妖精の恩返し
今でもたまに夢に見る、あの日の出会いを鮮明に。
やんわりと降る雪、肌を撫で切るような冷たい風。
公園のベンチに蹲り、目の前の水道水で何とか日を越してきたその日に。飢えに耐えかねて寒さで真っ赤になった指先で、必死に路地裏のゴミを掻き漁っていた。指先がひび割れて、熱いのか痛いのかも曖昧で。そんな中で見つけた汚れだらけのパンに噛みつこうとした時、
『何してるの?』
私は、一匹の白い獅子に出会った。
* * * *
「…んっ…んーーーーっ!」
仄暗い街に日の始まりを告げるような鳥の囀りをアラームに、睡眠で凝り固まった身体をほぐすためにうんと背伸びをしながら布団から半身を起こす。
夏が過ぎて秋も深まり、そろそろ冬がチラチラと顔を見せようとする今日この頃。二度寝という温もりにして大罪を求める心をぬっっっくい掛け布団を蹴飛ばすことで物理的に排除し、白いパジャマの上から枕元に置いておいた水色のカーディガンを羽織る。
この十畳一間での生活も、もうすぐ一年。何もかもにもビクビクしていた初心な自分が少しばかり懐かしい。今となっては古い目覚まし時計の無機質なジリリリリーなどなくとも小鳥の鳴き声一つで起床出来るようになってしまった。
それもこれも。
「すぅ…ひゅう……ごっ」
「………………」
隣に敷いている布団で眠りこけるこの同居人のせいでもありお陰でもあるのだが。
今も布団に収まりながら大の字になると言うどこで学んだのか皆目見当もつかないが、まあ別につかなくともよい技術を披露しながら眠りこける白銀の髪をそっと撫で、私は洗面台に向かう。
親譲りの氷色をした長髪の寝癖を櫛で解きつつ二つに結び、それなりに自信を持って白いと言える肌の顔に蛇口から掬った冷水を叩きつけ、淡い黄金色をした瞳から僅かな目脂と眠気を追い立てる。
「…ぃよしっ!」
そうして、最低限の身だしなみを整えることから私…雪花ラミィの1日は幕を開ける。まずは叩いても耳元で叫んでもてんで起きてこない、この家の家主を全身全霊乾坤一擲天地雷鳴の如くぶち起こすとしよう。
* * * *
眠れる獅子を起こす方法は如何なるか。普通の獅子なら尻尾を踏めばよかろう、ただしそれをした者の命は獅子の目覚めとともに終わりを告げられるだろうが。
では。この可愛らしい寝息とそうとは言えない豪快なイビキを織り交ぜる、白銀色の鬣を持つトンチキあかんタレグータラ獅子を起こすにはどうすればよかろうか。
答えは一つ。
「ししろーーーんっ!! 朝だぞ起きろーーーーっ!!」
尾は踏まぬ。ただ代わりにフライパンのケツをお玉で叩く爆音を耳元に叩きつけるのみ。
ガンガンガンガンっ!! と街の目覚めを司る鶏たちが裸足で逃げ出すレベルの公害音響に、件の獅子は片目の瞼を僅かに開ける。まるで瞼に超合金性ダンベルでもぶら下げているかのような緩慢な動作で半目を開いたこの女性は、響き渡るダイナマイトビートをものともせずにゆっくりと口を開く。
「…ん、ふぁぁぁぁぁぁ。うー、おあよー…ラミちゃん」
「おはようししろん。お願いだからもう少し穏やかな方法で起きてくれないかな、そろそろご近所さんに肩身が狭過ぎる。あとご飯出来たよ、はよ顔洗ってきなさい」
「やっっったぁぁぁ……ご飯だぁ」
多分この寝ぼけライオンは後半のごく一部分、ご飯、のとこしか聞いてない。あっちこっちに跳ね散らかした白銀の髪引っ提げて洗面所に消えていく彼女の姿を尻目に、作り終えている朝食を皿に盛っていく。
と言っても今し方に作ったと言えるのは卵二つ分の八切れ相当な卵焼きだけであり、白米は冷凍保存をレンジで解凍しただけであるし、お味噌汁に至ってはワカメと油揚げを追加投入して煮立てただけども。
地味だのショボいだのと言う苦情は受け付けない。そんなものは我が家の収入を見てからものを言え。見せんがな。
「あ、卵焼きっ」
「こら、つまみ食いしない」
いつの間にか背後から伸ばされた腕をおたまで叩き、お盆に乗せた二人分の朝食を使い古したちゃぶ台に運ぶ。
「よし、召し上がれ」
「いただきますっ!」
私の対面に敷いた座布団に座り、今か今かとその時を待っている姿はまるで小型犬のようで。案の定、許しを得るや否や八等分した卵焼きに箸を伸ばし、掻き込んだ白米をお味噌汁で流し込んでいる。
こうもがっついてくれると、作った側としては冥利に尽きると言うものだが。だが、
「危ないから。もう少しゆっくり食べて」
「ふぉい」
「食べながら返事しない」
まあ、このやり取りももはや何回したか分からない。何回したかは分からないということは、改善の兆しが一向に見えなかったと言うことである。それなりに遺憾。
「ししろんが食べな。元々そのつもりの配分だし」
「いいの?」
「うん。お仕事頑張って」
律儀に半分残された卵焼きのうち、一切れだけをお椀に取って、残りを彼女に促す。満面の笑みで頬張ってくれるその姿が見られるだけでも満腹になっちゃうし。
私自身が少食である、ということも多分に関係しているけれど、まあそれはそれ。
「ねぇししろん」
「ん?」
「そろそろ教えてくれてもよくない?」
「なにが? へそくり?」
違うわ。てかそんなん持ってたんか貴様。
「それも気になるけど、だいぶ気になるけど、そうじゃなくて。仕事、いつも何してるの」
「んー、まあそのうち分かるよ」
「またそれ。いっつも誤魔化す」
そう。行く宛もお金もなく、一欠片の希望すらないどん底から彼女に拾われて既にもうすぐ一年。そのおかげで、私はこうして人として暮らすことが出来てる。私たち以外に住人のいない、このトタンの壁に覆われた古ぼけた二階建てアパートの一室で。
出来ている。だが、
「ほんとに、そのうち分かるから」
いつもの余裕げな笑みを浮かべ、彼女は壁掛けしていた愛用のオーバーサイズのモノクロジャンパーを羽織り、ささっと寝巻きにしているホットパンツをよれよれのジーンズに穿き替え、着替えを済ませてしまう。
「じゃ、行ってくるね。夕方くらいには帰るから」
「ししろんっ!」
「ちゃんといい子にしてるんだよ」
そうして、手を振りながら家を出ていく彼女を見送って仕舞えば、一人部屋に取り残された私は心のうちに溜まったやりきれなさを溜め息と共に追い出す他ない。
その後、朝食に使った食器を洗い場に片し、二人分の食器を泡のついたスポンジで軽く擦りながら、先ほどのやり取りを頭に反芻させる。
獅白ぼたん。その苗字をなぞって、ししろん。職業不詳。
私より身長が頭一つは高い歳上の女性。やや癖のある白銀色の長髪を、切るのが面倒と伸ばし続けているくらいには物ぐさな性格。一年近くも同じ屋根の下で暮らしてみて、名前とそれ以上のことがいまだに分からない。
もちろん生活習慣に関した内面のことであればいくらでも愚ち……羅列出来る。
朝はとびっきり全力で起こさないと起きないし、食器洗いを任せれば器が次々に割れていくし、料理をさせてみれば何故か包丁でまな板を斬るし、洗濯を任せれば家の外に設置している洗濯機が泡を拭いて気絶していたこともある。
終いにはありとあらゆる使用済みのゴミがゴミ箱にシュートされているところは見たことがない。
せめてもの救いは、私を拾ったのとほぼ同時期にお酒をきっぱりやめたこと。初めて家に来た時は身体が心配になる程度には酒瓶が散乱していたけれど、私と生活を共にする上で断ち切ったらしい。
別に適量を守るならやめなくともいいとも言ったのだけど、
『ラミちゃんいるならいらない』
と、なんとも意味不明な解答が返ってきて以降、彼女は少なくとも私の見える範囲で酒を口にしていない。
それはそれとし、これで今までどうやって生活してきたのか気がかりでしかないのだけれど、まあ考えたって仕方がないことなのかもしれない。そのうち分かる、という彼女の言葉を信じる以外には。
もう一度小さなため息をつくと共に、私は敷いてある愛用の座布団に腰を下ろし、何となく窓の外を見つめる。
今は見慣れたこの灰色の街並みに、過去の記憶を重ねながら。
* * * *
今からおよそ三年ほど前。五年近く続いた世界大戦が収束した。世界全土を焼き尽くすかのようなその大戦の後、大規模な国内改革によってこの国は生まれ変わった。
血統による身分制度は廃止され、資本と能力が物を言う経済社会の到来は、多くの庶民の暮らしを豊かにした。
職業選択の自由、女性の社会進出、外国文化に関する国内流入の規制大幅緩和、建築技術や電子機器開発の急速成長。
目まぐるしく移り変わる街並み、次々に立ち並ぶ巨大ビルやその骨格。古き伝統を捨て去り、新たな道を進むこの国は、現在も様々なものを取り込み急成長を続けている。
だが、その発展によって全てを失った者たちもいる。それが、過去の時代に『貴族』と呼ばれた一部の富裕層。能力ではなく、生まれついた血統にこそ価値を見出し、既得権益で贅を尽くしていたものたち。
特に私の家系、雪花家は代々、戦時前の国内では数少ない国から諸外国との芸術品の売買が認可されていた家系だった。元から外海の血を引く雪花家にとって、ツテ、コネ、パイプ、と呼ばれるあらゆるコネクションを使い高価な芸術品を主流にした貿易を他国に広げることはさして難しいことではなかったようだ。
事実、私もほんの数年前までは俗に言う『富裕層』の一員だった。通う学校は貴族校と呼ばれるそれであったし、自宅である屋敷は巨大なシャンデリアをぶら下げ、大勢のメイドを召し抱える豪邸だった。
毎日毎日高級料理を食べ、由緒正しい学舎で勉学に励み、放課後は華道を含めた習い事をこなし、あったかいシャワーを浴びて、ふかふかのベッドで眠る。
けれど、そんな当たり前で豪勢な暮らしも、あの大戦が全てを変えた。
初めは何事もなかった。国が戦争を始めたらしい、なんて対岸の火事どころか目視すら出来ないほどに遠いところにいた。いたと、思っていた。変わらない学舎の風景、量の減らない豪華な食事、きちんと毎日洗濯のされた制服。変わらない当たり前が、いつもの日常が、私と戦争を分け隔てているかのようだった。
そして結果だけで言えば、私はそのまま戦争というものを知ることがないまま、世界は終戦を迎えた。もちろん疎開やそれに伴う引越しや転校はしたものの、一般階級の市民のような食料の配給に苦しんだり、軍需工場での労働にあてがわれた事もないし、本土空襲なんてものも体験していない。
いつものように学舎で勉学に励み、美味しい食事に舌鼓を打ち、別荘に帰ってベッドに眠る。
だが、そんな当たり前が崩れたのは、終戦から僅か半年の頃。
終戦後に設立された新政府が発表した新たな政策。より強く、より高く、国が発展していくための大規模な国内改革。
内容は多岐に渡るが、要約するとこれからはもっと外国と仲良くするよ、外国からの技術人員の流入に対する規制がとっても緩くなるよ、と言ったものだった。
そして、『階級制度は一切廃止する』。今後は血統ではなく個人の資本と実力で各々頑張ろう、と。
この改革に、当然貴族側は政府に猛反発した。だが、政府はこの反発には一切耳を貸さず、半ば強行的に政策を推し進め、結果的に私たちは『貴族』という特別切符を終戦から僅か半年で失った。
後から知った話だけど、新政府の役人はその多くが大戦時の軍のお偉方だったらしい。国民からの支持と、新しい自分たちの権益を作るために、手っ取り早く貴族からそれを取り上げたたのだろう。
閑話休題。
特権を失ってからの貴族は驚くほど脆かった。それまで待っていた土地の所有権は一つの貴族から後の不動産と呼ばれる者達や政府に移され、それに伴う税収を丸々国と国民に分配され、残ったのは大きいことが取り柄な屋敷のみ。
税収を資金源に他事業を行っていた家系はまだマシだが、そうでないとこは悲惨の限りだ。何せ今まで息を吸って吐くだけで手に入ってきた大金が塵一つ残さずなくなってしまったのだから。
しかも、これまで特権に物を言わせて周辺住民を踏みつけてきた貴族は少なくない。そのしっぺ返しを食らって、屋敷ごと焼き討ちにあったところだって多々あるに違いないし、それ以上だってあり得る。
無論私の雪花家も例外ではなかった。税収を止められたことに加え、これまで独占していた取引先が急激に相手を増やしたらしい。今までは雪花家からしか手に入らなかった絵画や美術品も、元の資金さえどうにかすれば極論誰からでも入手が可能になったことで、元々割高だった父の元から買おうとする物好きは存外多くなかった。
文化の大衆化、と言えばそれまでなのだが。
それでも、私の父は必死に食い下がったのだろう。目に見えて減少する取引、開拓初め故の値段の叩き合い、失った税収。そんな中でも私と母の生活水準を維持する為、また仕事の資金源とする為。
…父は、所謂『ヤミ金』、というものに手を出していた。
初めは何も変わらなかった。習い事がなくなったり、勉強の仕方が学校が通いから家庭教師になった程度で、豪勢な食事や綺麗な衣服はそのままだった。
異変に気づいたのは、そんな生活から一年が過ぎた頃。その日家庭教師は休みで、どうやって時間を潰そうかと部屋で手持ち無沙汰にしていた時、屋敷の呼び鈴が今までに聞いたことのないほどけたたましく鳴り響いた。何度も何度もスイッチが押され、扉の外からは男性数名が怒声を吐き散らかしていた。
それが借金の取り立てなのだということを、父の仕事は既に破綻寸前であることを、私は初めて知らされた。
そこからの変化は早かった。今までの遅々とした速度を取り戻すかのように劇的に、私の世界はあらゆる意味で悪い方向に変貌を遂げた。来る日も来る日も鳴り止まない呼び鈴と怒鳴り声。窓ガラスに投げ込まれる大きな石。私は何も出来ず、ただひたすらに母の胸に顔を埋めて泣き続けた。
そして最後には、私の屋敷にも同じように火がついた。それをしたのが借金取りなのか地元住人なのかは分からないけれど。燃え盛る屋敷、耳を叩く人の叫びや怒鳴り声。
そんななか、私は血と火傷でボロボロになった父と母に少量の貨幣とお札が入った小袋を渡された。
逃げろ、そして生きろ。たとえ今がどんなに苦しい瞬間だとしても。
そこから先は、まあ悲惨の一言だった。考えてもみてほしい、今まで身の回りの世話を家族と使用人に丸投げしていた貴族の小娘が、今から一人で生きてください。
ただし、家族と帰る家と食べ物と着替えはありません。そんな理不尽を叩き付けられて、二つ返事で首を縦に振れる方がおかしいに決まってる。
大切な両親との別れを嘆く暇もなく、私は唐突に地獄を一人で生き抜くことを強いられた。足が棒になるまで走って、必死になって頭を回した。
故郷の街にはいられない。私が貴族だと知られているこの街にいれば両親や級友たちの二の舞だ、なら出るしかない。列車の駅で、周りの客を観察して、見様見真似で切符を買って、その結果持たされた路銀はこの費用で殆どなくなった。
たどり着いたその街は、辛うじて街としての機能を維持している、そう思えるほどにはひどく荒廃していた。原型を保っている家屋は多くなく、道行く人の顔には精気なんてありはしない。配給された僅かなスープをすするその唇は、煤で汚れて真っ黒け。
人同士の殴り合いなんて当たり前、買った方が負けた方から一握りの米や食料を奪うその光景は、まさに人と人とが織りなす地獄の果て。地元警察なんて、呼んでもまったく来やしない。
【ギャングタウン】、なんて呼ばれるのも納得の有り様だった。
そんな街で、薄汚れたフードで顔と髪を隠して生活すること、およそ二週間。奇しくも治安の低迷や街の復旧が遅れていることが幸いし、この街は終戦から一年半も経過してなお、定期的に食べ物の配給と炊き出しを行っていた。
配給と配給の間は公園の水道水で飢えを凌ぎ、同じく髪と手足をその水で濯いだ。雨風は同じく公園のトンネル付きの滑り台の中でやり過ごし、炊き出しの日には汚れたフードで髪と顔を隠して食事に向かった。
でも、そんな街にもついに復興と開拓の手が回り始めた。大量の重機が瓦礫を転がし、大小様々な真新しい建物が建ち始めた。活気付く街並み、灯り出す大量の明かり、気づけば商業施設や飲食店のようなものが通りに並ぶようになり。
当然、不特定多数に向けた炊き出しや配給は順次停止された。というのも、復興に伴い街の雇用が大量に増加し、労働者にのみ向けた食料や衣服、住居の提供は行われたものの、まあ私には土台無理な話。
既得権益と親の支えのみを生活の柱にしてきた当時の私に、働くという選択そのものが存在しなかった。
そうして、遂に最後の配給が終わってから一週間が経過したその日。降り頻る雪と肌を刺す冷たい風、でも耐えられなかったのは、飢え。
具のない薄味のスープはとっくに消化されて、胃袋の中は空っぽ。持ち金は勿論ゼロ、物々交換に差し出せる対価なんて持ち合わせているわけがない。
盗む、という選択肢もなかった。他の街でどうかは知らないが、ことこの街でそんな間違いを犯したいとは思えない。随分とマシになったとはいえ、未だこの町の治安は見て分かる通りそこの底。警察による逮捕よりもその場での私的制裁の方が圧倒的に早い。
なら、漁るしかない。その他大勢が不要と捨てたその中身を。そうして、飢えに耐えかねた私は、寒さで真っ赤になった指先で路地裏に設置されたゴミ箱を必死に漁った。
そして――――
* * * *
「…さて、お買い物行かなきゃ」
あれから洗濯、布団干し、掃除を終え、家計簿をつけたり節約のため家庭菜園している野菜の面倒を見たりすること少し。遅めの昼食を終え、外出のために軽く外行用への着替えを済ます。ベージュのブラウスにブラウンのスカートをさっさと着て、買い物用の小さながま口を愛用している白いポーチへしまう。
過去に色々あった。そんなものはこの国に生きる誰だって誰だって抱えてるありふれた事情。そんな中でししろんに出会えたことは、私の人生いちばんの幸福だろう。
あの時、カビに塗れたパンの代わりに渡された苺ミルクと肉まんの味は、多分一生忘れられない。
まあ、その後の生活は推して知るべし、なんだけども。
差し当たって、とりあえず今日の晩ご飯と明日の朝ご飯を調達しないと。あのなんちゃってネコ科動物、夕餉に肉か魚がオカズにないと途端にヘソ曲げるんだから。
そう思い、いつも通り服の上から重ねた白い大きめのジャンパーのフードを被り、使い古した黒いスニーカーを履いて外に出る。
ししろんには、一応私の生い立ち諸々は話してある。曲がりなりにも収入的にお世話になっている相手なのだから、身の上を晒しておくのは最低限の義理と思ったから。そんな彼女からのアドバイスで、私は外に出かける際は必ず顔と髪を隠して行くようにしている。
当初は私も働くと言ったのだけど、
『やだ、危ないからダメ』
と、自由奔放の彼女にしては珍しい、割と強い口調で却下され以後も許しは降りていない。
「…まったく、ダラけてる癖に変なとこで心配性なんだから」
扉を開けて鍵を閉め、階段を下った先にある不必要に入り組んだ路地を抜け、隣接している商店街に出る。私たちのアパートは、比較的賑わっている商店街から二本ほど道を外れた場所に建っている。が、その二本を跨ぐのに幾度も幾度もせまい路地を曲がることを強要されるため、初見でアパートに辿り着ける人間はまずいない。
ししろん曰く、立地と道のりがあまりにチグハグだから、私達のような物好き以外は近づけないし住み着かない、とのこと。失敬な、私は別に物好きじゃない。
そんなこんなで少し長めの散歩を交えつつ、いつもお世話になっているお肉屋さんと八百屋さんで買い物を終え、それなりに体積を増した買い物袋引っ提げて帰路に着く。
「大人しくしろっ!!」
買った品物と、帰ってからやるべき作業を頭でイメージしていたところに響く怒号。見れば5人の警察官が、ボロ布のような服を着た一人の男性を取り押さえている。
「やぁね、またらしいわよ」
「ほんと懲りないわねぇ」
通り過ぎようとした隣の主婦らしき二人が、取り押さえられている男性に蔑視の視線を向けながらそう言っている。
「
「役目なんてとっくに終わってるのに、まだいるのねああいうの。早くいなくなればいいのに」
…退役軍人。かつて大戦の折、戦地で祖国のために命懸けで戦いをして、生き残った人たち。戦地から命辛々生き延び軍から退いた彼らは、今の世の中では退役軍人と呼ばれ人々から蔑まれている。
戦後PTSD、またの名を戦後トラウマ。戦地でのあまりの悲惨な経験が記憶の奥底にまでこびりつき、日常生活に支障をきたすまでになってしまった人たち。何となく聞いた話では、幻聴や感覚障害、異常なまでの精神の起伏など、症状は様々。
けれど総じて、彼らは新しい国の進歩に適応することは叶わなかった。何をしていても戦地でのトラウマが脳裏をよぎり続ける彼らにとって、普通に働く、ということはあまりに難しかったらしい。
結果、命をかけて守ったはずの国からも市民からも見捨てられ、家無しや盗人、果ては思想派テロリスト集団など真っ当でない道行を強いられ、時折間違いを犯してはこうして警察に取り押されられ市民の非難の的にされている。
なまじ地獄のような戦地を生き抜いた経験からか、並みの警官一人二人では裕に返り討ちに会う為、彼らを取り押される時は決まって警察官は五人以上でようやく命懸けのリスクから離れられるらしい。
己の全てを賭けて守ったはずの国や人々からそんな扱いを受ける彼らは、一体何のために戦ったのだろうか。家族、恋人、友人、それらを守れたのか、そうでなかったのか。
必死の思いで生きて帰ってきたその先で、守ったはずの人々に石を投げられる。…なら、彼らは一体何のために命を懸けて戦地を駆けたのだろう。
なんて、薄らとそんなことを思いながら、取り押さえられて連行されていく一人の退役軍人を尻目に、私は再び足を動かす。
立ち並ぶ店と店の合間に出来た通路に入り、入り組んだ路地を何回も曲がり、見えてくるのはトタンの壁に覆われた二階建ての古ぼけたアパート。その二階にある自室を見上げたところで、異変に気が付いた。
「…だれ?」
アパートの、しかも私たちの部屋の扉の前に陣取る二名の男性。高くもなく安くもないスーツを着た男性とチンピラ数のファッションをした二人組なんて私の顔見知りリストには存在しない。
「…どちら様ですか?」
罷り間違っても日向を堂々と歩けるような人種には見えなかった。仮に大家さんなどと言われたならば、帰宅後マッハでししろんをどつかなきゃならなくなる。
そんなことを思いながら、警戒心をこれでもかと露わにしながら、我が家の扉の前に陣取る柄の悪い二人組に声をかける。
「…おい」
「うす、間違いねぇっ、この女っす」
スーツを着た男性が低い声で尋ねると、チンピラ風の男性は不躾な視線で私を頭のてっぺんから爪先まで舐め回すように見、胸ポケットから取り出したメモと見比べてるようにしてからそう返した。
……ほんとにだれ、この人たち。
「えっと…雪花、ラミィさん、だよね?」
「…そうですけど」
口調は優しいけど、声音と目が笑ってない。まるで獲物を追い詰める蛇のような、底知れない寒気を必死に押し殺して、目の前に立つ男性を睨み返す。
「初めまして、GM金融の木元と言います。早速ですがこの名前、見覚えあるよね?」
「…?」
そう言うと木元と名乗った男性は脇に抱えていた紙封筒から一枚の紙を取り出して、そこのある一点を指差した。
「…なっ…!?」
見覚えがあるか。視界に入れたその名をみた瞬間、私はこの男達が何者なのか、何のようで私の前に立っているのか、即座に理解した。理解させられた。
「…お父、さん…」
「そう、君のお父さん。これはそのお父さんが、とある街金からお金を借りていたことを証明する借用書」
「あ、あなたたち――」
借金取り。私の家族を滅茶苦茶にした闇金の――
「ああ、僕らが貸したわけじゃない。でも債権はウチが買ったから。……まあつまり、この借金はウチに払ってもらうってこと。期限は伸ばしといたけど、金利が十日で三割つくからね、早くしないと後が辛いよ」
「ちょ―」
滅茶苦茶だ。大体こんな、こんな金額、
「払えるわけないでしょっ!! そもそもこれは――」
「お父さんの借金だから関係ない、とでも言うつもり?」
当たり前だ。いきなりやってきて債権を買っただの金を寄越せだの、何の権利があって――
「ああっ!? 貸した金返せ言うとるだけやろがい、さっさと――」
「おいっ!!」
私の言葉で頭に血が登ったのか、チンピラ風の男が怒鳴り声を上げた途端、木元の短い怒声がそれを一瞬で押さえ付ける。すいません、と縮こまる男性には一瞥もくれず、スーツの男性はまるでこうなることがわかっていた…いや事実そうなんだろう。借用書を締まっていた封筒から新たにもう一枚紙を出すと、それを同じように私に見せてくる。
「大丈夫、何もすぐに一括で返せとは言わない。ただ今のままじゃとても返済の目処があるようにも思えない。…だからね、こちらで既に返済の手段を用意してある。君には明日からここで働いてもらい、その給金の一部を借金返済に当ててもらう、簡単な話だろ?」
……ふざけるな。男性がご丁寧にも用意したとか言う働き先は、
この街に住んでいれば子供だって分かる、そんなところで働かされた女性がどんな目に遭い、どんな末路を迎えるかなんて。仮にこんなところで返済労働なんてしようものなら、完済する頃には私の何もかもが破滅しているに違いない。
尊厳も自由もない、ただひたすらに心と身体と金を搾取され続ける終わりのない地獄が待っているだけ。この男達は間違いなくその道のプロだ。あの手この手で人を追い込み、漬け込み、最後にはその人生を食い物にして金を稼ぐ。
警察に突き出してやる。何が父の借金だ、債権だ、表沙汰になって困るのはそっちなんだから。
「長々と無駄なご説明どうも。話は終わりですか? ではお引き取りください。私には一才関係ありませんので」
でも、渡された封筒を押し付け返し、部屋に戻ろうとしたその時――
「同居している女性、綺麗ですよね」
ごく自然な声音で、さらりと言われた。でもそこから入ってくる情報や言葉の意味を処理している私の脳はそうじゃない。
扉を開けようとした手が、ピタリの止まった。
「なんで…」
「もし仮に、あなたが返済を拒否した場合…あなたの大事な同居人の彼女は、不幸な目に遭うかも知れない。もちろん普通の不幸じゃない、
……見開いた目が塞がらなかった。震えと寒気でどうにかなってしまいそうだった。ししろんが、
そんな最悪の未来が頭をよぎった時、私の手はドアノブではなく木元のスーツに縋り付いていた。手から滑り落ちた買い物袋が落ちた拍子に崩れて中身が散らばる。
「…お、お願い。ししろんには…彼女には手を出さないで…」
「じゃあ、どうすればいいか…分かるよね?」
「………………」
言葉が出なかった。さっきまであれだけ強気でいられたのに、ししろんの名前を出されただけで、たったそれだけで、私は悪意から身を守る術を全て失った。
「あぐっ!?」
返す言葉にあぐねっていると、髪を引っ張られて無理やり顔を上げさせられた。そこにあったのは、理知的な雰囲気を捨て、ぐちゃりと顔を歪ませた木元の顔があった。
「バカが。端から逃げ道なんざねぇんだよ、さっさと頷いときゃいいのによ」
「い、いたい…っ!」
「言っとくが働き口は住み込みだからな。今日の夜に荷物まとめてうちの会社まで来い。住所は封筒に書いてある」
「そ、そんな――」
聞いてない。そう言おうとした瞬間、まるで壁に向かって投げ捨てるかのように手を離され、私の身体は背中から壁に叩きつけられる。そして痛みと衝撃で立ち上がれない私の頭を踏みつけながら、男は続けた。
「だぁからぁ!! テメェは黙って頷いときゃいいんだよ、借りた金返すだけじゃねぇか、当たり前の話だろ? なに、お前くらい見てくれが良きゃ初日からたくさん客が取れるさ。……そんで五年も働き続けりゃ完済できる、頑張って稼いでこいよ、
その後、会社の人間が見張ってるから絶対に逃げられない、変な希望は捨てろ。そう告げて封筒を放ると、男二人は下卑た笑い声を上げながら去っていく。
後に残されたのは、屍のように壁にもたれたままの私だけ。ご丁寧にも、書かれていると言われた向こうの住所が記された裏向きの封筒が真っ先に目についた。
気づけば日が徐々に傾き、太陽が赤みを帯び始めていた。
黄昏色の光を浴びる商店街の街並みが、やけに綺麗に思えた。
* * * *
「ただいまー」
呆然としながらも夕食の準備をすること、およそ一時間。同居人であり、家主でもある彼女が帰ってきた。
「おかえり、ししろん」
「いぇいいぇーい。え、うそ鮭じゃんっ」
フライパンの上で色味をつけているそれを見つけると、空腹なのだろうライオンが目を輝かせる。そんな彼女の姿に、思わず頬が緩むのを感じる。
「安かったから。お風呂入って来て、出てくる頃に出来る」
「あいよー」
しゃけ、しゃけ、とスキップでもするように脱衣所に向かう彼女が視界から消えた時、浮かんだ涙を指で拭う。
本当は鮭、安くなかった。でもこれでご飯作ってあげられるのが最後と思うと、少しばかり奮発したくなって。ちょっとずつ貯めててた貯金を崩して多めに買ってみた。あの反応を見るに喜んでくれたようで何より。
残ったお金は見えやすい場所に置いておいて、そのままししろんに使ってもらおう。
その後、脱衣所からスッポンポンで出てきた腹ペコライオンに寝巻きをぶん投げ、待ち侘びたと言わんばかりに白米、味噌汁、和え物、そしてメインの焼き鮭を満面の笑顔でかき込む彼女を見守り、無事に夕食は終了。
洗い物をする私に彼女がちょっかいをかけてきて、私が軽くあしらう。お風呂から上がった矢先に繰り出されるセクハラは、必殺のデコピンで撃退満了。
そしてさっき食べたばかりだと言うのに、今から明日の朝食のメニューを気にする彼女に呆れ交じりの一言二言を返し、布団に入り消灯。やいのやいのと騒いでいたのが嘘のように、布団に入ってものの数分で隣の布団からは穏やかな寝息が聞こえてくる。
いつものやり取り、いつもの日常。そして、私にとって最後の当たり前。
「………………」
隣で眠る彼女を起こさないよう、音を立てないようにして布団から起き上がり、寝巻きとして使用していたダボダボのTシャツから、白いブラウスと黒い無地のスカートに着替えを終える。
元々持っていく荷物なんてない、強いて言うなら渡された封筒とその中身くらい。……これから先、どうせ真っ当な人間としては生きられない。服だろうがお金だろうが、持っていく必要なんてないだろう。
「すぅ……ひゅぅ……」
「…………」
真っ暗の中、差し込んだ月明かりと僅かに入り込んだ街灯に照らされた部屋で、私は彼女の枕元に膝を下ろす。
そして、眠る彼女を起こさぬよう、そっとその長い銀髪に触れる。ちょっと癖があって、朝起きると大体爆発してるこの髪も今は眠る主人に合わせておとなしい。髪からほんの僅かな振動が伝わってきて、触れているだけで胸の内がポカポカしてくる。
「ししろん……」
終戦後のドタバタで、家も故郷も家族も、何もかも失って。絶望のドン底で腐り果てているところを彼女に救われて、もう直ぐ一年。叶うならもう一度一緒に冬を迎えたかったけれど、シンデレラの魔法は今日で期限切れらしい。
とっくに終わったと思ったあの瞬間から、彼女のおかげで今日の今日まで生きられた。偶然拾ったにしては、素敵すぎるおまけの人生だった。
警戒心丸出しで、何をするにもビックビクだった私を、彼女は嫌な顔ひとつせずに面倒を見てくれた。住む場所を、食べるものを、服を、生きていくために必要な全てを、私は彼女から与えられた。
……何より、大切な誰かのために何かをすることの素晴らしさを、暖かさを教えてくれた。
初めて作った焼き魚は、見るも無惨に焼け焦げた。それでも彼女は、心の底から楽しそうに笑って食べてくれた。
わからんわからんと、やっすく買い叩いたオンボロ洗濯機を二人してあーだこーだと言いながら初めて回せた時は、こんなしょーもないことでハイタッチした。
いってらっしゃい、おかえり。それを言える当たり前な特別を、彼女は私に与えてくれた。
……なら、最後くらいは、私がそれを守る番だと言われても仕方がない。
「ご飯、ちゃんと食べてね。コンビニ弁当ばっかり食べたら身体に悪いよ」
あと、ゴミ捨て苦手だしね、あなた。
「洗濯機と喧嘩しちゃダメだよ。ちゃんと洗剤の容量は見てから入れてね」
うちの洗濯機、古いんだからすぐに壊れちゃうよ。
「髪、ちゃんと手入れしてね。…ししろんの綺麗な銀髪、私大好きだもん」
あと、ちゃんと乾かすこと。癖っ毛だからすぐに爆発しちゃうよ。
それから、それから。
「……ししろん……あのね、あのね…っ」
まだまだ、伝えたいことは沢山あるはずなのに。言葉にならない気持ちは、涙に変わり私の頬を濡らした。
「今までありがとう。私を見つけてくれて、私を救ってくれて。………私、幸せだったよ…」
さよなら、私の……大切な人。
* * * *
「よう、ちゃんと来たなラミィ、ちゃん?」
部屋を出た私を待っていたのは、昼間にいたチンピラ風の男性と、似たような格好をした知らないもう一人。そして黒いミニバンタイプの自動車。
それに乗せられること十分少々。低めのビルが雑多に並ぶ小規模のビル街の一角に、彼らの会社があった。10人分程度の少ないデスクと数台の雀卓。おそらくは後者の方が使用頻度は上だと思う。
「なんだ、女の癖に手ぶらかよ。着替えとか持ってきてねぇのか? 残念だな、しっかりと見聞してやろうと思ってたのによ」
「………………」
昼間に私の元に来たスーツの男性がそう言うと、小さな社内で汚い笑いがどっと巻き起こる。
「…それで。私は何をすればいいの」
こんな奴らと話なんてしたくない。さっさと本題に入れ。恐怖に震える心と身体を誤魔化して、精一杯の虚勢を張って男を見据える。
「おお、やる気だねぇ。ヤケクソか、それとも…
「……っ……」
「まあいいさ。朝イチで働き口に連れてってやる、それまで適当にしてろ、ソファで寝ててもいいぜ。寝てる間の安全は、保障しかねるけどな」
……言われなくても、分かってる。社内の人間は目の前のこいつ含めて五人、その全員の視線が、私の女性としての特徴が現れる部位に注がれている。こんなところで眠ったが最後、あっという間に食い散らかされるに決まってる。
…まあ、今となっては遅いか早いかの違いでしかないけれど。
「ダメですぜ社長。向こうからの約束がありますから」
「あーそういやあったなめんどくせー条件が」
……条件? て言うかこいつが社長だったんだ。
「元貴族の若い女で、手付かず品。まっこと、金持ちの変態どもの拘りは止まることをしらねぇな、呆れを越して尊敬するぜまったく」
「でもその分払いはいいから下手なことは言えない。いやー、お仕事してますね社長」
「言ってろ」
……反吐が出るような会話だった。私のように生活能力を失って、借金のかたにそう言った場所に放り込まれた貴族がきっと何人もいるのだろう。
法外な利子で金を貸付け、払えないと分かればそう言った店に借金漬けにした女を売る。それが彼らのビジネスなんだろう。……私の家のように、金策に苦しんでいる元貴族は、さぞいいカモだったのだろう。
無知で金もなく、けれど見てくれのいい女は抱えている。彼らからしたら格好の獲物だ。
「まあでも、別に全く手をつけちゃいけないわけでもないだろ」
「と言うと?」
「要は傷モノになってなけりゃいいんだ。遊び方さえ考えりゃ…少しくらいつまみ食いしても問題ねぇよって」
「っ!?」
その言葉が終わるや否や、近くに立っていた男がいきなり私を羽交締めに拘束する。スーツを着ているところは社長と同じだが、体格が違いすぎる。丸太のような腕や分厚い胸筋を見るに、社員兼荒事担当なのだろう。
「ちょ、ちょっとっ!! 何すんのよっ!!」
「そう暴れんなよ、少し遊ぶだけだ。予行練習だよ、仕事の」
そう言って社長と呼ばれた男は、身動きの取れない私の顎を掴むと、鼻と鼻がくっつきそうなほどに顔を近づけてくる。込み上げる嫌悪感と不快感に耐えながら、必死に手を振り解こうともがくものの、成人をとっくに超えた男性二人の力に、女の私が勝てるわけもなく。
「いやっ!!」
「明日から本格的に使うんだ、慣らし運転は必要だろ、なぁ?」
それでも、渾身の力を込めて顎を横に振り抜いて、男の手を振り払う。
「っ!? てめぇ舐めてんじゃねぇぞっ」
「うあ……っ!?」
そんな私の態度が気に障ったんだろう、動けない私の横っ面に強烈な平手打ちが撃ち込まれる。普通なら衝撃で倒れ込むところだけれど、羽交締めにされてる今の私は殴られてもすぐに元の姿勢に無理やり戻される。
頬に感じる痛みと熱が、逆に私の中の熱を奪っていくような、そんな感覚を覚える。
「自分の立場分かってんのか? もうお前らは俺らの玩具、道具なんだよ。物が人間に逆らうんじゃねぇ、この場で犯すぞ」
「……………………」
……分かっていたことだ。どのみち、この先私は人としては生きられない。死ぬまで金を稼ぐ道具としてこき使われて、ボロ雑巾のように捨てられる。
それが分かった上で、私はここに来た。来たはずだ。私がここに来さえすれば、ししろんだけは守れる。私に二度目の人生をくれた、彼女だけは――ん、
「…お前、ら?」
今し方聞いた男の言葉が複数形だったことに気がついた私は、恐る恐るその言葉を反芻した。お前、ら? 私の他に、借金漬けにされて連れて来れられた女の子がいるのだろうか。
なんて、わけがない。
「いやー、友情っていいよなぁ。美しいよなぁ……」
……やめて、やめて。一縷の希望を込めて見つめる私の前には、醜いほどに顔を歪めた男がいた。
もし、この世に悪魔と呼ばれる者がいるのなら。きっとこう言う顔をしているに違いない。
「ラミィ、お前も寂しいだろ? だから連れてきてやるよ、お前の大事な……同居人」
「やめてっ!! ししろんには手を出さないでっ!!」
嫌だ、そんなのっ!! だったら、なら私はなんのために――――
「約束が違うっ!! 私が言うこと聞けばししろんには――」
「あ? してないだろそんな約束。不幸な目に遭うかもしれない、としか言ってねぇよ」
「そんなのっ!!」
「うるせぇっ!!」
怒声とともに、さっきとは別側の頬が殴られる。けれど、口の中に広がる不快な鉄の味や痛みよりも、突きつけられた言葉と事実の方がよっぽど痛い。
「……なんで……なんでよ……っ」
「大人しくしとけよ。車を向かわしてある。もうじきつく頃だ」
……結局、全部無駄だったんだ。最初から彼らは約束なんて守るつもりなんかなくて、私と彼女を自分たちの道具にするためにこの一連の茶番を仕込んだんだ。
ここは通称『ギャングタウン』。マシになったとは言え、今でも治安は国内最底辺、違法風俗店なんて叩けばいくらでも出てくるし、女の売り付け先には困らない。
「社長、車戻ってきました」
「おお、早い早い。やっぱ女が絡むとよく働くなお前らは」
「そりゃまあ。何せ向こうの銀髪は遊んでからでもいいんすよね? 好みなんすよ、ああいう背丈高くて良い身体してる女」
「まあな、でも壊すなよ。いくら見た目が良くてもイカれてたら売れねぇぞ」
「その辺は俺らもわかってますって」
……なんだろう、コイツらは。なんでこんなことが平気でできるんだろう。人の人生踏み躙って、心を蔑ろにして、それで得た金を使って飯を食って嗤ってる。
私達が何をしたと言うんだろう。ただ生きていただけなのに。なのに、私たちのような弱いものは食い物にされて、それを強いたやつらは甘い汁を吸って肥太ってる。
私はただ、生きていたかっただけなのに。大好きな人と、一緒にいたかっただけなのに。両親も、命を救ってくれた恩人さえも、私は守れない。
呆然とする私の耳が、階段を登ってくる足音を拾い上げる。おそらくししろんを拉致して帰ってきた男のものだろう。
「……めん…し……ん」
……何もできなくて、ごめんなさい。足音が近づいてくる、周りの連中は、極上のおもちゃの到着を今か今かと待ち侘びている。両脚の間の盛り上がったそれが、彼らの興奮度合いを雄弁に物語っていた。
「……んね……ろん」
それの餌食になるため、もうじき彼女はここに連れて来られる。最悪の再会を前に、私の歯が無意識に舌を挟む。
そうして、訪れる未来を前に、私は歯に挟んだそれを思いっきり噛み潰すために力を込める。
…ごめんなさい、本当にごめんなさい。……しし――――
「おう、帰っ――――あ?」
だが、それをしようとした刹那。辛うじて首を動かして見た光景が、私の最後の最後を押し留めた。オフィスに入ってきたのは二人の男性だ。どちらも鍛え抜いた胸筋やがっしりとした両腕を備えていて、荒事に慣れているのだろうことは容易に想像出来た。
が。
「おいどうしたっ!?」
「あ……う……」
二人の男性は、有り体に言って虫の息だった。堀の深い顔面は真新しい血でベトベトに染められ、鼻骨は間違いなく折れているか砕けている。見える前歯はへし折られ、眼球は痛みからか白目を剥いていてとてもこちらが見えているようには思えない。
腕はスーツ越しからも分かる通り血が滲んでいて、両名とも肘がおかしな方に曲がっている。
やがて限界を迎えたのか、二人の男性は糸が切れたようにその場に前のめりで倒れ込み、それきり動かなくなる。そして、背丈ゆえに二人の後ろに隠れる形になっていたその人物の姿が顕になった時、私は間違いなく今日一番の衝撃を味わうことになる。
何せそこにいたのは――――
「あ、いたいた。ダメじゃん急にいなくなったらさ」
「……しし、ろん―?」
やや乱れ気味な銀の長髪と、女性にしては高めの背丈。よれた白いTシャツと黒いデニム生地のショートパンツの上に重ねた、オーバーサイズのモノクロカラーのジャンパー。
何より。場の雰囲気に一切そぐわない、楽観的な声音といつもの笑顔。まるでコンビニに寄るかのような軽やかに、彼女は羽交締めにされる私の元へ歩いてくる。
「な、なんだてめぇっ!!」
あまりの異質さに、社長がそう怒鳴り声をあげ、社員たちが狼狽える。
が、そんなものは全く気にすることもなく彼女はジャンパーのポケットに両手を入れたまま、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
そして、
「ラミちゃん、そのままね」
「え――」
一瞬、呟いたと同時に私の頭上を遠心力を乗せたししろんの白いスニーカーを履いた踵が風切りが如く凄まじい速度で通過した。直後に骨や歯が砕ける音がしたのも束の間、彼女は左手で私の肩を引き寄せつつ右手で蹴り潰した男の顔を持ち、自身の右脚で男の両脚をかけて地面に引き倒し、トドメとばかりに顔面を踏み潰す。
あまりの光景に、私を含めた全員が絶句して立ち尽くしす。何せこれからおもちゃにする、されるであろう女性が、一瞬でガタイのいい大の男を素手で叩きのめしたのだから。
そんな私たちの驚きなぞなんのその、当の本人は片手で肩を抱いた私の顔をすいっと覗き込んでくる。整った顔立ちと髪とは似て非なる深い灰色の瞳が、至近距離から私を見つめてくる。
「……ごめん、ちょっと遅かったね」
「え、あ、いや」
悲しそうに私の頬に触れる彼女には申し訳ないが、絶賛状況にも光景にもテンパっててそれどころじゃない。
「こ、この女――」
私たちから一番近くにいた男が、スーツの懐に手を入れ、直後に部屋内に強烈な破裂音が鳴り響く。…おそらくはこれが銃声、と言うものなのだろう。
「あっ、がぁぁぁぁぁぅっ!?」
だが痛みにのたうち回っているのは、他でもない銃を懐から取り出そうとしていた男だった。血の滲む太腿を両手で押さえながら床を転げ回っている。
そして、
「遅いよ」
いつのまにか、銃口から硝煙を漂わせる拳銃を右手で弄んでいるししろんが、聞いたこともないほど低い声で吐き捨てるように言う。
「銃っていうのは、銃口を向けて引き金を引くことで初めて意味をなす暴力装置。取り巻きのされてからようやく懐に手を突っ込んでるようじゃ、君らこっちはてんで素人だね」
…今し方、ししろんは銃を抜こうとした男に一瞬で肉迫し、抜かれる前に銃を奪い取ってそのまま男の左太腿に向けて引き金を引いた。一切の躊躇いも躊躇もなく、流れるように行われたその一連の動作は、彼女のいう素人以下の私の目からしても尋常じゃない。
無論、私の思っていることは向こうさんだって思っている。さっきまでとは打って変わり、額に冷や汗を浮かべた社長が、今私たちの目の前で転げ回っている男と同じように懐へ手を入れながらそう尋ねる。
「テメェ…なにもんだ。どっかからの差金だ」
「どこからでもないし、名乗るほどの何かでもない。…ただ、君らみたいなチンピラよりは、
これ、と言って彼女の言葉が指すのは、今し方奪い取った拳銃のことだろう。引き金を囲む輪に指を引っ掛けてクルクルと回す姿は、確かに慣れていると思わざるを得ない。
「……お前、
「自主退職した覚えはないんだけどね、いつの間にかクビになってたわ。退職金ももらい損ねたし、いやー世の中世知辛いったりゃありゃしない」
…ししろんが、
空いた口が塞がらない、とはこのことだろうか。次から次へと爆弾を落とし続けるししろんだけれど、当の本人はなんのその。右手の人差し指を引っ掛けたままの銃をクルクルと回して弄んでいる。
そんな彼女の先には、デスクを挟んで社長を含めて社員が四人。全員が腰の後ろやジャケットの胸ポケットに手を入れながら固唾を飲んでいる。おそらくそこに銃をしまっているのだろうけど――。
「やめときな」
「っ!?」
私からは彼女の背中とそれを覆い隠す白銀色の長髪しか見えないけれど、彼女が今どんな顔をしているかは見なくともわかる。
彼女を前にしている、青褪めた顔をした男達を見れば、容易に。
「お前らのうち誰か一人が銃を抜くより、あたしがお前ら全員の頭を撃ち抜く方が早い。無駄死にしたくなかったらいい子にしてろ」
彼女の言をハッタリと言う者は、すでにこの場には一人もいなかった。彼女の足下で今も痛みに悶えている男と、彼女自らが語った過去。
退役軍人、弾丸や砲弾が当たり前のように飛び交う苛烈な戦地を生き延びた彼女にとって、銃もまともに抜けないチンピラなんてあまりにチンケに違いない。
「あたしからの要望は一つ、二度とあたしらに関わらないこと。それさえ守ってくれればあたしはこのまま何もせずにラミちゃんと帰る」
「断る、と言ったら?」
「殺す。今すぐ」
淡々と、平然と。一切声音を変えることなく彼女はその一言を言い切った。チンピラの脅し文句でもなければ冗談でもない。本当に今すぐ、彼女は引き金にかけている人差し指を引くのだろう。
ただ自分の要望を聞かないのならそうする、当たり前のようにそれを実行する。
「…………」
「社員皆殺しになってしょーもない倒産するよりかは、賢い選択じゃないかな、社長さん」
柔らかい声音のまま、ししろんが銃口をむけ続けること数秒。長いようで実際には短い沈黙を破ったのは木元の方。
「……わかった。今後俺たちはお前らには一切関わらない」
「で、あたしたちはこのまま回れ右でお家に帰る。取引成立、ありがとね」
そして。帰ろ、とししろんに手を引かれ、状況を飲み込む間もなく事務所の扉に潜ろうとした時。顔を冷や汗でべっとりと濡らした木元が声をかけてきた。
「おい、女」
「ん?」
まだ若干震える呼び声に、やっぱり彼女はいつもと変わらない雰囲気のまま首だけを彼に向ける。
「…俺は、戦争中はずっと後方で弾込めをしてた。前があったんでな、刑務作業の代わりに軍の雑用をやらされてたわけだ。だから前線でドンぱちしたことはねぇしそっちの都合には明るくない」
「…………」
「でもな、そんな雑兵以下の木っ端である俺たちにですら知ってる、とある
……伝説?
「最強の兵士。白兵戦では素手でですら敵をぶっ殺し、射撃に関しちゃ何使っても神技レベルの早撃ち乱れ撃ち。装甲車に乗りゃ榴弾で吹き飛ばすわ轢き殺すわでやりたい放題。……が、上の指示なんぞガン無視は当たり前、敵だろうが味方だろうが、自分の邪魔をする奴は須く皆殺し」
「…………」
「誰の言うことも聞かず、制御も受けない。絶対孤高の暴力……
…白、獅子…。
「女、お前――」
「その女軍人は、敵も味方も皆殺しにしたんでしょ?」
男の声を遮るように、件の彼女は変わらず薄い微笑みを浮かべたまま声を発する。
「じゃあ人違いだよ。――だって君ら、生きてるじゃん」
「………そうかよ」
「そうだよ。んじゃ、お邪魔しました」
そしてそれ以上は何も言うことはなく。私は彼女に手を引かれるまま事務所を後にした。背中越しに、恐怖に満ち足りた視線を感じながら。
* * * *
「……ふぅ……っ」
「おい、誰かこいつらの手当てしてやれ」
「へ、へい」
太腿を撃ち抜かれ未だ苦悶の声を上げ続けている部下と、ここにきた時には既に虫の息だった二人の手当てを指示しつつ、懐から飛び出した煙草に火をつけ一呼吸。先程まで感じていた鉛のように重たい恐怖を、煙と共に吐き出していく。
「社長」
部下に手渡されたタオルで顔を拭うと、冷や汗でぐしょぐしょになっていた顔が幾分かすっきりした。
「……社長、よかったんですか?」
なにを、と聞く必要はないだろう。あの少女…ラミィの納品の話だ。相手がそれなりにVIPなため、キャンセルはこちらにとって相応の痛手になる。金銭的にも、信頼的にも、暫くは楽をできなくなるだろう。
「いい。……あれはやめとけ、こっちが総出で行っても無理だ」
「そんなにやばい相手なんですか? 一斉にチャカ吹かせば――」
「その前に、こっちが全員あの世行きだ」
短くなった煙草を灰皿に押し当てながら、男は吐き捨てるように部下に言い放つ。
「今俺たちが生きてるのは、こっちがそれをしなかったからだ。もし俺たちのうち、誰か一人でも吹かしてたら…ここに全員分の死体が転がってたろうよ」
先程相対した、あの白銀色の髪をした女。口ぶりからするに正規の軍属を得ていた退役軍人。荒事慣れした部下二人をああも一方的に叩き潰し、無手から銃を奪い取って制圧する熟練の軍隊式格闘。
そして何より、突きつけられた銃口から発せられる鋭い殺意。
一介の闇金業者が相手に出来るものでは到底ない。こちらはあくまで商売が本業、ドンぱちはあくまで脅しの手段の一つであり、命の張り合いに精を出す必要はない。
「今後一切、あの女には手を出すな。あんなの相手にしてたら命が幾つあっても足りねぇよ」
「わかりました」
やや不服そうではあるものの、一応の納得はしたらしい部下はそれきり口を噤む。
「ったく、下調べくらいしろってんだ。次から本命だけじゃなくて周りの調査も怠るなよ」
二本目の煙草に火をつけつつ、彼はぼやくように社内に言い放つ。女一人売る計画が、危うく三途の川横断ツアーになるところだった。
だが、不満まじりの彼の言葉に対する部下たちの反応は、首肯でも返事でもない、別の言葉だった。
「何言ってんすか、あの女の家調べたの社長じゃないすか」
「なに?」
半日前、ともにラミィの家へ赴いたチンピラ風の部下がキョトンとした顔でそう言う。
「何言ってんだ、俺は住所と売りもんの父親の名前と借金の話を聞いて攫いに行ったんだぞ」
そう。彼が少女にこれ見よがしに突き付けたあの借用書は真っ赤な偽物だ。少女が元貴族の娘と知らされ、ついでに父親の実名と借金のアレやこれを聞き、今回の計画を実行した。
借用書は単なるフェイクであり、少女の身柄を円滑に確保する手段として用いたに過ぎない。結果的に効果は覿面だったものの、それもこれも全て事前情報があったからだ。
「おい。今日のこと、お前ら誰に聞いた」
「だから社長の指示――」
「そうじゃねぇっ、俺からの指示だって、
すると、部下達は互いが互いに指を差し始めた。だが不思議なことに自身を指差す者だけはおらず、代わりに倒れて未だ気絶したままの二人を指す指があった。
「そういや、父親の実名やら借金の過去やらを俺に教えたのはお前だったな」
「は、はい。でも自分は、社長の指示だと言われて借用書を偽造しました。……そこの二人に、言われて…」
傍にいる部下も、何か異変に気づいたように声と表情が徐々に曇っていき、そうして全員の視線は自ずと未だ意識のない二人へ集まっていく。冷静に考えれば、彼ら二人が社長である自身の指示だと仲間に嘘をついていたことになる。
だが、ならなぜそんな嘘をつく必要があったのか。嘘の中身があまりに正確過ぎ――
「おい、待てよ――」
そもそも、この二人はいつこんな目に遭ったのだろう。先程までの様子から察するに、彼ら二人はあの元軍人女に抵抗する術なく叩き潰されたのだろう。力量差を察すればそれは分かる。
問題は、それを彼女がしたのはいつなのか。明らかに意識明瞭なままここに辿り着いているあたり、睡眠薬等で眠されていたわけではないだろう。
なら、少なくとも二人が女の元を訪れ、ここに連れてくるまでの間。彼らは何をしていたのか、あの女が大人しく捕まったフリをしたとは到底考えにくい。仮にそうだとしたら、手足を縛るなり猿轡をするなり、多少なりとも無理やり攫われた後が残る、少なくとも自分だったらそうする
だが、彼女の身体にはそれらしき痕跡は微塵も見当たらなかった。
…つまり、彼女は一才の拘束行為を受けることなくここまでやってきたことになる。仮に彼女が自宅で二人を半殺しにし、自分でこちらの車を運転しここまできたとして、ここまで徹底的に体を壊した上で事務所に運んでくる意味がない。始末するのが面倒だったとして、車の中に捨てておけば事足りる。
……仮に、仮に、だ。彼ら二人が、事務所のすぐ下、それこそ車を降りた直後に襲われたとしたら。一切の拘束をせずに連れてきた彼女に、まさにそこで蹂躙されたとしたならば。
「…まさか、あの女――」
そう、彼が思い至った瞬間。事務所の扉がゆっくりと開かれる。
「あ、だれ―」
バンっとという音とともに、扉の付近で倒れた二人に止血を施していた部下の眉間に真っ赤な風穴が開いた。
「テメ――」
その状況を見て、反射的に銃を抜こうとした部下の眉間が、次の瞬間には同じように血の空洞を開ける。続け様に放たれた数発の銃弾、例えそれを扱う訓練を受けた者がしたとしても常人が一発放つ間に三発、しかも碌に狙いもつけず全て眉間を撃ち抜くなど如何に考えても狂気の技。
「お、おまえ、おまえまさか――」
扉から入ってきた
目の前で繰り広げられた刹那の蹂躙も、部下を打ち抜かれたことすらも忘れ、ひたすらにその場から逃れようと身体を動かそうとするものの、突きつけられた銃口がそれを許さない。
「や、約束がちがう、見逃したら、二度と俺たちは――」
「いや、違くないでしょ」
今し方のやんわりとした口調ではない、交渉をしようとするそれでもない。まるで道端のゴミか石ころでも見下ろすかのように、その人物は髪と似通った灰色の瞳で彼に言い放つ。
「お前らが関わらない、とは言ったけど。……あたしから関わらないってのは別問題じゃん」
「そ、そんなの屁理屈だろぉっ!!」
眼前に迫る死に、彼は必死に懇願した。顔を涙と鼻水でグシャグシャにしながらも自身の生殺与奪を握る人物の足元に跪く。
「も、目的は、目的はなんだっ!? もうお前らには関わらない、情報を売ったりもしないっ!! 他に何が――」
「何も」
「は?」
まるで興味がないと言わんばかりに。その人物は彼の言葉を冷淡に遮る。
「お前さ、自分の部屋に入ってきた虫を殺す時に一々理由考えたりすんの?」
殺す理由があるのではなく、生かしておく理由がない。目の前の人物は、怯え震える彼にそう告げる。
「じゃあな、
彼の記憶はそこで途絶え、吐き捨てるような一言ともに放たれた無慈悲な弾丸が彼の眉間を貫いた。
その後その人物は入り口付近で倒れている、自身が壊した二匹の虫の後頭部に一発ずつ弾丸を放つと、ゴミでも放るようにして手にしていた拳銃を投げ捨て事務所を後にした。
頭に穴を開けた七つの死体と、弾倉を空にした一丁の拳銃だけが、血溜まりと化した空間に虚しく打ち捨てられていた。
* * * *
「ししろんっ!!」
事務所から手を引かれてしばらく、銃持ってきちゃったから置いてくるわ、なんて言って一人来た道を戻って行った彼女が再び帰ってきた。
「ごめんごめん、こんなとこで待たしちゃって」
「そうじゃなくてっ! なんでわざわざ戻しにいくのよ、危ないでしょっ!!」
なに律儀に返却しに行ってんだこのおバカライオンは。
「大丈夫だよ、もう弾入ってないから」
「何も大丈夫じゃないっ!!」
なんなんだ、ほんとに。ただでさえもう頭がいっぱいいっぱいでパンクしてるのに。私だけこんなにドタバタして、なのにししろんはいつも通りで、馬鹿みたいじゃん私が。
「とりあえず帰ろっか。散歩がてら……ま、色々お話ししようよ」
「…………」
そう言われ、彼女と並んでゆっくりと歩く。明かりもなく人の気配もない、月明かりのみに照らされた暗い商店街を歩く道すがら、彼女の横顔を盗み見る。
見慣れた綺麗な横顔は、やっぱりいつもの彼女のそれで。さっきまでのことなんてまるで無かったかのように思えてくる。
「ししろんは、退役軍人……なんだよね?」
沈黙に耐えかねて、というわけもなく。ただ初めて知らされた彼女の過去に踏み込めるのは、今しかない気がした。
「そうだよ。隠してたわけじゃないんだけど、なんか言いにくくてさ。大っぴらにバラすもんでもないし。……ううん、嘘……隠してた」
「どうして?」
自嘲するように微笑むと、彼女は私の方ではなく、暗い夜空を見上げながら口を開いた。
「嫌われると思ったから。……あたしは元軍人、徴兵されたわけじゃない正規の軍属のね。だからあの戦争を知ってるし、実際に戦地では色々あったよ。――人も、たくさん殺した」
…………………………。
「国を守った、なんて聞こえはいいけど。突き詰めればそれは国家公認の人殺し。いくら英雄だのなんだの言われても、裏を返せばそれは大量虐殺の言い換えでしかない」
「でもそれは――」
それは仕方ない、と口にしようとして、やめた。出来なかった、自らの過去を痛みとして口に出している彼女にそれを言うことは、決して許されるものではない気がして。
「あたしの手は、もう洗い落とせないくらいに他人の血でベトベト。……軽蔑したでしょ。そんな手でさ、あたしは今までラミちゃんに触れてたんだから」
その言葉を聞いた途端、頭の中で何かがチカっとなった。怒ったとかそんな次元じゃない、もっとこう、堪忍袋が一瞬ではち切れたような。
「――にしないで」
「ラミちゃん?」
なんなんだ今日は。
闇金の男たちに父親の名前を出されて人生どん詰まりにされて。
一世一代の勇気と覚悟を持って大切な誰かさんに別れを告げて。
それすらも無為に踏み躙られそうになって、もう自分が情けなくてしょうがなくて。
とか思ってたらその誰かさんが元は凄腕の軍人で、私の覚悟がなんだったんだって位に呆気なく助け出されて。
絶望と驚愕のサンドイッチ、私の精神的容量はとっくにキャパオーバーを起こしている。
故に今の私は、
「バカにしないで」
言葉を選ぶ余裕も、感情を抑える余裕もない。
「ラ、ラミちゃん?」
過去を知ったから軽蔑した? 言えば嫌われると思った?
「なにも、なんにも、これっぽっちもっ、わかってないっ!!」
あなたに手を差し伸べられるまで、私がどれだけのどん底にいたのか。両親を失い、帰る家を失い、あらゆる繋がりを失ってこの街に流れ着いた私が、どんな世界の中で生きてきたのか。
暴力と諦観が支配するこの『ギャング・タウン』と呼ばれる街で、私はその最下層にいた。力もない、経験もなく、お金もないし、家もない。貴族という安穏とした地位からいきなり無一文に突き落とされ、炉端の石ころのような生活をしながら日々を凌いだ。
必死に身を隠して、配給を見つけては与えられるパン屑と具のないスープを命懸けで受け取りに行った。
まるで暗闇に灯された光に群がる羽虫のように、腐肉にたかるドブネズミのように。
寒空の下、棲家にしていた真っ暗な滑り台はいつだって冷たかった。熱もない、温もりもない砂だらけの暗闇で蹲り、ただひたすらに飢えと寒さに震えて孤独に耐えた。
希望なんてなかった。このまま一生ゴミのような生活を送って野垂れ死ぬの待つだけの人生になるんだと思った。
だから、だからこそ、
「ししろんが救ってくれたのっ!! ししろんだけがっ!! 私に手を差し伸べてくれた……」
薄暗い路地裏で、この荒れ果てた街でですらゴミとされたものが放られるそこを手を伸ばし、文字通りゴミに塗れながらゴミを取り出した。
「どんな思惑があったなんて知らない、気まぐれだって構わない」
あなたが血に汚れていると卑下しているその手は、私を絶望のどん底から救い出してくれたそれなんだ。
それをーー
「人生を救われた人の手を、簡単に嫌いになれるわけなんてないのっ! 身勝手な自嘲で私を遠ざけないで。次にやったらもうご飯つくんないから」
「ラミちゃん……」
珍しく萎れているかもしれない彼女の手を引き、私が一歩前を歩く。もうすぐ冬もそこだというのに、繋いだ彼女の左手は、彼女が言う血に塗れているらしいその手は、朝焼けを連れ立って来た寒さを忘れさせてくれるくらいに暖かかった。
「…ちなみに。どこから気づいてたの?」
顔を見ないで済むことをいいことに、今日のことを問いただしてみることにした。一世一代の覚悟を無碍にされたんだ、これくらいの権限はある。
「そうだね、大きな理由は二つ」
「その心は」
「一つ、夕飯の鮭ね。いつもと値段変わらなかったよ。帰りに商店街チラ見してるから大まかな値段は覚えてる」
………………………………。
「二つ。ラミちゃんはあたしが寝てると思っておもっきし話しかけてくれてたけど、あれ全部聞こえてた」
「んなっ!?」
「ドがつく倹約家なラミちゃんが嘘ついてまで夕飯のグレード上げてんのに、なーんも警戒しないわけないじゃん。あたし、元軍人だし?」
…こ、こいつ。てか別に軍人関係ないやろが、ここぞとばかりに主張してきおってからにこの。
「で、後はさっきのまんまだよ。後から来た男二人と
「……軽くって。あれじゃ半殺しでしょ」
「軽いよ、五体満足で生きてるんだから」
その言葉と価値観が重過ぎるわと思うのは私だけだろうか。
「――あ、」
馴染みのない商店街を抜けて大通りに出ると、こんな夜更けにも関わらず灯りを灯している小さな建物がある。
「コンビニか。そういえば最後に使ったのいつだっけ」
コンビニエンスストア…略してコンビニ。簡単な生活雑貨から飲み物食べ物何でもござれな品揃えに加え、24時間365日ぶっ続けで開店、営業をしている小売店。いつでも使える分、同じ商品でも商店街などと比べると値段が割高なことに加え、生鮮食品の類は置いていないことから、最近の私たちには馴染みのない場所でもある。
「ししろんが黙って使ってないなら、私を拾った日以来、じゃないかな」
「ならそれ以来だ。久しぶりに寄ってこうよ、なんか小腹空いちゃった」
そうは言っても、身一つで家を出たからお金なんて――
「じゃじゃーん」
そんな私の懐事情を知っていたかのように、彼女はジャンパーのポケットからシワクチャになった二枚のお札を取り出した。この国に存在する三種類のお札の中では最下層に位置するそれらでも、二枚もあればそれなりの買い物が出来る。
「言ったでしょ、へそくりがあるって。まあこれがその全てなんだけど」
申し訳なそうにする彼女の笑顔が何となくおかしくて、でも意地でも笑いたくなくて。
「…私、いちごミルク」
「じゃそれと肉まん二つと適当におやつ買っていこ。ラミちゃんも食べるでしょ?」
その後、夜更けのコンビニにてあれがいいこれがいいとやいのやいのしながら買い物を終え、買い漁った全てを食べ終える頃には我が家につき。
何となく誘われるがまま、私は彼女が寝転がる布団に入り込み、彼女の腕を枕にして昼過ぎまで寝こけた。
そして。やべー遅刻だと慌てて身支度をする彼女にこれまた急いで握った大きなおむすびを二つ持たせて、家を飛び出していく彼女を見送った。
慌ただしいいつもの日常。もう二度と戻ることがないと覚悟したその日々を、こうして再び迎えられたことは間違いなく私の人生二度目の幸福と言えるだろう。
だが、この時の私には知る由もなかった。
この先に待つ大きな運命のうねりと、それに秘された彼女の本当の過去。
私が体験したこのひと時が、ただの先触れであり微睡でしかなかったことを知ったのは、何もかもが終わった後だった。