ブウウゥーン……と重低音が余韻となって消え失せる。浮遊と落下が無限に続くような奇妙な眩暈感の中で、二人はようやく地に足がついたような心地だった。
重く湿った空気が体に張り付き、微かな鉄臭さが鼻をつく。
「なんっ……だ、今の?」
気がつくと、視界に映る風景は不快に捻くれていた。大枠は教室らしさを残しながら、その材質が異常だ。リノリウムと畳が奇妙に浸食しあう床に、コンクリートの中にマーブル様に溶け込んだ古い木材の壁面。窓にはもはや何であるかもわからないブヨブヨしたゴム質の物体で覆われて、外を覗き込むことはできないようだった。
「……ヤバいな。こりゃマジモンを引いたか?」
現代人であれば誰にでも、こうした異常現象に心当たりがあるものだ。
境
しかし、ネタとして追うのはともかく、巻き込まれるのは非常にマズい。界異対策の専門たる祓魔師達と異なり、一般人には界異に対する抵抗手段は何一つない、というのが常識であった。
試しに通報しようと携帯を取り出しても、当然の権利というように圏外の文字が踊る。何が起こるかわからない異界の中で、丸腰の男女が二人。状況の劣悪さに、さすがの敷島も冷や汗が滲む。
「なんでそんなに冷静なんですか……! 状況分かってます!?」
「いや焦ってるってこれマジで。むしろ状況分かんなくて焦ってるんだって」
「気づいてませんね気づいてないですね耳澄ませてください耳っ、音!」
「音ぉ?」
『じ、ぁ゛ぃ、じぁ゛』
教室の入り口。薄暗闇に包まれた扉の向こう側から、何かが聞こえてくる。ひどくしわがれた、金属が擦れるようなそれが、かろうじて声であると判別できたのは何度も何度も何度も何度も同じ響きを持って繰り返されているからだ。
思わず黙り込んだ二人の視線が集まったのを契機に、扉が鈍い音を立てて震え始める。向こう側から、何かが扉を叩いているのだ。
「マジかよマジかよマジかよマジかよ、今来られてもどうしようもねえぞこれどうすんだよ」
「知りませんよ! というかあんまり騒いじゃ向こうに気づかれちゃうでしょっ」
「気づいてるから入ってこようとしてんだよああ、もう!」
執拗に与えられる衝撃に、引き戸がレールに沿って滑り始める。肌色の何かが戸の隙間から覗き始めた瞬間、敷島は少女を有無を言わさず教室の隅の掃除ロッカーへと放り込んだ。
その代償に、敷島自身が隠れる時間も、場所もない。……見たくなんてないのに、室内へと入り込んでくるそれを見ずにはいられなかった。
『みぃ、けだ』
――――引き戸の隙間から見えていたのは、人の指だった。
いや、正確には、人の指らしき何か、だった。
指に続いて姿を見せたその輪郭もまた、指。
ゆっくりと全容を露わにしたそれは、うぞうぞと蠢く大小の指で構成されたサソリのような形の異形。不吉に青ざめたその体躯はいかにも生気を失っていて、冷えた温度をこちらにまで伝えてくるようだった。
でこぼこと節くれだったそれは、三対の脚を模したような指で体を支えて、尾部に当たる細長い指先にくっついた眼球で敷島を見上げてきている。
大きさは敷島の拳よりも少し大きい程度だろうか。やけに人を想起させるパーツで揃えられたそれは、やけに人らしく驚きに体を震わせて、やけに人らしく、体の中心でぱっくりと裂けた口で笑ってみせた。
「う、おおおおおぉぉぉぉ!」
教室には前後二つの出入り口がある。もう片方の扉へと弾けるように駆け出した敷島に触発されるように、その“指虫”とでも言うべき異形も敷島へと迫る。
二者の間には学習机が並んでおり、直線を移動するだけの敷島が有利であったはずなのに、“指虫”は机から机へ飛び移るように俊敏に距離を詰めて来ていた。
逃げきれない。大の男が全力で短距離走を仕掛けてなお、こんな小さな異形一匹の方が圧倒的に速い。
与し易しと見た“指虫”がケタケタと嘲り笑う。勢いよく顔に飛び掛かるその姿はまるで広げられた手のようで、掴みかかられているような錯覚さえ敷島に与える。
思わず防御に突き出した腕に“指虫”の脚が食い込み、ずるりと皮が突き破られた。思わず痛みに呻いた口の中に、肉を抉りながら腕を上る“指虫”が潜り込む。
拳に似たサイズ感のものをいきなり口に突っこまれて、すんなりと飲み下せるわけもない。それであるのに口中の虫は暴れ、もがき、口の中をめちゃくちゃに攪拌しながら喉の奥へと突き進む。
血の味に、唾液に、口いっぱいを占める異形の指。たまらずえずく様子すらも愉快そうに嗤う“指虫”に敷島の恐怖の糸がぷつんと切れるのを感じた。
――――調子に乗るなよ……!
未だに口に入りきっていない尾部をわしづかむ。往生際悪く奥へ奥へと蠢く体を力任せに引きずり出して、怒りのままに床へと叩きつけた。
横に平たい体は起き上がるのには不向きであるらしい。カサカサと指を振るわせて、どうにもならずに揺れるその様は生理的な嫌悪感を煽る。
衝動任せに踏みつけてやれば、不快な柔らかさを足に残して呆気なく潰れてしまった。赤黒い血しぶきが広がり、甘ったるい腐敗臭が辺りに広がる。死んでなおも胸糞悪い敵だ。剣呑な顔つきで血液混じりの唾を吐き捨て、そこでようやく掃除ロッカーの扉から覗く怯えた目に気づく。
子供に暴力的な姿を晒してしまっていることに気づいて、敷島は気まずそうに両手を上げ、へたくそな愛想笑いを浮かべた。