そして。
僕の悪魔的裏切りによって衆目に晒された前田は可哀想なくらい肩を縮こまらせていた。
講堂が再びざわめく。
どこもかしこも、隣に座る生徒に、前田を見ながら耳打ちしていた。音は聞こえてこないが、誰もが小声で何かを話している。
あれが噂の前田華凛なんだって――とかだろうか。
「嫌な感じ」
ぽつりと呟いたのは加持だった。
それは、この場の空気感に対する感想だろう。僕も同感だった。せっかく僕が沈黙を以って作り上げた緊張感は、すっかり弛緩した空気に戻ってしまっている。
この中での演説は、やりにくかろう。
視線は針のように刺し。
声は前田の矮躯を押しつぶそうと襲い掛かる。
前田がマイクに手を掛ける。
「……っ」
しかし、零れたのは短い吐息だけだった。
掠れたような……。
前田の身体に緊張が走る。背中しか見えない僕にすら伝わるほど、前田は混乱している。声が出ない自分に困惑しているようだった。
「まさか、
加持がぼそりと溢す。
僕は演台に立つ前田にも聞こえないように声を落として、加持に話しかけた。
「加持、カンモクってなんだ?」
「……声が出なくなる病気全般のことです。特定の場面で声が出なくなることを、選択制緘黙といいますが……集団を前にすると声が出なくなる人は少なくはありません。原因はトラウマや不安障害……今の前田さんにはとてもあてはまるものです」
「……つまり、病気ってことか?」
「断言はできません。私は別に、精神科医のライセンスを持っているわけではないので……」
前田の状況が病気にしろ何にしろ、声が出ないのは致命的だった。
演説の時間は三分以上五分未満。
この時間は、最初のひと言を発した瞬間からカウントされる。
つまり、ひと言も発せないと、十分でも二十分でもあそこに立たされることになる。
好奇の視線に――針のような視線に、晒されたまま。
「………」
気が付いたら、貧乏ゆすりをしていた。
前田を陥れた張本人である僕が彼女を心配するのはおかしなことなのかもしれない。
でも僕は、決して彼女を苦しめたくてこんなことをしたわけではないのだ――僕は、彼女の強さなら、或いは、彼女のうちに秘める魅力をもってすれば、全校生徒の心を動かすことだって不可能じゃないと……そんな、甘い公算を立てていたのだ。
声すら出せない。
そこまで追い込んだつもりはなかった。
そんなことになるなんて思わなかった。
……いや、それはただの言い訳だ。
釈明だ。
みっともなく、責任逃れしようとしているだけだ。
この状況は。
前田の緘黙は――ひと片も余さず僕の軽率な行動に端を発しているものなれば、その責任は、僕が負わなければならない。
前田のメンタルを回復させることはできないけど。
とにかく、現状を打開する
簡単だ。
今この瞬間、僕がこの場で奇声を発して暴れ回ればいい。
それだけでこの演説会は中止にできるし――あわよくば、頭のおかしくなった大納言のことにみんなが夢中になって、前田の噂が淘汰されるかもしれない。いや、それもまた、甘すぎる公算か。
とにもかくにも。
僕が大きく息を吸って奇声を発しようとしたその瞬間に。
キィィィィィィィィィィィィィン――という、
それがマイクのハウリング音であることはすぐに解ったが、しかし、音源は判然としなかった。
少なくとも、現状マイクの前にいる前田は身を竦めるばかりで微動だにしていない。彼女が原因でないことは明らか。
では誰か――
首を旋回させて犯人捜しを始めた僕の耳に届いたのは、とっても軽々とした声だった。
「失礼。不注意でマイクを落としてしまったよ」
そんな見え透いた嘘を飄々と口にしたのは、舞台袖にいる忘野先輩だった。
北欧系の整った顔立ちには、相変わらず薄い笑みが張り付いていて。
その紺碧の瞳はまっすぐと前田を見つめている。
生徒たちからは見えないであろう位置で佇む忘野先輩に、身体を縮こまらせた前田が視線を向ける。
たぶん、目が合った。
前田の眼と忘野先輩の眼が。
忘野先輩はマイクをオフにすると、唇を動かす。何事かを呟いているようだった。
僕の位置からでは何と言ったか聞こえない。
前田に聞こえてるかも怪しいくらいの声量だったが、直後、前田が肩を跳ねさせたのを見て、僕は前田が忘野先輩の声を聞き取れたのだと察した。
大きく息を吸ったまま固まった僕は、固唾を飲んで成り行きを見守る。
奇声を上げる作戦は、忘野先輩の登場によっていったん見送りとなった。
前田はマイクの前に立ったまま、動かない。
十秒経った――二十秒経った。
何かがうるさいなと思ったら、それは僕の心臓の鼓動だった。それほどに、講堂は静寂が支配していた。
「私は――」
その、微風でも吹けば消し飛んでしまいそうなほど弱弱しい声は、マイクによって拡声され、講堂を席巻する。
全ての視線が。
全ての意識が。
前田華凛というひとりの少女に集中している。
「私は――この度、生徒会長に立候補させてもらった前田華凛です」
そのひと言共に、選挙管理委員会がタイマーをスタートさせる。
持ち時間は最大五分。
彼女の残りの学生生活を――否、残りの人生を左右する五分が始まった。
「……なぜか皆さんご存じのようですが、私は中学生のころ――イジメられてました。無視や陰口に限らず、直接的な暴力を振るわれたこともあります」
会場がざわめいた。
不穏な雰囲気だ。
それでいい。演説はとにかく、最初のひと言で聴衆の関心を惹きつけるのが肝要だ。
僕は素早く視線を走らせる。
教師連中は戸惑ってはいるようだが、止めには来ない。あくまで、生徒の自主性に任せるスタンスのようだ。
「私はイジメを苦にして福岡から逃げてきました。容姿を変えて、性格を変えて、次はイジメられないようにって――そんな願望が作り上げたのが、今の私です」
絞り出すように吐き出されるその赤裸々な独白は、聴衆の意識を惹きつけてやまない。
飛行機は高速で進んでいるから飛び続けられるのだという――今の前田の状態は、それに近しい。スタートにこそ手間取ったが、言葉を吐きだし始めれば、もう止まらない。口が動くごと、逆に安定していく。
「本当の私は、コミュニケーション能力が高くありません。本当の私は、ひとりの方が好きです。本当の私は、内気でなよなよしています――弱くて、誰かに頼らないと立てなくて、イジメるのに格好の的――それが私です」
そんな自虐を臆面もなくする前田は――端的に言って、大人だった。
落ち着いていて、柔らかく、そして洗練されている。
けれど。
人の意識を惹きつけてやまないナニカがある――その奥に、ギラギラと燃える何かが潜んでいる。その怪しい魅力が、彼女を認識するすべての人間の心を掴んで離さない。
「でも――」
前田はそこで言葉を一度区切って、僅かに間を開けた。
余白を使った弁舌トリック。
逆接を言った後に言葉を溜めることで、聴衆に次の言葉を予想させる――それだけ、自分の弁論に集中させる。
「でも、私は戦うことを選びました。逃げるのではなく、勝ちに行くことを選択しました」
だって、応援してくれる友達がいるから――と、前田はマイクがギリギリ拾えるかどうかの声で続ける。
その絶妙な声の小ささも、わざとやっていることなのかもしれない。
「確かに私には暗い過去があります。でも、そんなの誰だってそうじゃないですか――不幸だからって辛い思いをしなきゃならないわけじゃないし、恵まれないからって拗ねなきゃならないわけじゃない。嫌なことがあっても元気でいいし、イジメられっ子が人気者でもいい。昔ダメだったからって、今後もダメになるわけじゃない」
身を切るように吐き出される言葉は切実で。
彼女の真剣さを如実に表現している。
「いいですよね――私たち、誰だってみんな不幸で、どうしようもなくて、ロクでもなくて……全然取り返しがつかないし、不幸な過去が報われることもないけど……、一生引き摺って生きていくんですけど、それでもいいですよね!」
聴衆を巻き込んで。
心を奪って。
彼女は妖しく輝きを放つ。
「――だって私は、
人という生き物は、なぜだか他人の欠点ばかりに目が行くようにできている。
だからか。
人は、魅力的な
今の彼女は。
前田華凛は。
どうしようもないほどに、闇色の魅力を纏っていた。
ボルテージを上げるだけ上げた前田は、そして、そこで声の熱量を一段落とすと、
「こんな私ですが、どうか生徒会長にさせてください」
その言葉の後に、前田は深く頭を下げた。
「以上で、私の演説を終わります」
席が後ろにあって前田の顔が見れないのが悔やまれるほど、前田の顔は輝いていたと思う。深い、深い闇色に輝いていたと思う。
前田が席に戻る間、今日一番の拍手が起こった。
講堂を満たす、万雷の柏手。
たった一人の少女を、讃え奉るかのような――気味が悪いくらいの喝采。
先導者――ならぬ扇動者。
人を率いる漆黒の才能。
忘野先輩が持つそれ。
或いは、咲かせてはならないものかもしれない才能を、前田はこの日、開花させたのだった。
◆
演説が終了した後、生徒たちは教室に戻って票を投じる。
立候補者と応援演説人は投票権がないから別室で待機。
千種が『私には投票権があるけど、貴方にはない――これが格の差というものね』という謎のマウンティングメッセージを送ってきたけど、努めてスルーする。僕たちはとっても仲良しだ。
選挙結果はその日の放課後のうちに、校内アナウンスで報じられた。
『投票の結果、生徒会長は前田華凛さんに決定しました』
よしっ、僕の協力のお蔭もあって――いや、僕何もしてないけど……。
まあ、とにかく、前田が勝ったな。
『なお、副会長は次点の町田竜虎君になります』
次点っていうかね……。
ぷぎゃー、イジメられっ子に負けてらぁ――と、町田……ではなく加持を煽りに行こうか真剣に検案したが、さすがにやらなかった。
僕は三階の空き教室で選挙結果を聞いた。
ちなみに部屋には、僕と前田しかいない。
この後星川の家にお邪魔する約束だが、所要があるので先に帰っててくれと言って帰らせておいた。
「本当に勝っちゃったね」
クスクスと笑いながら、前田がおかしそうに呟いた。
「言ったろ? 勝たせてやるって」
「調子いいんだから」
「もちろん冗談だ。お前の実力だよ――正直、あそこまでできるとは思ってなかったけど」
今でも。
あの時の前田を思い出すと、背筋に冷たい感覚が走る。
今の彼女は至って普通の少女だが、その奥に闇が潜んでいるのだと思うと、どうしても心が落ち着かない。
「あれね……
「『とある人』って? もしかして忘野先輩か?」
「ううん」
短く答えて首を振った彼女は、こう続けた。
「――私の一番尊敬している人」
そう言って。
彼女は瞳に妖しい光を灯して、微笑むのだった。