幽冥来たりて、禍を生す   作:クサリ

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 混乱した様子で固まってしまった児島をよそに、敷島は血濡れた奈津美の頬に手を当てる。彼女の実在を指で、温度で確かめて、許しを請うように項垂れた。

 

「ごめんな、奈津美。父さん、遅くなっちまって……そのせいで、こんなことに」

「お父さん、本当に、お父さん? な、なんで、ここに?」

 

 混乱しているのは、奈津美も同じようであった。戸惑いが彼女を正気に引き戻したように、頬に添えられた手に自分の手を重ねている。

 

「だめ、ダメよお父さん、ああそんな、ここに来ちゃダメなのに!」

「……奈津美?」

「ここも私も安全じゃないの! すぐに────」

 

 ────きぃん、こぉん、かぁん、こぉん

 

 妙に間延びしたチャイムの音が、教室に響く。

 同時に、奈津美の体がびくりと跳ねて、その表情が絶望に染まった。

 奈津美の手が彼女の腹部に添えられる。そこには、肉と皮膚が奇妙に捻れて出来た、渦模様が浮かんでいた。

 

「ごめ、お父さん、これ」

「奈津美、どうした……奈津美!」

「おかあさん、に」

 

 髪を纏めていたリボンを解いて、奈津美が敷島の方向に差し出す。

 思わずその手を取ろうとした敷島の目の前で、奈津美は掠れた声で呟いた。

 

「わたしは、わたしから、ときはなたれる」

 

 ごきん、と大きな音が鳴った。がくん、と奈津美の体が横倒しに折れ曲がった。

 めきめきと、ばきばきと嫌な音を立てて、奈津美の体が歪に曲げられていく。腹部の渦に肉と骨を巻き取られていくように、捻れ、引き絞られて小さく小さく折りたたまれていく。

 手からこぼれ落ちたリボンを反射的に受け取った敷島の目の前で、奈津美は捻くれ引き攣った皮に覆われた肉塊に成り果て────肉を内から割り開いて、それは現れた。

 

ギャアアアアアァァ!!

 

 それは、大型犬程度のサイズ感の皮のない獣だった。剥き出しの肉と骨で形作られた、四足歩行を模した気味の悪い何かだった。生命と呼ぶには出来の悪く、死体と呼ぶには活力に満ちた不出来な生命の模造品。生きとし生けるもの全てを冒涜するような化け物が、奈津美だったものから現れた怪物だった。

 腸で形作られた鬣が絶え間なく血混じりの粘液を垂れ流す。のっぺりとした顔らしき場所には目が存在せず、人の原型を残した鼻がひくひくと震えている。太く頑強に束ねられた筋肉で構築された前脚に比べ、後ろ脚は大腿骨のようなものに白く細い紐が絡みついているだけでろくに機能しているようには見えない。

 腹部まで大きく裂けた口で咆哮を上げた獣は、肋骨を思わせる牙をガチガチと鳴らした後、目の前に膝をついた敷島を一息に押し倒した。

 

「うおっ……おおおおおお!?」

 

 頭を狙った噛みつきを咄嗟に身を捩ることで紙一重でかわす。獣は木もリノリウムも知ったことではないとばかりに容易く床を食い破って、改めて腐敗に満ちた息を敷島へと吐きかけた。

 獣から滴る体液が、じゅうじゅうと音を立てて敷島を灼いている。そこに含まれた穢れに体液に触れた肌が黒く染まり、ぶくぶくと不吉に泡立ち始めた。獣は敷島に完全にのしかかり、抜け出すのは容易ではない。

 絶体絶命の窮地。堪らず敷島は()()()の入った内ポケットへと手を伸ばすが、獣による前脚の叩きつけを防御するのに利き腕を使わされ、ぐしゃぐしゃにへし折られてしまう。

 

「ぐおぉぉぉ……っ!」

「このっ……敷島さんを、離せっ!」

 

 状況の理解が追いついた児島が、椅子を持ち上げて獣の頭に叩きつける。

 ぐにゃりとした肉の弾力とそれを支える骨に弾かれ、獣は痛痒を受けた様子もない。それでも二度、三度と叩きつける内に、煩わしそうに児島の方へと意識を逸らした。

 チャンスは、その瞬間しかなかった。そして敷島は、そうしたチャンスを見逃すような男ではなかった。それが、どれだけ痛みを伴う選択であっても。

 

「くそっ……くそおおおおおおおおっ!!!!」

 

 素早く内ポケットへ忍ばせた左手で器用に切り札の柄を掴む。口早に唱えた文言に反応して鞘が外れ、服を切り裂きながら黒い刀身が獣の頭部へと滑り出した。

 がぁん、と音を立て、真っ黒な短刀が獣の纏う穢れに干渉されて動きを止める。敷島が歯を食いしばりながら渾身の力を込めるとその拮抗は崩れ、ずぶりとその刃が獣の鼻へと突き立った。

 

 仰け反って暴れる獣の隙を突いて、素早く拘束から抜け出した敷島が椅子を振りかぶる児島の手を止める。有無を言わさず教室の外へと引っぱるその腕は、干からびたように細く生気を失って、枯れ枝のように成り果てていた。

 

「敷島さん、腕っ」

「今は良い! 喋ってる場合か!」

 

 怒気に溢れる敷島の形相に、児島は何も言えなくなる。ぐらぐらと煮えたぎる激情の矛先が、自分にも向いている事実に気がついたからだ。

 かろうじて敷島のポケットに引っかかる青いリボンが血に染まり、変わり果てたその身を力無く揺らしていた。

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