そして後輩たちと解散して三十分後。
ちょっきり三十分後。
僕は、既に始まっている五限目の数学の授業を思いっきりサボタージュして――校舎の三階の一角、何かあった時の一室、空き教室の真ん中で、ぼーっと突っ立っていた。
すべきことは既にし終えていた。
だから待つだけなのだ。
もっとも、人目に付いたら
それに、この部屋は意外といい見立てだ。
黒板があって教卓があって、机があって椅子があって――普通の教室に、ただ生徒だけがいない空間は、今の
「………」
そんなアイロニックな世界。
教室という密室を破り、肩で息をしながら――前田は現れた。
建付けの悪い引き戸が悲鳴を上げながら。
ノックもないまま――荒い息と共に。
両膝に手を置いて、乱れた息を整えながら。
明るい茶髪は跳ね放題で。
いつも完璧に着こなしている制服も、どこか乱れ気味。
ひと目で、慌てているのだとわかる。
そんな見るからに普通でない彼女の眺めて、それでも僕は冷静な目を彼女に向ける。
「篠宮君! 大丈夫っ⁉」
と。
焦燥を隠そうともせず、心から僕を心配しているのだと、当の僕に伝わってしまうような形相で、そう呼びかけてきた。
今にも、いもしない仮想敵にとびかかっていきそうな剣幕だったけど――しかし、冷静に、教室の机に体重を預けて普通に突っ立っている僕を視認して、
「……なんだ……そういうことだったんだ」
と言う。
起こした顔を、俯けるようにして――ゆっくりと背筋を伸ばしながら、
「騙したんだね――私のこと」
「……ああ」
そうだよ、と僕は答える。
僕がしたことは簡単だ。
僕は一通のメッセージを送っただけ――『大変なことになった。助けてくれ』というような内容のメッセージを前田に送り付け、返ってくるメッセージを全部未読スルーしたのだった。
具体的なことは何も書いていない。それゆえ緊急性を感じるような、端的なヘルプを望むメッセージである――前田にはそれだけで充分である。
前田は善人だ。
不幸なことに。
いつか言ったが、善人は損をする――僕みたいなどう仕様もない人間に、騙され放題なのだ。
彼女が来てくれない可能性は考えなかった。
たとえどれだけ自分が辛くても、助けを求めれば必ず来てくれる。
僕は確信していた。
「それで……?」
前田はこちらをゆらりと見る。
睨む。
「嘘を吐いて、人を騙して――そこまでして私を学校に来させて、何がしたいのかな?」
「お前に教えたかったんだよ」
「何を?」
「お前の強さを」
僕はのっぺりと言った。
ほとんど棒読みのような口調で。
そうでもないと、馬鹿馬鹿しくてこんなことは口にできそうにもなかった。
「昔イジメられていようがなかろうが――お前はお前だよ。どうしようもないくらいにお前だよ。友達がピンチだって聞いたら、西にも東にも駆けつけてしまう――自分のことより他人のことを優先してしてしまう。それがお前だよ」
「……これが私?」
「そう。お前だ。当ててやるよ、前田。お前、僕に騙されて腹を立ててる半面、僕に何事もなくて安心してるだろ? 嘘でよかったって、嘘みたいな優しさが心の中にあるんだろ?」
「………」
「すごい優しいし、めっちゃ強いよ。優し過ぎるし、強過ぎる――だからお前は、抱きしめたくなるくらい憐れだ」
僕は言った。
棒読みなんてできず、溢れるくらいの憐みを、声に滲ませて。
「勘違いするな。僕はお前がイジメられてたから憐れんでるんじゃない。その程度で憐みを持つほど、僕は非情じゃない――僕がお前を憐れだと思うのは、お前が優しいからだ。優し過ぎるし強過ぎるから、お前は他人を気にせずには生きていけない――胸が苦しくなるくらいに可哀想だ。僕はお前に、同情する」
その感覚は、ほんのちょっぴりわかるから。
僕は前田みたいに優しい人間ではないけれど、ほんのちょっとだけ周囲に目端の利く人間だから。
僕は前田に、同情してしまう。
だから嘯く。
「僕が助けてやる。前田。お前を、僕が助けてやる。何とかしてやる――勝つしかないんだ。前と同じ地位を確保するには、不幸をバネにするしかない。おあつらえ向きに、今日は生徒会選挙がある――僕がお前を勝たせてやる」
嘘を吐く。
僕は前田みたいに優しくないから、そんなことができてしまう。
嘘を吐いて。
彼女を騙して。
僕は前田に、悪魔の手を伸ばす。
「……助けてくれる? 私を?」
「そうだ」
「本当に?」
「ああ、本当だ」
本当だよと嘘を吐く。
小さく覇気なく、優しく笑って。
それは前田にしてみれば魅力的な笑みに見えたかもしれないが、僕が鏡を見たら、悪魔の笑みだと喩えただろう――或いは忘野先輩が見たら、獣の笑みだと揶揄したかもしれない。
その笑みに。
前田は救いの神を見るような視線を寄越した。
瞳の奥を、ドロッとしたものが蠢動している。
「………」
それじゃあダメだと、言いかけてやめた。
今じゃないから。
同情だったり、憐憫だったり。
憐れまれているのでは、見下されているのと同じだと。
勝ち続けなければならない。
見下されてはいけない。
対等に徹しなければならない。
そうだろ、前田。
中学生のころイジメられていようが、それを学校のみんなに知られようが――
お前は決して、可哀想なんかじゃないんだから。
――そう言いたいのを我慢して。
僕は縋り付いてくる前田を、受け入れた。
「ホントのホントに、篠宮君が助けてくれるの?」
それはもう、距離が近いというよりほぼ密着していた。
状況的に、振り払うわけにもいかず、僕は何とか言葉を返す。
「ああ、助ける。約束する」
「嘘じゃない?」
「嘘じゃない」
「……嬉しい」
その不安と恐怖と憤懣と期待と喜悦と安心のない交ぜになったドロドロの感情を、瞳の中に宿す前田は、蕩けるような声で言う。
「篠宮君が味方してくれるなんて嬉しい。百人力だよ。篠宮君を選んでよかった」
「………」
そんなんことを言わないでくれ。
そこまで依存したことを言わないでくれ。
お前は。
前田華凛は、もっと強い奴じゃないか。
僕なんかに媚びないでも、一人で生きていける力を持った女の子じゃないか。
そう言って諭したい。
自分の力で立たせてやりたい。
――でも。
今じゃないのだ。
いま彼女を鼓舞しても、まだ逃げ道がある。人間はどんなに強い奴でも弱さを持っているから、楽な道があったらそっちを選んでしまう。
ダメなのだ。
僕が見たいのは、そんな前田じゃない。
僕は僕のために。
他の誰でもなく、僕の中の前田像を守るために――僕は前田を、騙しきる。
「僕が付いてる。僕が何とかしてやる。だから前田、選挙演説に行くぞ――お前は僕の言うとおりにすればいい」
「うん、わかった」
即答でその言葉を返してしまう時点で、僕の考えていることの何もわかっていないのは明白だったが、そんな気持ちも吞み下して。
僕は彼女の手を、優しく取った。
「行こう。僕に策がある。安心しろ」