雪花ラミィ。
彼女があの日拾った少女は、そう名乗った
初めの頃は何をするにも警戒心がまるで野良猫のように高く、柄にもなく柔らかい声音を作りあやすようにして接する場面を多々あった。
少女の生活品を整えるため、仕事の報酬の殆ど預けている馴染みのブローカーの元を訪れた際には、
『あら、男でも出来たのかしら?』
なんて揶揄われたが無視をした。この女の口車に付き合っていては碌なことにはならないし、時間の無駄だと付き合いからわかっているためだ。
ブローカーから引き出したそれなりの金額を叩いて、彼女は自身が拾った少女の生活水準をできる限りで整えた。少女の分の着替えや布団、歯ブラシなどの必需品。これまで投げやりどん詰まりの人生を送ってきた彼女にとっては久しい、人らしい生活とやらを手探りで探した。
また仕事の関係で家を空けることも多かったため、家にいる間は好きにしていていい、そう言い残して生活費としてお金を渡して少女を一人にすることも多かった。
そして仕事を終えれば、コンビニで二人分の弁当を買って帰宅する日々。初めは警戒心からかともにちゃぶ台を囲むことはなかったが、幾日も経てば共に食事を摂るようにはなった。
少女が来てから彼女自身が大きく変わったことといえば、いつの間にかアルコールを口にしなくなったことだろうか。意識的に辞めたわけではなく、コンビニに立ち寄っても自身と少女の分の水や食べ物を買うだけで、前のように無造作に酒瓶を買い物カゴに入れることがなくなった。
収入的に問題があるわけではなく、ただアルコールで無意味な自傷をする必要がなくなったのか。どちらにせよ、少女の存在は少なからず彼女の心境に変化を与えていた。
そんな奇妙な共同生活を続けること、およそ一月。いつもの如くぼったち警備を終えコンビニで二人分の弁当を購入し、帰路についた時。
家の周囲から異臭を感じ取り、やや早足でアパートの階段を登った。まさか火事か、それとも何か早まったのか。焦る気持ちのまま彼女は鍵を開けて扉を押し開ける。
だが、
「お、おかえり、なさい」
そこにいたのは、驚きながらも申し訳なさそうに俯く少女…ラミィだった。買い与えた無地のブラウスと黒いスカート、そして背中に流した氷色の長髪が心なしか黒く汚れているのは、彼女の気のせいではないだろう。
「おお?」
見ればキッチンには昨日までなかったはずの様々な調理器具が打ち捨てられており、包丁、フライパン、まな板、ボウル、小さな鍋などがひっくり返ってシンクに沈んでいる。
もちろん彼女が購入したものでは無い。自炊のじの字もない彼女の家に調理器具などあるはずもなく、使った覚えもない。
また、扉を開けて部屋を見渡した瞬間に漂っていた異臭の正体も分かった。ちゃぶ台の上に置かれた、これまた見覚えのない長皿と、その上に盛られた焼き魚。
焼き魚と言っても、もはや消し炭二歩手前程度には全焼しているこれが、おそらくは嗅覚への侵入者だろう。
「…え……っと?」
「………………」
目の前の光景に理解が追いつかず、自然と彼女の視線は俯く少女へと向かう。
「あの…その。い、頂いたお金、つかえ、なくて。だからずっと、た、貯めてて。そ、それで、今日……」
……なるほど。つまり少女はこれまで生活費として渡していたお金を注ぎ込み、これだけの準備をしたということか。調理器具を買い、器を買い、食品を買い、見様見真似ですらない、出たとこ勝負に出た。
そうして出来上がったのが、シンクに打ち捨てられた真新しい調理器具の山と、全焼した焼き魚ということか。
「…………………」
「ご、ごめんなさい。私――――」
慌てた様子で両手を胸の前で握るラミィを見て。
「ふ、くっくっく……」
「え……?」
「あっはっはっはっはっはっはっ!!」
彼女はただ、心の底からの笑い声で応えた。
「そっかそっか。へー、凄いじゃん、食べていいこれ」
「いや、でもそれ」
少女の返事を待たず、彼女は丁寧に箸置きに置かれた黒い箸を手に取り、黒ずんだ焼き魚に切り込みを入れ、切り出した身を口に含む。元々何を食しても味などわからない彼女からしてみれば、多少焦げてようがなんだろうが関係ない。
ただ少女が自分のためだけにここまでしてくれたという事実が、何よりも嬉しかった。人と話すことさえ、外に出ることさえ未だ恐怖であるはずの少女が、たった一人で外に出て彼女のためにこの光景を作り出した。
「うん、美味しい」
「…ほ、ほんと?」
あっという間に焼け焦げた魚を食べ終え、心配そうにこちらを見つめる少女へ向き直る。
「ほんと。明日からもお願いしていい? コンビニ弁当ばっかで飽きちゃった。あたし料理できないからさ」
「う、うん…っ!」
顔を綻ばせる少女を見て、彼女もまた微笑む。
「よろしくね、
「は、はい。……し、獅白、さん」
「何それ、硬いって」
ラミィが彼女のことをししろん…苗字をなぞったあだ名で呼ぶようになるのは、ここから僅か半月のことである。
* * * *
ししろん。ラミィが彼女のことをそう呼ぶようになってから、じきに一年が経とうとしていた。
初めて料理を作ってくれた日を皮切りにラミィから彼女への接し方が徐々に軟化していき、まず敬語が消え、ついで敬称が消えてあだ名呼びになり、今では何の遠慮もなく言葉による火の玉ストレートをぶん投げるようになった。
料理をきっかけにして家事に目覚めたのか、はたまた同居人のそれらのなさに危機感を覚えたのかは定かではないが、今では朝の目覚めから見送り、洗濯炊事に至る全てをこなしてくれている。
……穏やかな日々だった。ラミィと過ごしたその時間は、それまで過ごした血と硝煙、灰に塗れた日々を塗り替えるのには十分過ぎるほどに色鮮やかなそれだった。
二人で春先に見に出かけた桜は、これまで見たどんな風景よりも華やかに美しく。夏の夜空を見上げながらともに突いた西瓜は、味は分からずとも瑞々しく。秋に見た視界一面に広がる紅葉の暖かな景色は、二度と忘れることはないだろう。
もし仮に、人生に幸福と呼ぶべき瞬間があるのなら。ここ以外に持って他にない。
燻っていた怒りを忘れ、戦地で散った仲間達の声と顔を思い出すことを忘れ、突きつけられた憎悪を忘れ。
彼女はただ、雪花ラミィという一人の少女を中心にした時だけ色づく世界に安寧を得た。
この一年、ラミィは驚くほどに成長した。元が貴族の一人令嬢という出自を鑑みれば、驚異的な速度だろう。何せ全てを享受する側から奪われる側に叩き落とされ、今では与える側になったのだから。
器量が良いのは間違いない、貴族出身ということを考えれば教養も問題ない。このまま成長を続けていけば遠くないうちに本当に?外の社会でも生きているようになるだろう。
自身の元を離れ、新しい出会いに恵まれて、その中で最愛の誰かに本当に?巡り合い、時を重ねて子を成すかもしれない。
そうなってくれたら、ラミィが自分の幸せを見つけてくれたのなら、本当に?少しはあの戦争に意味を見出せるかもしれない。
犠牲と絶望、果てのない悲しみ。その上にラミィの幸せがあったのなら本当に?、自分も少しは救われ本当に?
何もかも失った本当に?と思っていたが本当に?ラミィが幸本当に?、ラミィがそうなれる本当に?
本当に?本当に?本当に?本当に?本当に?
………………………………………………。
本当に? 自身は、本当に、心の底からラミィの幸せを望んでいるのか。彼女は…ぼたんは暗い路地裏を歩きながら、家に残してきたラミィの姿を思い浮かべる。
本当に自分は、ラミィが自身の元を離れ、外の世界で幸せになることを望んでいるのか? それを望めているのか?
あの少女が真っ当な職に就き、様々な出会いを得て、いつの日か最愛の誰かに出会い、子を成し、幸せな家庭で母となるかもしれない未来を、心の底から祝福出来るのか。
……否だ。そんなもの、断じて否である。
ラミィを失ったら、自分に何が残る。彼女という世界の中心を失った時、自分の居場所はどこになる。どこにもない、また無味無臭で意味のないゴミ溜めのような日々に戻るだけ。
またあんな日々に戻るのか。何もない、僅かな温もり一つないあの日々に。
…嫌だ。そんなこと絶対に認められない。ラミィが、彼女がいない世界なんて絶対に認めない。今更認められるはずがない。
だがそう言ったところで何が出来る。いずれ彼女は自分の元を去るだろう、自分で自分の面倒を見られる金銭を得る手段が得られればおそらくは。そしてそれをし得るだけの能力は既に携えている。
環境への適応力はこの一年で証明された、教養など言わずもがな。新しいことを学ぶ吸収力も申し分がない。
傷ついた彼女のためを思って作ったはずの庇護は、いつの間にかぼたん自身の歪んだ独占欲を満たす鳥籠になってしまった。もう十分に飛び立つ力のあるカナリアを、必死に繋ぎ止めるための欺瞞の檻。
どうすればいい。どうすれば彼女は自分の元を去らないでいてくれる。自分だけのものでいてくれる、自分だけに鳴いてくれるカナリアでいてくれる。
どうすればそれが許される自分になれる。数え切れないほどの命を食いちぎった獣を受け入れてくれる。流せない血に濡れたこの手を握っていてくれる。
どうすれば、彼女は何よりも自分を一番にしてくれる。そうしてくれるという証が手に入る。
どうすれば――――――
「おい」
「…あ?」
混濁した思考で頭を満たしている中、かけられた高圧的な言葉にぼたんは振り返る。そこにいたのは、安物のスーツに身を包んだ男が二人。茶髪を雑なオールバックに纏めた血の気の多そうな男と、黒髪を短く刈り込んだのが一名ずつ。よれたシャツや曲がったネクタイが、彼ら自身がその手の服を着慣れていないことを教えている。
「チンピラがなんか用?」
「チンっ、この女――」
短く切り揃えた黒い短髪に、それなりに鍛えているガタイはあるものの、気配があまりに薄い。ぼたんからすれば、痩せこけた野犬に絡まれた程度にすらなりはしない。
愛用しているオーバーサイズのモノクロカラーのジャンパーのポケットに両手を突っ込んだまま、物面倒そうなぼたんに対して二人はゆっくり距離を詰めてくる。
「恨みはないが……悪いな、ノルマなんでな」
「だったら声かける前に手ぇ出しな、マヌケ」
おそらくは表立って看板を出せない何処かしこの下っ端だろう。大方、非合法売春宿に売り払う女の調達でも言いつけられたのか。
「クソが調子乗ってんなよ!?」
自分たちを小馬鹿にしてるようなぼたんの態度に堪えきれなくなったのか、どちらかと言わなくとも堪え性がなかったのだろう、茶髪の男がズボンのポケットから両手を出して駆ける。
そして走り込んだ勢いそのまま、思い切り振りかぶった右腕をぼたんの顔面目掛けて振り下ろす。
特別早いわけでも鋭いわけでもないが、それでもこういった裏社会を歩いてきただけはある慣れた動作だ。体幹や体重移動は滅茶苦茶だが、まともに貰えば大きな隙を晒すことくらいにはなる。
ここにいるのがただの女であったなら。普段彼らが獲物としか考えていないような非力な女であったなら、事実そうなっていただろう。
だが――
「あが……っ!?」
ここにいるのは、普通の女でなければ非力な獲物でもない。
拳を振り抜いた瞬間、半身を逸らすだけでそれを紙一重で避けたぼたんの右肘が男の顎を打ち据え、膝から崩れた男の顔面を掴み無造作に横の壁に叩きつける。そして頭蓋骨とその中へ物理的な衝撃を受け意識が混濁する男の首を右手で掴み、そのまま尋常ならざる膂力を持って宙に持ち上げる。
「な、ば、バカな……」
「あ、が、ゔぁぁぁ……」
目の前で、女に片手一本で首を持ち上げられ両脚をバタつかせる仲間を見たもう一人の男が信じられないものを見たように呆然と立ち尽くす。
「運がなかったな。どうする? このまま折っていいのか? ならあと五秒そこで止まってろよ」
光を映さない澱んだ灰色の瞳が、恐怖と驚愕に足を取られて動けない男に問いかける。男の首へぼたんの白い指が食い込んでいくと共に、もがく男の声は徐々に小さくなっていく。
「待て、待ってくれ。悪かった、俺たちが」
僅かに考えることもなく、男は懇願するようにぼたんの足元に跪くと、尻ポケットから取り出したボロボロの黒い長財布を差し出した。
「頼む、これで離してやってくれ」
「………………」
自身を見上げる黒い瞳を見下ろすこと、三秒。締め付けていた首から手を離し、その手で雑に引ったくるようにして差し出された財布を奪い取る。
「…はぁ? なんだこれ、飯代にもならねぇじゃん」
必死に酸素を取り入れる仲間の肩をさする男へ向け、苛立ったように財布を逆さにして振りながらぼたんが言い放つ。
その振られた財布からこぼれ落ちた小銭が地面に落ちて甲高い音を立てて散らばっていくが、たとえその全てを拾い集めたとして、果たして幾ばくになろうか。少なくとも八百屋肉屋で満足に買い物ができる金額には到底届かない。
「……当たり前だ。当の俺たちですらここ数日はまともに食えちゃいねぇんだから」
「知るかよ」
よく見れば二人の男の顔色が相応に悪いと言える様をしている。だが、そんなことはこの町ではよくあること。吐き捨てるようにぼたんが言い放つと、ポツリと締め上げれていた方の男が言葉を漏らす。
「ゲホ…ゴホ…っ! くそ、大体見つかるわけねぇんだよ、こんな街で手付かずの元貴族の女だなんてよ…」
「おいっ!」
おそらくは彼らのノルマの中身なんだろう。それを口にした男を黒い短髪の方の男が咎めるように声を荒げる。
「……元貴族…?」
だが、その言葉に反応したのは男だけではなく。
「なあお前ら、どこのもん?」
「は?」
意味がわからないと言った顔の男二人へ先程までの苛立ちをしまい込み、ぼたんが問いかける。
「だからどこのチンピラだよ。大方その辺の野良の闇金かなんかだろ、
あのブローカー。そう口にした瞬間に思わず表情が苦くなりかける。
「……あ、ああ。GM金融、あんたの言う通り闇金の下っ端だ。今は…言われた条件の女を攫って来いって言われてる」
「なんでこんなんやってんの。勘だけど、お前の性格はこっちじゃなくて堅気向きだぞ」
お前…短髪の男はそう言われた瞬間、なんとも言いようのない悔しさを滲ませた表情のまま俯く。
「…仕方ないんだ。死んだ両親がそこに借金してた、それをチャラにする代わりに――」
「くだらねぇ鉄砲玉やらされてると」
まさに典型的なシステムだった。返済能力がない人間に高額な利子で金を貸付け、その担保に人間をつける。そして借金が返せないとなれば担保にしていた人間を奪い取り、売るなりなんなり金に変える。
今回の場合は、都合のいい捨て駒のようだが。
「…てめぇに何が分かんだよ。俺も兄貴も、好きでこんなことやってられるかよ。毎日毎日使い捨ての雑巾みたいな扱い方されて、借金の返済だって碌な給金もねぇ。逃げる金もねぇ、なら――」
「だから知るかよ、んなの」
その程度の不幸ならこの街のそこいらにいくらでも転がっている。今更身の上の一つや二つ、興味もない。
だが、
「なあお前ら、あたしと手を組め」
「「は?」」
* * * *
数日後。
「で、首尾は?」
「順調だ、すでに動き始めてる」
あの日と同じ路地裏で、ぼたんは二人の男と会っていた。血の繋がりのある実の兄弟だったらしい二人の兄…黒髪を短く刈り込んだ男の言葉に、弟も言葉を続ける。
「それにしてもちょうど良くいるもんだな、元貴族の若い女、なんてよ」
「女ってか…まだ少し子供ではあるけど。それでも変態どもに売りつける程度には育ってるし大丈夫でしょ」
「ああ、向こうも大満足だったよ」
それじゃ、と持たれていた壁から背を離したぼたんは男二人に向き直る。
「もう一度確認する。まずあたしの家にいる売り物のところへ、君らんとこの社員を鉢合わせる。君ら自身が行くのが一番確実だとは思うけど――」
「それは無理だな、今回の話はそれなりに金が動いてる」
「ああ、間違いなく社長…木元の野郎が自分で出張るさ」
ぼたんが二人に持ちかけた話はこうだ。
二人が借金のかたで無理やり働かされている闇金から指示された、元貴族の若い女……少女に心当たりがある。故、この少女を売り付ける話を上手く使って、逆に事務所を潰して金庫を頂いてしまおう。
当然、提案者のぼたんへ兄弟から疑念の声が上がった。裏社会、ひいては今の闇金から足を洗える上に事務所の金庫が付いてくるというのは、二人にとっては渡りに船だ。流石に街にはいられなくなるだろうが、それすらも含め自由が得られるとのなら、考え方次第で悪くはない。
明かされたぼたんの元軍人という素性と彼ら自身の実体験からも戦力的に負けはないに等しい。
だが、ならばぼたん自身のメリットは何か。わざわざこんな回りくどいことをせずとも、彼女の武力なら不意打ちで小さな闇金事務所を潰すことなぞ、そう難しいことではない。銃の入手ルートなどの問題も、口振からして困っている様子はない。
では何故? そう問うた二人にぼたんはただ、
『ただ殺すより、チンピラ同士の抗争にした方が都合がいいんだよ』
と返し今に至る。彼女にはどうしても今手元に抱えている元貴族を始末せねばならない理由があるらしい。それもただ殺すだけではなく、なるべく自身が手を下したと悟られぬように。
当然、兄弟とてこの街の裏で生きている人間。甘い話には裏があるなんてことは重々理解している。ぼたんが全てを話しているわけでも、はたまた真実を話しているかも確信はしていない。
していないが、それでも彼らは彼女の話に乗った。他人に聞かせられない、聞かせたくないことの一つや二つ、今の時代にこの街で生きていればあって当たり前。仲間でもない、たった一度の共闘相手としては、彼女の提案は疑念や不信を差し引いても目的達成のためと割り切ればお釣りは十分に出る。
「言われた通りに手回しは済んだ。今日にでも偽の借用書を持って木元があんたの家に向かうはずだ」
「怪しまれなかった?」
「問題ねぇよ。事務所っつってもセコい闇金だ、情報の伝わり方なんてガッタガタ。秘書代わりの奴から木元に伝わるように根回はしてやった、あとは木元が主導で動けば俺ら外吹き雑巾なんぞポイってな」
皮肉を口にする弟の顔には、隠しきれない苛立ちと怒りが浮き上がっている。両親を奪われ、自由を奪われ、首輪を嵌められて踏みつけられてきた彼ら二人の心象は計り知れない。
「…あっそ。ならいいや、あとは適当に時間を潰して今日の夜にでも――」
「それに関して。どうやら木元はあんたの荷物だけじゃなく、あんたのことも狙ってる。上手くいけば、想定よりスムーズにあんたを事務所に入れられそうだ」
ぼたんの立てた作戦では、彼らの社長ないし社員たちが獲物である元貴族の娘を攫った後、兄弟の合図でぼたんが事務所に突入、制圧するという話であった。無論これでも戦力差を考えれば十二分に成功する確率は高いのだが。
「へぇー。ならそれでいい、面倒が少し減りそう」
奇襲と不意打ちは似てるようで違う。開始からいきなり戦闘を起こして外から叩くか、敵の懐に入り中から崩すか。どちらにも利点、欠点はあれど、今回のように初めから兄弟二人という内通者がいるのなら、それを活かせるのは後者だろう。
そこへ作戦の要であるぼたんまでも中に入り込めるのなら、万に一つも負けはない。
「ただ木元がどういう手段であんたの荷物を奪うのかまではわからない。そこは上手くアドリブを効かせてくれ」
「こっちも夜まではいつも通りの仕事をするからな、しくじんなよ元軍人さま」
「そっちもな。それと金の取り分は額に関係なく等分、ガタガタ抜かしたらその場で殺すから」
殺す、そう言われた兄弟は一瞬だけ肩を跳ねさせるも、ゆっくりと頷く。金はいらない、と言われるよりは金で終わる話をされた方が幾分か信用は出来る。長年の間、裏社会で培ってきた兄弟二人の勘が皮肉にもそう言っている。
「ああ、それでいい。ならまた夜に」
そう言い残して裏路地から表通りに歩いていく二人を見て、ぼたんは逆にさらに暗い路地へと踏み込んでいく。
「さて、まずは適当に時間潰さないと。一応は仕事って言って出てるんだし」
今も健気に自分を待ってくれているだろう少女の顔を思い浮かべ、ぼたんは先程までとは打って変わったような笑顔を浮かべる。
「大丈夫だよ、ラミちゃん。ラミちゃんのことは、あたしが絶対、絶対に守るから」
どろりとした黒い恍惚を滲ませた、獣のような美しい笑顔を。
* * * *
「今までありがとう。私を見つけてくれて、私を救ってくれて。…………私、幸せだったよ…」
その言葉を最後に、少女は……雪花ラミィはぼたんの枕元にから立ち上がり、一人静かに部屋を出ていく。
「……………………」
それを聞き届けたぼたんもまた、ゆっくりと身体を起こす。時刻は深夜、場所は彼女とラミィが暮らす古いアパートの一室。
作戦決行まで、あと僅かと言ったところだろうか。家の近くから一台の車が走り去っていく音を聞いたあたり、そこに乗せられているだろうラミィが事務所につき、もう一度来た車にぼたん自身も乗り同じく事務所に向かう。
この迎えには事前に話をつけてある兄弟二人が来る手筈なので、それまでに身支度を終わらせる必要がある。
と、言ってもやることと言えば寝巻きにしている寄れた黒シャツを外行きようの白いシャツに着替え、その上に愛用のオーバーサイズのモノクロカラーのジャンパーを羽織り、下をショートパンツに穿き替える程度だが。
案の定、彼女がそれらに着替え終えたところでまだ迎えは来ない。
「ふ、くくっ、はっはっはっはっ……」
先程まで、眠ったふりをしている自分に語りかけてくれたラミィの言葉を思い返し、彼女は堪えきれない笑いを漏らして顔を抑える。
……この時点で彼女の目的は殆ど達成されているようなものなのだが、逆に言えばここから先は追加報酬。目的よりも多くの駄賃が手に入るというのは、幸先も気分も良い。
そうして気分に浸ること数分。ドアをノックされる音で意識を表層に戻す。ドアを開けた先には、昼間とは違い、やや緊張した面持ちの兄がいる。
「…手筈通りだ。もう一台の車にあんたの荷物が乗ってる、こっちが着く頃には木元を含めた全社員とあんたの荷物が事務所にいることになる」
「りょうかい、ならさっさと行こうか」
階段を降りていく兄を追い、そのまま路地を抜けた表に停められた黒いミニバンタイプの後部座席に乗り込む。
「…ほらよ」
兄が助手席に座ったタイミングで、弟がぼたんにそれを手渡してくる。全体的に小振りで黒く塗られたそれ…拳銃を、ぼたんは何も言わずに受け取った。
ぼたんからすれば、手入れもされておらず威力も装填数も不安が残る粗悪品ではあるが、ないよりはマシだろう。
「銃はそれ一個だからな、予備弾もねぇ」
「なのにそれをあたしに渡すの?」
「あんたがこの中で一番そいつを上手く使える。そうだろ?」
顔を向けずにそう問うてくる兄の声に、ぼたんは答えずに受け取った銃をズボンの後ろポケットに入れ込む。そして走り出す車に揺られながら、何気なく窓枠に肘をかけて外を見たまま、ぼたんが口を開く。
「そう緊張すんなよ」
「……え?」
そう声を発したのは兄か、それとも弟か。突然言葉をかけられた二人は驚きながらも彼女の言葉を待つ。
「着いたらあたしがチンピラ五人と荷物を撃ち抜く。それで終わり、何も難しいことじゃない」
「………そうは、言ってもな」
「お前らが邪魔さえしなけりゃすぐに終わる。どうでもいい心配するくらいなら金とその後の時間の使い方でも考えてろ」
ぶっきらぼうに言い放つぼたんに、兄の方がふっと声を漏らした。
「…あんたなりに、気を遣ってくれたのか? 今のは」
「まさか、全部こいつの本心だろ」
笑い合う兄弟二人にぼたんは目を向けず、ただ窓から流れる景色を見つめ続ける。明かりの消えた灰色の街並み、行き交う人も、怒号をあげる人も、道端で座り込む人もいなく。
兄弟二人もそれきり、言葉を発することなくただエンジンが低く唸る音が車内を満たす。
「……着いたぞ」
数分後。そう言われ車のドアを開けでた先には、背の低いビルが雑多に立ち並ぶ街の一角、その中でも特に築年数に不安が残る一棟のビル。下から見た時点で既に割られて久しいだろうガラス窓が存在しているが、唯一明かりが灯っており窓も無事な二階部分が、目当ての場所だろう。
「……ありがとう、と言っておく」
「は?」
ぼたんの両隣に立つ兄弟の兄が、呟くように口を開く。
「…まさか、この会社から逃げられるなんて思わなかった」
「ああ、一生ゴミみたいに扱われてゴミみたいに死ぬんだと思ってたけどよ」
ふっと笑みを浮かべる弟が兄の言葉を引き継ぎ、二人は揃って自分達の肩程度にあるぼたんの顔を見る。
「あるんだな、救いってのは」
二人の瞳にあるのは、僅かな緊張と、抑えきれない歓喜。人として歩むことができなかったことへの悔しさ、無力さ、終わりのないゴミ溜めのような生活からようやく解放される歓び。
「さあ行こう。邪魔はしないが、せめて」
「おう、露払いくらいはしねぇとな」
見えた地獄の出口は、新たな未来への入り口。そこにある希望を信じ、期待に胸を膨らませ、二人は一歩を踏み出した。
感じていた緊張はいつのまにかなくなった、不器用な励ましのおかげかもしれないし、はたまた気のせいかもしれない。
それでも、この先には、これから歩む先には未来がある。希望がある。取り戻せる、奪われ続けてきた人生を、幸福を、人としての尊厳を、
兄弟として、当たり前の――――――
「ああ、そういやそんな話だったっけ」
直後、感じたことのない衝撃と痛みが二人を襲う。耳に響いた鈍い音が自分達の鼻と歯が砕けた音だと気付くことすら出来ない激痛が彼らを支配し、左右の手で二人の頭を地面に叩きつけたぼたんは、血みどろになった二人の頭を僅かに持ち上げ、再度両手を地に打ち付ける。
「……ご……っ! が…っ」
「…ゔ……あ…」
痛みと衝撃で意識が明滅する二人の頭から手を離すと、ぼたんは両手をジャンパーのポケットに突っ込みゆっくりと立ち上がる。
「救い、ね。お前ら一つ忘れてることがあるよな?」
彼ら二人は気づかない。鼻も、歯もグチャグチャになる程潰され、もはや頭蓋骨にすら傷を受けて死に目な二人は、自分たちを見下ろす彼女の底冷えするような瞳には、気づけない。
「今日の今日まで、この街でなにしてた? まさか日がな一日街をぶらついてただけじゃねぇだろ」
「……ごは…っ!」
立ちあがろうとする兄の後頭部を踏みつけそれを阻止する。真新しい傷を再度地面に押し当てられ、兄が声にならない悲鳴を漏らす。
「言われるがままに借金担がせて会社に差し出した奴は何人だ? 攫って売った女は何人だ?」
言いながら、ぼたんはゆっくりとしなやかな右脚を持ち上げる。乾いた口調で話すその言葉を、物理的にも痛覚的にも動けない二人はただ黙って残る意識で聞き続ける。
「自分らのために、自分たちとおんなじ奴らを何人作った? ……それをすっかり忘れて明日から明るい未来に繰り出そうってのは――――虫が良すぎんだろ」
直後、常人を遥かに凌駕する膂力を持ってぼたんが兄の左肘を踏みつける。彼女の足と地面との間に挟まれた彼の肘関節が、一瞬の抵抗の後に音を当てて砕かれる。
「…がああぁあぁぁぁ…っ!」
「惜しかったな。悪人のままだったらまだ見逃してやろうかとも思ったけど…。最後の最後で錯覚したな、自分達が善人だって」
「ぎゃぁぁぉぁぁぁぁ……っ!?」
二度、三度と尋常ではない力で踏みつけられ、彼ら二人の身体から無事な腕と肘の関節がなくなった頃。
「気が変わった。ほら立てよ、足は壊してねぇだろ」
そうして、砕かれ血まみれになって垂れ下がることしか出来なくなった腕を揺らしながら二人はただ、もはや痛みで自分のものなのかと分からない意識を辿り、階段を上がる。
「…さ、今行くよ、ラミちゃん」
* * * *
以上が、獅子が自ら企てた妖精の救出劇。妖精が己の元から離れることを恐れ、自らの過去を軽蔑される過去を恐れた末に導き出した、彼女なりの最善策で、最愚策。
この結果、彼女は自身の過去を最愛の少女にこれ以上ない機会に打ち明けることに成功し、また少女からこれまで以上の好意と温もりを得るに至った。
……しかし、これは彼女にとっては余りにも甘く、深い毒。一度犯されれば最後、二度と元の心を取り戻すことは叶わない劇薬。終わるはずの夢を無理矢理覚さないようにするための、愛の癌。
いつかきっと、この関係は最悪の形で終わりを迎える。だが例えそうだとしても、それはそれでいいのだろう。
どうせ抜けない毒牙なら、精一杯溺れてやろう。この甘く蕩けるような毒に溺れ、最後の最後に少女が側にいたのなら、それでいい。
少女が、ラミィがそこにいてくれたなら。それがどんな結末であれ、どんな運命であれ。
そこが彼女の、最幸の終着点に違いないのだから。
* * * *
「はあ…っ……はあ…っ!」
日の光に嫌われた路地裏。今日も今日とて担がせた借金でクビが回らなくなった者達を地獄に引き摺り下ろそうと、彼ら三人はいつも通りの仕事をこなそうとしていた。
甘い言葉で蜜を撒き、あの戦争で大黒柱を失った妻と娘を金にケチをつけて怒鳴り、追い込み、甚振る。経験ではそろそろ泣きを入れてきて売却に入れる見込みだった。
「くそ、くそくそくそっ!! 何なんだよあいつはっ!?」
深く斬られた腕をもう片方の腕で押さえて、痛みと恐怖を堪えて男は走る。
簡単な仕事のはずだった。いつも通りに言葉で追い詰め、娘だけはと泣きながら縋り付いてくる年増を三人で遊び回し、泣きじゃくる娘にトラウマを植え付ける。そうして双方に限界が来た所で書類にサインをさせ、見事仕事達成でボーナスゲット。
金を搾り尽くし、身体をなぶり尽くし、人生を舐め回す。弱者から力で奪うことが許された街に万歳。さっきのさっきまで、彼らはそう思っていた。
だが、そうはならなかった。見慣れたオンボロアパートの扉を蹴破った先にいたのは、いつもの年増と娘の泣き顔ではなく。
『…………………………』
若い女だった。明るい紫髪を二つに結び、全身をスッポリと覆うフード付きの黒いコート、擦り切れたような瞳の色は果実のようなライム色。一目見ただけで上物と分かる女がそこにいた。
困惑は一瞬。二人がどこ逃げたのかは確かに問題だが、そんなものは後から探せばいい。どのみちまともな体力も精神もない、遠くには逃げられない。
重要なのは今。歳も見た目も良い女が、男三人を前にして部屋に一人。
ツいてる。彼ら三人は三人同時にそう思った、自身以外にもそう思っていると確信さえした。壊すついでに遊んだ年増の代わりに目の前の若い女。売り付ける関係で娘には手を出せなかった三人にとっては、棚から牡丹餅。
そして、下卑た笑い声とともに舌舐めずりをした男が一人、女に近づいた時――、
その男の舌が文字通りに飛んだ。
初めは理解出来なかった。何せ一瞬前まで目の前の女で遊ぶことしか考えていなかった彼らの前に舌が飛んできたのだから。
見れば無造作に振るわれた女の右手には、黒い革手袋をした手の中に、同じく黒塗りにされた小ぶりのナイフ…バヨネットナイフが握られていた。
そこから先は、もうよく覚えていない。口から血を吹き出して悲鳴を上げる仲間を見捨てて、同じく絶叫しながら部屋を飛び出し、気づけば彼は一人になっていた。なぜ一緒に逃げてきたはずの仲間が消えているのか、なぜ逃げているはずなのに自分の腕は斬られているのか。
「はぁ…っ……はぁ…あっ!?」
恐怖と疲労、酸欠に出血が重なり足がもつれた彼はその場で倒れ込む。朦朧とする意識の中、必死に立ちあがろうとして、
「…もう終わり?」
「ひっ!?」
女が、彼の頭の前にいた、黒いブーツを履いた爪先が彼の鼻先を擦るかどうかの場所に。
「な、なん、どう、し」
「……何でもなにも…
倒れたままの彼に、女はしゃがみ込み一枚の写真を見せる。
「…質問。この女、知ってる?」
そこに写っているのは、一人の女。古い上にぼやけているせいで、軍服を着ていることと、長い白か銀に近しい長髪をしていることくらいしか分からない。
だが、彼には心当たりがあった。軍服は勿論着ていないが、似たような髪色をした女を知っている。街で一回か二回見かけた程度ではあるが。
「……へぇ。じゃあ本当にこの街にいるんだ」
必死に首を縦に振る男を見て、女は女性にしては珍しい、低いテノールのような声で小さく呟く。聞いているだけで産毛が逆立つような陰りや闇がなければ、聴き入ってしまっていたかもしれない。
「ありがとう」
「……あ、い、い――」
柔らかい笑みを浮かべる女に、一瞬男は言葉を失う。
「あがっ!? ごぉっ!?」
次の瞬間、男の口にブーツを捩じ込んだ女がそのまま脚を持ち上げる。倒れたまま、口にブーツを入れ込まれた男の頭がゆっくりと持ち上げられ、同時にナイフの刃を男の首の後ろに押し当てる。
それを感じ取った男が塞がれた口で必死にもがこうとするも、
「……じゃ、死ね」
振り抜かれた刃の軌跡から大量の血を吹き出しながら、男は地面に倒れ伏す。
「……あ、あく……ま――」
希薄になる意識のなか、そう呟く男にはもう目もくれず、女はその場を後にする。
「やっと……やっと、見つけた……っ」
暗い路地を歩きながら、女は隠しきれない怒りを滲ませた声を漏らす。そして抑えきれなくなった女の左手が、掴んでいた古い写真を勢いよく投げ捨てる。
「……っ!!」
間髪入れずに左手で引き抜いた黒い拳銃から放たれた弾丸が写真を貫き、女の足元には顔を無くした女性が写ったそれが落ちる。
その写真を、女は力強く、そして何度も踏みつけ、
「……殺す、殺す、殺す殺す、殺してやる…っ!! 獅白……獅白、ぼたんっ!!!」
顔と髪を握りつぶし、写真を踏み躙り。女は……ただ一人、怨嗟の叫びを上げた。
* * * *
【次回予告】
『テロ組織"B・S"…隣の隣くらいかな、怖いね』
とある事件から幾日、変わらぬ平穏を過ごす獅子と妖精。
『エッチな下着からとっても気持ちよくなっちゃうお薬に、危ないお仕事や銃弾、薬、装甲車その他色々たぁくさん…癒月商会へようこそ。お、きゃ、く、さ、ま♡』
『……そう。貴方が、"B•S"のリーダー、だったのね』
『リーダーだなんて…指導者、とかって呼んで欲しいな。ね、先生?』
顕になる裏の支配者と、新たなる脅威。
『久しぶり、ぼたん』
『っ!?』
突如として迫る凶刃。
『……っ……』
『拍子抜け。あんたこんなに弱かったっけ。…ああ違う。――腑抜けた、のかな』
力を失った獅子に容赦なく振るわれる、憎悪の刃。
『なんで生きてるんだよ…あの子はいないのにっ!! あんたのせいで死んだのにいっ!!』
望まぬ再会は、獅子に何を齎すのか。
『死ね、死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねぇぇぇっ!! 死んで償えぇぇぇぇぇぇっ!!!』
脅かされる平穏、崩れ始める日常。
『……ああ。なら殺すわ、お前』
現在と過去が交差する、激動の第二幕。
次回 Lion Heart 再会の章
『過去からの復讐者』