さて。
全て終わったわけだし帰るかと、空き教室を出た僕が足を向けたのは、しかし、昇降口ではなく、五階にある生徒会室だった。
生徒会のメンバーでもないのに、なぜかすっかり馴染んだ生徒会室のドアを開け放つ。
ノックはしなかった。
僕の予想が正しいなら――僕は中にいる彼女に、少しでも礼節を示したくなかったから。
果たして。
生徒会室には、案の定というか、忘野先輩がいた。
次の生徒会長も決まって、もう正式に生徒会長ではなくなったはずの彼女が、さながら生徒会長然とした雰囲気で、生徒会長の椅子に腰を掛けていた。
他には誰もいない。
「やあ、篠宮後輩。よく来たね。待ちかねたよ」
僕が忘野先輩はここにいると予想したように、彼女も僕の来襲を予想していたのか、彼女は突然来訪した僕を泰然と受け入れる。
その超然とした調子に、さっそく僕は舌打ちしかけたが、それは何とか我慢して、
「忘野先輩――今日は訊きたいことがあって来ました」
「そうだろうね」
ニヤニヤ笑った顔で、相変わらず見透かしたようなことを言う。
そんな彼女に、僕は荒げたくなる声を押さえながら本題を口にした。
「前田がイジメられていた過去――
「そうだよ」
何の衒いもなく。
何の躊躇いもなく。
忘野響姫は即答した。
全くと言っていいほど後ろめたく思っていないかのように―――彼女は肯定と共に、薄く笑った。見る人が見れば天女のような笑みを、僕の眼を通せば、悪魔の笑みにしか見えないそれを、彼女はわざとらしく、その美しい顔に浮かべる。
忘野先輩があまりにもあっさりと認めてしまったせいで、なぜ僕が彼女が犯人であるか――その推理の開陳の場が失せられてしまったため、一応この場に記しておく。
まず、あの情報を流したと言われて一番怪しむべきは、イジメを行っていた張本人たちである。
あの訛りのキツい下品な女たち。
いかにも頭の悪そうな彼女たちなら、報復行為としてやりかねない。
――が、実はそれは、ちょっと考えにくいのだ。
なぜなら、情報が出回っていたのは学校の掲示板。
うちの学校の掲示板は、一応、体面上だけとはいえ、うちの学校の生徒しか見られないことになっているのだ。
もちろん、いくらでも抜け道のあるガバガバセキュリティだが、わざわざそのセキュリティを掻い潜ってまでアイツらがそこまでやるとは思えない。
ならば誰が犯人か。
そもそも論として、彼女の過去を知っていなければ、掲示板に書き込むことはできない。
その場合、前田は混乱のあまり思い至らなかったみたいだが、一番怪しいのは、言うまでもなく僕だ。前田本人を除けば、前田の過去は僕しか知り得なかったはずである。
ただ、僕は僕が犯人じゃないことを知っている。
では、誰が犯人か。
忘れがちだが、事実、僕も今朝まですっかり忘れていたが、忘野響姫――あの悪魔のような先輩は、初対面の時、僕のことを脅しているのである。
――かつて、僕が同級生を殴って怪我をさせたという情報をもとに。
どういった情報網を持っているのかまでは想像もつかないが、しかし少なくとも、忘野先輩にはこの学校の生徒の過去を調べるアテがあるのだ。
ならば、前田の過去を知っていてもおかしくはない。
推理と呼ぶには確証と呼べる確証もなく、穴だらけの理論だが、しかし僕は直感的に、彼女が犯人だと確信していた。
「……なぜそんなことを?」
掠れた声で、僕は訊いた――およそ、答えのわかっている問いを。
「そっちの方が面白そうだったからだけど?」
それがなにか?――とでも言わんばかりの態度に、僕の身体は熱を持つ。
僕の心は、この時点で攻撃性を帯びていた。
殺意にも似た怒気が、肚の奥底に沈殿していくのがわかる。
面白そうだから――そんな理由で、前田はあそこまで追い詰められたというのか……。そんな、そんなふざけた話があっていいのか。
「前田後輩をイジメていたっていう同級生たちだけどさ」
忘野先輩は、それが別に大した案件ではないかのように語り始める。
「たぶん、高校を退学することになると思うよ」
「……は?」
驚く。
その突拍子もない話題に、僕は言葉を失った。ほんの一瞬、怒りを忘れるほどに。
「忘野響姫、生徒会長としての最後の仕事だよ。過去のイジメと、昨日の恐喝――向こうの学校に、まとめて抗議させてもらった。かつてのイジメを大事にするのは難しいけど、恐喝はやりすぎだったね。普通に犯罪だし。順当に処罰するなら、退学が妥当だよ」
なぜ。
なぜ昨日、前田が恐喝を受けていたことを知っているのか――知っていて、なぜ助けてくれなかったのか。
「で、私は、そんな彼女らに少しだけお話を伺ったりしたんだよ」
「え?」
「修学旅行中だっていうからさ、ちょっとホテルに押しかけてね――どんな奴かちょっと気になって……。まあ、たいして面白い子でもなかったんだけど」
「………」
僕がイジメの噂にあわあわしていたい間に、忘野先輩はそんなことをしていたのか――いや、言われてみれば、イジメ問題が起きたなら、被害者と加害者、双方に話を聞くのは当然の手順である。
被害者の友人である僕にはない発想だった。
前田をイジメていた奴らから話を聞くなど――あの下品な女たちと話をするなど。
ありえない。
アイツらとは口も利きたくないし――顔も見たくない。
「
「……イジメる側の心理なんて、わかる必要ないでしょう」
「それはよくないね。理解しようともせずに排斥する――そういうのが端を発して、イジメというのは起こるものだから――ま、とにかく、彼女らはたいして面白くない子たちだったけど、その代わりに、面白い話が聞けたんだよ」
「面白い話?」
「ああ、まあ、君にこっぴどくやられて、相当狼狽してたんだろうね――見ず知らずの私を、自分の味方かのように錯覚してたみたいだし」
どれだけ馬鹿な奴でも、初対面の奴に自分が過去に行っていたイジメの話を赤裸々にすることはあるまい。
だからそれは、意図的に忘野先輩がそう演じて、勘違いさせたというのが正しいだろう。
「どういう話を聞いたんですか?」
「彼女らが調子に乗って前田後輩の顔面を殴ったときの話」
けろりとした表情のまま、忘野先輩はそれが、本当に面白い話であるかのように話し始めた。
「ついつい盛り上がって、前田後輩を突き飛ばして、顔を殴って、思いっきり蹴りつけて。前田後輩は壁まで吹っ飛んだそうだよ。女の子の力でも、それくらいのことはできるんだね」
「………」
「で、壁に強かに打ち付けられて、しばらく痛みに悶えていた前田ちゃんが、その後、どうしたと思う? 篠宮後輩」
「どうしたって……」
「
忘野先輩は言った。
愉しそうに――とてもとても、愉しそうに。
「イジメられてるくせに、多対一で暴行を受けているのに、力強く睨み返したんだ。思わず震えあがったそうだよ」
「……っ!」
「怖かったんだろうね――思わず追加で攻撃を、さながら手負いの獣にトドメを刺すように暴行を加えてしまったのも、仕方のないことだよ。徹底的にやらなきゃ逆にやられる――そう思わせるだけの何かが前田後輩にはあったから、イジメは止まるところを知らずにエスカレートしていったんだろうね」
いいよね。
興奮しちゃうよ。
忘野先輩は、笑みを深め――恍惚とした表情でそう言った。
「従順に従わなかったから、戦意を放棄しなかったから、前田後輩はイジメられ続けたんだ。恐怖が怒りに反転することなんてよくある。前田後輩は、彼女たちを怖がらせたからイジメられたんだ。やらなきゃやられると思わせてしまったから、攻撃されたんだ」
「……だけどそれは、前田のせいじゃないでしょう」
「前田後輩のせいだよ。何もかも自業自得。周囲に影響を与える才能を持つ人間は、その才能に自覚的じゃなきゃいけない――イジメの発端だって、そもそもは前田後輩の持つカリスマが原因かもしれない。目立つ人間は標的になりやすいんだから。その点、前田後輩は無自覚だったんだろうね。前田後輩がもっと自分の才能に自覚的で、上手くやっていけていたら、彼女らもイジメっ子にならずに済んだかもしれない」
歪めてしまった。
その闇色の才能で、周囲をめちゃくちゃに。
天才が凡人を人格的に壊してしまうなど、古来よりありふれた話であるように。
「今回の選挙の一件で、よくわかっただろう――彼女は同じだよ。私と同じ。君とも同じ。心の中に獣を飼った――化け物を飼った、他とは違う人間。選挙だって、結局彼女にとって都合のいいように捻じ曲がった。負けの方が濃い選挙に、彼女は大差で勝っちゃったんだから――君が前田後輩を手取り足取り助けなかったのも、前田後輩の奥底に潜んだ化け物を気持ち悪く思ったからなんじゃない?」
「――うるさいな。黙れよ」
僕は言う。
ついに堪えきれなくなって。
或いは、図星を突かれたことに怒って。
「殴りたくなる」
「ゾクゾクするね」
やっぱり君は獣だよ――と、忘野先輩は黙らない。
僕がすごんだところで、そうそう黙る女ではないのだ。
どころか。
殴りたくなる――とまで言った僕に、しかし彼女は、殊更近づいてくる始末だった。
席を立って近づいてくる彼女に、僕は思わず後退る。
しかし、僕の後ろ歩きより彼女の足の方が速く、僕らの距離は、あっという間に詰まった。手を伸ばせば、簡単に触れ合える距離。手が届く距離。やろうと思えば、殴れる距離。
「私はね――」
忘野響姫は、僕を壁際に追い詰めながら、僕を熱の灯った瞳で見上げながら言う。
「君が好きだ」
と。
さらりと言った。
絡み合う視線から、どろりとしたものが流れ込んでくる。
「篠宮後輩、君が好きだ。いまのつまらないカノジョなんかとは別れて、私と付き合おうよ」
何の前触れもなく。
さながら世間話のように告げられたその言葉は、捉え違いようもなく愛の告白で。
僕はそのあんまりな言い草に怒りを覚えることも、照れることもできず、ただただ、言葉を失った。
身を硬直したまま何も言えない僕に、忘野先輩はその白魚のような指を僕の胸板に添える。
吐き気が。
恐怖を伴う吐き気が、全身を襲った。
毒蛇に絡みつかれたかのような錯覚を覚えるほどに。
「……っ!」
瞬時に払い除けようとした僕は、しかし次の瞬間、世界が回転するのを感じた。
もちろん、世界が回転しているはずもなく――だから、回転しているのは僕の方だった。
柔の達人である千種と常日頃からフィジカルコミュニケーションを図っている僕は、それが投げられた感触だと瞬時に理解したが、理解したころには既に遅く――僕は受け身も必要ないくらい優しく、地面に転がされていた。
重みが。
重みと熱が、仰向けに転がった僕の腰の上に掛かる。忘野先輩が僕に跨ったのだと、僕は遅れて気付いた。
「弱いね、篠宮後輩は」
それじゃあ、いただきます。
言ったが早いが――忘野先輩は僕に顔を近づけた。
いや、『顔を近づけた』なんて行動描写はあまりに嘘っぽくて、彼女の髪のように白々しい――誤魔化すにしても下手くそだ。
仰向けに寝転がる僕のネクタイを掴んで持ち上げ。
自身は身体を傾けて。
僕に接吻した――無理やり。
「ん……んぶっ……」
みっともなく、格好悪く、ただ顔を真っ赤にして手足をばたつかせ、抵抗にもなってない抵抗しかできなかった僕を、しかし責める人はまさかいないだろう――今までいろんな、本当にいろんな女性といろんなかかわり方をしてきた僕だけど、さすがに無理やりキスされることはなかった――いや、あったか……。今のカノジョに、唐突にキスられたこともある。
しかし、今のそれは、星川のそれとは比べることもできないほど……。
ぐちゅり――と。
異音と言って差し支えない気持ちの悪い音が、僕の頭蓋の中を木霊した。
彼女は。
忘野響姫は。
まるで僕という存在を味わうがごとく――隙だらけだった僕の唇を割り、舌を捻じ込んで、好き勝手に僕の舌を絡め取り、キャンディーでも舐めるがごとく、舌と舌を絡め合わせていた。
「ん……んぐっ……」
「ん……ふふっ……」
責める人はいなくとも、しかし攻める人はいたようで――自分より小柄な少女に組み伏せられたまま、されるがままにキスされている僕を、彼女は唇を離さないままに笑った。当たり前のように鼻息がかかって、くすぐったいなんてもんじゃない。
動けない。
満足な抵抗もできない。
振り払うこともできない。
まるでそうされているだけで力が抜けていくような――そんな不思議な感覚さえあった。
軽くトリップしてしまいそうな感覚すらあって――いや。
これはただ、酸欠になっているだけだった。
恋愛初心者は、長いキスをするとき、どうやって呼吸をすればいいのかわからないと巷間よく言うが――まさか僕が、そのタイプの人間だったとは。
鼻で息を吸うべきかどうか、僕の思考がそんなどうでもいい方向に逸れ始めたタイミングで、忘野響姫による、長い長い凌辱は終わった。
やっと離れた唇と唇の間で、銀糸の橋が垂れ下がって切れる。
「はっぴーばーすでー」
冗談めかしくそう言って。
彼女は妖艶に微笑んだ。