
それだけじゃなく。
それよりも。
誰よりも前田自身に対して、二度とこの話題を持ち出さない約束だと――前田はそう言っているのだ。
自分の過去から。
自分の最も柔らかいところから。
目を逸らそうとしている。
なかったことにしようとしている。
忘れようとしている。
あわよくば僕からも、忘れさせようとしている。
「……お願いします、篠宮君」
前田は言った。
なにも言わない僕に対して。
誠実に――或いは、不誠実に頭を下げた。
深々と。
逆に間違った作法なんじゃないかと思うくらい、深く深く、まるで闇に沈みゆくかのように、その明るい茶色に染めた頭を下げた。
「このことは、もう忘れてください」
「前田……僕は……」
言葉を詰まらせたのは、端的に説明すると、僕が傲慢だったからだ。
僕なら。
今までいろんな人を助けてきた僕なら、お前を助けられるかもしれない――と、そんな傲慢にもほどがある邪念が、僕の頭を掠めたからだった。
そんな僕の反応を抵抗と取ったのか、前田は頭を上げることなく「忘れてください」と――機械的に繰り返す。
「……わかった。これは、ここだけの話だ」
僕は苦々しく呟いた。
◆
そして。
僕はその後、前田を家まで送ってから帰宅した。
『涼太、二年一組の掲示板、早く見て』
夜。
電話を掛けるには少し非常識な時間に電話を寄越した累は、謝罪の言葉もなくそう言った。その余裕のない声音に、僕は困惑しながら、
「な、なんだよ……」
と、雑魚っぽい台詞を返す。
『いいから!』
説明する気はないらしい。
僕は言われた通り、二年一組の掲示板を開いた。
「……ッ⁉」
賑わっている――なんてもんじゃない、軽く炎上している。
高速で縦に流れていくコメントを見ながら、僕はこんな真理を思い出していた。
【華凛ちゃんがイジメられてたって本当なの?】
『ここだけの話』なんてものは、この世のどこにも存在しないのだということを。