敷島に手を引かれて飛び出した先は、薄暗闇に支配された廊下だった。教室が並んでいたはずの場所は木張りの壁に埋め立てられており、窓は不気味な弾力の幕に覆われている。二人の背後では再び扉が消え失せたことを敷島は見逃さなかった。それは、あまりにも児島にとって都合の良い展開だった。
敷島は、獣のような形相で児島を睨みつけた。そこに込められた怒気と敵意の苛烈さに竦んだ身を、胸ぐらを掴むような形で壁に押し付ける。枯れ木のようになってしまった左腕は今にも朽ちそうなほど頼りなく見えるのに、意外なほどの力強さで児島の身動きを封じた。
「いたっ……! くるしいって、しきしまさんっ」
「面白いことを教えてやるよ、児島」
児島の訴えに被せるように敷島が獰猛に笑う。牙を剥くような笑みには一欠片の情も哀れみもなく、瞳の奥に燃え滾る怒りだけが敷島の心情を表していた。
「今ようやくわかったんだ。ずっとずっとお前のことがわからなくて観察してきたが、ようやくわかった。この騒動の原因は、お前だ」
「なに、いってっ」
「いいか! この学校は、この学校はなあ!」
吠え立てるように怒鳴る敷島は児島に顔を寄せて、囁くように、その事実を口にする。
「とっくに廃校になってるんだよ。四年前の、境界災害でな」
「……え?」
児島には、敷島の言っていることの意味が分からなかった。だって、自分には記憶があるのだ。
昨日までは何事もなく学生生活を送っていた自分を。バカみたいな話で笑い、また明日ねと約束を交わした友達を。どれだけ些細な疑問を聞きに行っても、優しく答えてくれた先生を。
覚えている、この学校で行われていた営みを。四年も前の話ではない。つい、昨日のことなのに。
「四年間、なんでお前だけが無事だった。なんでお前だけが
「敷島さんっ、おちついて、私、何の話かわからない!」
児島の必死の叫びを完全に無視して、敷島の詰問は続く。怒りに支配された彼の頭の中では今、数多の疑問がひとつの答えを導き始めていた。
肉体を持つ界異。人の腹を食い破って現れた獣。被害者たちが何の抵抗もなく骨肉を抜かれていた理由。女生徒が発熱と腹痛を訴えるという予兆の意味。
興奮した脳がスパークを起こし、その全てが指し示す答えを、敷島は叫びとして吐きかける。
「元凶の界異は
児島の息が詰まる。敷島の言葉は処刑者の刃のように鋭く児島の心の中心を穿ち、抉り抜いた。生まれ変わりたい────満ち足りることのできる自分に。違和感に付き纏われず、全てを素直に受け入れることのできる新しい自分に。具体的な形を持たなかった無形の願望を言い当てられて、児島は初めて、心の底からの動揺を味わった。
「お前は間違いなく界異と共鳴している。だから奴らはお前を傷つけない。お前の存在が奴らを引き寄せた。だから奴らはお前に都合良く行き先を用意する。お前が! お前が居るから、みんな、みんな死んだんだ!」
ぽたりと、雫が床を濡らした。児島が流した涙が静かに頰を伝い、雫となって二人の間に落ちる。
その様子を見て、敷島が鼻白んだように勢いを落とす。それでも、敷島はこの糾弾を止めるわけにはいかなかった。
自分の限界が近いことを、悟っていたからだ。
「それなら、……それなら、私はどうすれば良いの? 私が居たから皆が死んだのなら、もう、何をしたって取り返しはつかない。ぜんぶ手遅れで、そうなってもまだ私にできることはなにもない」
児島の声に、次第に嗚咽が混ざる。沈静化し始める怒りを唇を噛み締めて奮起させ、視界にちらつき始める幻覚を追い払おうと意志を固める。
赤く暗い空間。一定のリズムで空間を揺らす音。暖かさに包まれ、隣に感じる存在への安堵。
全てが自分のものではないと区切りをつけて、追い払う。それでも油断をすれば呑まれてしまいそうだった。目の前の彼女に途方もない懐かしさと、その手への執着めいた渇望が湧き始める。せめて、目を潰してしまえば心を侵す幻覚からも逃れられるだろうか?
「お前にできることは、生きて帰ることだけだ。そうしたら……少しでも悪いと感じてくれるなら、たのむ、これを、奈津美の母親に」
胸ぐらから手を離して、ポケットから垂れ下がっていた血染めのリボンを児島に握らせる。呆然とした様子でそれを受け取って、緩慢に頷く姿を見て、気が緩んでしまった。
───きぃん、こぉん、かぁん、こぉん
間延びしたチャイムが辺りに響く。腹の辺りが引き攣り、ぐるりと渦を巻くのがわかる。それはまるで、窮屈な自分の体を、何かが回りながら無理やり押し通ろうとしているような奇妙な感覚だった。
ああ、でも。なんだか悪い気分でもないような気がする。つらくて苦しいことが多く、しがらみばかりだった生を何かが肩代わりしてくれようと言うのだ。
肉が捩れる。未練が終わる。これでようやく、一休みすることができる。
悪いな、児島。一足お先にってやつだ。
おれは、おれからときはなたれる。