【完結】黄昏の輪舞   作:扇架

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十一話

 生白い手が、杖を握っている。縋るように、あるいは救いを求めるように。

――あっけない

 彼女は魔女のやつれた頬に手を触れる。羊皮紙のような乾いた感触は、生者のものではありえない。一族で最も濃い血を受けついだ魔女も、死神には勝てなかった。

 銀の髪から艶は失われ、双眸は瞼に閉ざされたまま。

「これは私が受けつぐべきものです、母上」

 囁いて、杖へ手を伸ばす――触れる直前、止まった。

――これを手に取れば

 彼女は『選定』される。骨のように白く美しい、その内に一族の歴史と怨詛を刻みつけた呪物に。杖の眼にかなわなければ、殺されるのだと伝えられていた。

――最も濃い血、最も強い魔力

――選ばれるはずだ

 一族最後の一人。家名を継ぐ者なのだ。そして、彼女には血を伝える義務がある。

 眼を閉じ、開く。手を――伸ばした。

 

 

 霧のような雨が髪を、衣をくっしょりと濡らす。だが、彼の鼻腔には鉄錆の臭いが残っていた。

――いずれ討手が放たれるだろう

 混乱した状況が続くにしても、彼らは怒りをもって追ってくる。逃げねばならない。なんとしても。

 身体が重い。ひどく重い。転移の術を立て続けに使用したせいだ。

――痕跡を辿られなければいいが

 それは甘い見通しというものだろう。追っ手は心得ている。

――何をしたという

 元々溝を刻んだのはあちらだ。自分を冷遇したのだ。あれぐらいは当然というものだ。そうして行動し――斬ったのだ。だが、彼もまた無傷ではいられなかった。

 血はなんとか止めたが、失われた体力はなかなか戻るものではない。

――正しいはずだ

 『外れた者』になるしかなかった。

 新たに一歩踏み出そうとして、よろめいた。視界がぶれる。月光を受けて銀色に輝く樹々が滲んでいく。傾いでいく身体で、必死に木肌に爪を立てる。

――生きなければ

 生きなければ。生きなければ。生きなければ。

 意思に反して力が抜けていく。泥の中に転がり、喘ぎながら手を伸ばした。

「あらあら」

 軽やかな笑い声が聞こえる。誰かが、手を取った。ひんやりした手だ。双眸が覗き込んでくる。深い色合いに、息を呑んだ。

「お前は、」

「ねえ、私についてくる気はあるかしら? かわいそうな■■」

 

 戦場に舞うのは土埃と、グリフィンと、魔法の光――そして、刃の輝きだ。

 振り下ろされた刃を避ける。

「お前は、ユスティヌだな」

 小さく嗤う。黒髪に群青の両眼――ランパント。忌々しい宿敵。

「そうだが」

 白い杖を構える。相手は素早く攻撃を繰り出してきたが、またも避けた。

「なぜ私達を攻撃する!? お前達は何なんだ」

「自分達の胸に訊いてみるがいい! 愚かなるグリフィンドールよ」

 嘲笑い、仮面を取った。相手が息を呑む。はくはくと口を開き、震える指で示した。

「な、そ、んな……!!」

「お分かり頂けたかい?」

 するりと近寄り、隙だらけの相手から剣を叩き落し、杖を首筋にひたりと当てた。

「最後に我が名を教えよう」

 囁いた瞬間、首を刎ねた。転、と地面に落ちた頭部は驚愕に歪んでいた。

「幻獣はお前達がつくりだしたのだ、獅子よ」

 一族の血と怨詛が刻まれた杖を――小さく刻印された名に触れる。

 逃げ惑うがいい、過去から。

◇◇◇

 

 

 

 あちこちに配された装飾は、蛇と狼。蛇は自らの尾をくわえ、あるいは柱に巻き付き、狼は天を仰いで吼える。

 自らの一族の紋、それに加えて蛇――代々スリザリンであることを誇りにしてきた純血一族――魔法族としての、濁り無き血統を守り、かつて放逐された創始者の思想に共鳴する者たちに通じる装飾だった。

「幻獣はないのね」

 どこか面白がるような口調だった。

「じきに幻獣も加わりましょう」

「そしてユスティヌにも狼が入る?」

「名誉なことです」

 ブラック本家当主たる父が膝を折る。息子であるレギュラスも、彼女に向かって黙礼した。仄暗い色の双眸を観察するも、なにを考えているかはまったく読みとれなかった。

――侮れないな

 実質的にスリザリン派の頂点に君臨していた、ブラック一族の当主に膝を突かせるなど誰にでもできることではない。

 父は血統書付きの犬を買ったつもりで、獰猛な狼を呼び寄せてしまったのかもしれない。

――さて

 兄にはとても御すことはできないだろうし、その気もないだろう。基本的に面倒ごとは嫌いであるし、縛られるのはもっと嫌いなのだ。

――賽は投げられた

 ◆

「幻獣と狼……ねえ」

 冬季休暇はホグワーツに残ることが許可される。例年であれば迷わず残るのであるが、今年はリアイスに帰還することを選んだ。一族の動きを探るためである。高貴なる青き血のユスティヌと、純血派を取り仕切っていたブラックが結びつくという報せに動揺しないでいられるリアイスではない。前例がないのだ。幻獣と狼の婚約など。

――連帯が強まる

 ただし、それがすぐさま闇の帝王に有利に働くかどうかは未知数だ。ブラックもユスティヌも旗幟を鮮明にしていない。そもそもが『わからない』状況であるからこそ、名門たちは弾圧を免れている。すべてがあいまいな現在、リアイスが打てる手は少ない。

――おそらくは

 マルフォイ家、レストレンジ家は帝王派だ。必ずスリザリン系の名門は膝を折っている――帝王とてガリオンが無ければ活動のしようがない。

「……これには感謝しなくちゃね」

 書棚から書類の束を引っ張り出す。先代ランパントであった母が残した闇の帝王に関する情報。

『本名トム・マールヴォロ・リドル。スリザリンの末裔』

 ミドルネームのマールヴォロとは祖父の名であるらしい。そして、祖父の姓はゴーント。スリザリンの末裔であり、一族内での婚姻を繰り返し、破滅への路を辿っていた。

「毛並みがよくても、駄目なものは駄目ね」

 ゴーントは生き残ることに失敗したのだ。資金などあるはずもない。父方の家系が名門である可能性もあるが、これは極々低い可能性に過ぎない。そうであれば、帝王は高らかに自分の出自を宣言していたはずだ――自己顕示欲の異常なまでの強さ、と書類には記されている。

――名門なくして彼は活動を維持できない

 とうてい無理だ。

――ブラックは微妙だ

 名門で、もちろん資金はうなるほどある。だが、帝王に一族打ちそろって従うかと問われれば違う気もする。彼らは誇り高い。出自のわからない魔法使いに易々と忠誠を誓うとも思えない――が。

「ベラトリックス・ブラック……ですか?」

 声に、振り向く。即座に杖を引き抜き、構えた。漆黒の武器の先にいたのは、イルシオン・リアイスだ。

「きれいな動きです」

 ゴールデンオレンジの両目をもつ一族は、勝手に椅子を引き寄せて座った。いつものことである。

「開心術でも使ったのかしら」

 警戒しながら言えば、イルシオンは薄く笑って両手を広げた。

「まさか。貴女だって外部の魔法干渉には気づくはず……私は読みとれるものを読みとっただけですよ」

「魔法じゃなければなんだっていうの?」

「唇の動き、視線の向き。表情の微妙な変化。魔法ではない。ただの技術に過ぎない。魔法族はそういうものをおろそかにしがちですがね」

 やはり変わっている。要はマグルの方法であり、普通は無用なものとして見向きもしない。戦闘の際の身のこなしは重要なので叩き込まれるが、こういった非戦闘的なものに関しては、リアイスは疎いのだ。

「さてランパント、マグルの技術を使うメリットは?」

 イルシオンは教師のような口振りで言う。リーンも椅子を引き寄せて座った。しばらく考えるまでもない。

「魔法ではないから、気づかれない。詠唱もいらない。魔力の消費もない」

「そのとおり。相手が知らないものを手札にするのは、大事なことです」

「……だからマグルの技術も使う、と」

「誇りだのなんだのは私にとって邪魔なのです。もともと、魔法族もマグルも大した違いはありません」

 紅茶のセットを呼び寄せようとしていたが、杖先が止まる。まじまじとイルシオンを見た。「熱烈ですね」と茶化されるが、それも気にならない。

「斬新ね」

「おや、リアイスはマグル擁護派だったはずですが。貴女は魔法族とマグルは違う種族とお考えで?」

 ぎくりとした。

――昔、同じようなことを言われた

「ふむ……別にマグルが嫌いなわけではないが、それでも魔法族とは違う、といったところですか」

 小さな笑い声が響く。

「貴女は顔に出すぎる。気をつけたほうがいいでしょう……さてランパント、マグルの歴史はご存じで?」

「今は魔法族の歴史だけで手いっぱいよ。あれだけはどうも成績がよくないのよ」

 本当のことだった。歴史はあまり興味を持てない。魔女があまり出てこないからかもしれないし、リアイスの名がちらほら出てくるせいかもしれない。楽しい授業とはいえなかった。

「第三帝国」

「……ドイツ?」

 正解、とイルシオンは微笑んだ。

「神聖ローマ帝国を第一、ドイツ帝国を第二、それを引き継ぐ、第三帝国……劣等種族を排除した、選ばれた者のみの国」

 似ているでしょう、と続けられ首貢した。それ以外のどのような反応を返せなかった。

「ええ。劣等種族の排除というのが特に。闇の帝王はドイツかぶれなのかしら?」

「強い劣等感を持つ人間の考えることはたいてい同じということでしょう」

 ともかくも、と続ける。

「ヒットラーは最高の演説家でした。彼は民衆に語りかけた。戦争に敗け、踏みにじられた国土と経済の復活を。あるべき民族の誇りを。国民は熱狂した。労働者の味方だと信じた」

 それから先は熱狂、そして独裁。

「徹底的に劣等種族を排除しようとした。ナチス親衛隊SSに入隊するのにもありとあらゆる身体検査が行われた。骨格、足の長さ、瞳の色。髪の色。アーリアであることの証明を求められた……どう思われます?」

「バカげてるわね」

 イルシオンは指を振る。

「ですがそのバカげたことが、実際に行われていたのですよ。すべては民衆が熱狂し、就かせてはいけない座に就かせてはいけない男を押し上げたから。ランパント、よく覚えておかれるとよろしい。いくら悪行であれど、圧倒的な支持を受ければそれは正義です」

「嫌なことね」

「それがこの世界です。覚悟しなさいランパント。正義など曖昧で絶対などありえないと」

 そして歴史は勝者によってつくられるのだと。

 

――凍らないのだ

 これほど、寒いというのに。

 吐く息は外界の汚れに触れて濁る。

――自分の心臓は動きを止めていない

 そして――と彼は頭を巡らせた。薄汚い床の上に、男が転がっている。眼は見開かれて、宙をにらむのみ。腕には穴がいくつも空いている。どのような術をもってしても、二度と起きることはないのは明らかだった。

 家の中は荒らされていた。そして、父が死んでいる。いままで、彼や母親の人生を暴力で彩ってきた悪は滅びた。

「……これで満足かしら」

「ああ」

 絞り出した返事は、自分の喉から飛び出たものとは思えないほど震えている。敵は排除された。だというのに、喜びや昂揚はない。まったくといっていいほどに。

――望んだのだ

 彼は幻獣の手を取った。なにが起こるのかをわかっていながら。己の保身と、母親の保護のために。いいや、それだけではない――。

――己の中の、忌まわしい血を消し去りたいがために

 不要なものだった。だから、切り捨てたのだ。

「さあ、いらっしゃい」

 女の声は、魅惑的だった。人間を惑わし引きずり込むセイレーンの歌声とはこのようなものなのだろうか。

「新しい世界が開けるわ」

 なんと応えたのかわからなかった。だが、彼はその瞬間から秘密の箱をもったのだ。

――いくつも増えていく箱の、最初の一つを

 

 まだ当主の座は空席なのですか、と誰かが言っていた。先代が亡くなって二年になるのに、とも。

 リーンが耳を澄ませる。一族の会話を一言も聞き逃すまいとした。

「アシュタルテ翁の裁量にかかっているわけであるしな……」

「しかし、簡単に解決はできるでしょう? 候補はいる。それか、泡沫の候補者たるリーンと、他の候補者を結びつければよい話。夫が実権を握ればすむ――」

 所詮あの娘は器に過ぎない。血の器でしか。

 苦笑を刻む。まさか本人が聞いているとは思っていないのだろう、言いたい放題だ。

――仕方がない

 これも本家当主の座が空席だからこそだ。埋まれば何も言われない。

「誰かが、埋めなきゃ……」

 祖父が何を考えているのか、一族の誰にも読めはしない。今は彼がいるからリアイスはまとまっているようなものだ。けれど、正式は当主が立たなければ――いずれ瓦解するだろう。それがわからないはずがない。なのに、祖父は動かない。

――スリザリンでさえなければ

 リーンがその座を埋めていた。きっと祖父を後見にして、先代の跡を継いでいたはずだ。それも今では虚しい仮定に過ぎない。

 組分け帽子は何を考えてリーンをスリザリンに放り込んだのだろう。グリフィンドール直系だと知りながら、なぜ。それこそが現状の始まりなのだ。

 声は遠ざかり、やがて消えた。

 

 冬期休暇からホグワーツに戻ると、セブルスの父の訃報を聞かされた。情報源は校長だった。

「彼の、父が……」

 一言だってそんなことを聞いていない。顔色が悪いとは思っていたが、そんなことになっているとは思わなかった。

――言えなかったのかもしれない

 沈黙を破ったのはダンブルドアだった。彼は茶器を差し出しながらも、続ける。

「強盗が押し入ったそうじゃ……ちょうど、セブルスとアイリーンはダイアゴン横町に出かけていたようでの」

「それは、よかった……それで、犯人は」

 彼は資料の写しらしきものを卓に滑らせた。

『スネイプ氏殺害の犯人は地元の麻薬中毒者たちである。彼らは酒場でスネイプ氏と諍いを起こしたことを根にもち、犯行に及んだ模様である。凶器はコルト・キングコブラである。氏は計十四箇所に弾丸を打ち込まれて死亡していた――』

 弾丸というからには得物はマグルが使う『銃』というものだろう。

 何もおかしい点はないように、見える。

『――犯人はいずれも錯乱状態であった』

 目を見開く。いずれも錯乱状態であった。

「先生……」

 資料を握りしめる。答えを求めるように、ダンブルドアのライトブルーの双眸に焦点をあわせた。

――あの襲撃を思い出す

 らしからぬ強襲。アズカバンに収監された一族。自らの無実を叫び、最後には狂って死んだ。

「背後に誰かがいるだろう……そう、お考えですか」

「君にもわかっているはずじゃよ、リーン」

 答えられなかった。ただ黙って、殺された哀れなマグルの名を撫でた。

――結局、スネイプ氏の事件は警察によって他殺と断定された

 そして、一月のちに、犯人たちは自殺していた。

 事件はマグルたちの記憶から速やかに消え去った。彼らにとっては他人の死さえも娯楽なのだ。

 

「何の用だよ?」

 向けられる視線も気にすることなく、紅海を渡るかのように堂々とグリフィンドールのテーブルまでやってきた生徒に問いかけた。

「婚約者に向かってそれはないでしょう」

 シリウスは相手の眼を見つめ返した。暗い紅藤色。深い知恵を感じさせるが、彼への情愛は欠片もない。それでいて、しゃあしゃあと婚約者と言ってのけるのだから図太いものだ。

「俺は頷いた覚えはない」

「そんなこと知ったことではないわ」

――これだ

 存在を無視することにしよう。そう決意すると、コーヒーを流し込んだ。だが、ユスティヌは当然のように隣に座る。

――ジェームズの野郎

 面白がってユスティヌに席を譲るなんて、どういう神経をしてるのか。それでも親友なのか。

 脆い友情について考えを巡らせている暇はなかった。

「結婚は家どうしがするものでしょう。正直貴方個人の感情なんてどうでもいいし、決定事項よ」

「お前個人の感情もないのか?」

「私はユスティヌで、ユスティヌは私そのもの。疑義を挟むことはないわ」

 勝手に朝食を食べている横顔を見る。仮面をつけたのかと思うほど、感情が読みとれない。

 気がつけば、唇が動いていた。

「お前は人形なのか」

 次の瞬間、ユスティヌがこちらに顔を向けた。双眸に炎が躍っている。魔力が肌を刺した。

――尾を踏んだ

 完璧な仮面に亀裂を入れてしまったのだ。背に汗が滲む。

――マズった

 そんなことばかりが頭をぐるぐる回る。

 ユスティヌは微笑む。獲物をどう食らおうかと考えている風にしか思えなかった。

「そう思っていればいいわ」

 彼女は椅子を引き、立ち上がる。

「ただ……運命から逃げ出したいのなら、なにかも捨てて逃げなさい。シリウス・ブラック」

 その先になにが待ち受けていても知らないけれど。

 紡がれる言葉は予言の響きをはらんでいた。

 

 

 リーンが見ている限り、シリウス・ブラックはユスティヌのことを好いていないように思えた。ユスティヌは面白がってちょっかいをかけているようだが、彼の顔には迷惑だと大書されている。

――疫病神をつけているようなものね

 気に食わない相手とはいえ、さすがに同情したくなる。ブラックは明らかに生家を嫌っているのだったし、レギュラスによると突然決められたらしい縁談なので寝耳に水だろう。

「結婚したら確実に手のひらで転がされるでしょう」

 スリザリンの談話室で、レギュラスが苦笑を漏らす。口は動きながらも、手は止まっていない。

「そこはマンドレイク……ええ、そうでしょうね」

 レポートの穴を指摘しながら頷いた。ブラックとユスティヌの相性は最悪だろう。純血主義を毛嫌いするブラックと、純血の頂点に立つユスティヌが迎合するはずもない。

 ブラックが平均的なブラック一族の男であれば話は簡単に済んだ。ユスティヌとの婚約をすんなり受け入れたことだろう。

 リーンはレポートを見ているようで見ていなかった。どんどん自分の思考に没頭していく。

――賭けだ

 婚約により互いの権威は強化されるだろう。だが、失われた王であったユスティヌ一族が本来は臣であるはずのブラック一族と結んだということは潜在的な敵をつくりだしたということでもある。

 対等な結びつきが維持されれば益ではあるが、どちらかが主導権を握ろうとすればたちまち崩壊するだろう。あらゆる王権、政権の例に漏れず一番の敵は自らの有力な臣下なのだ。

――私は

 リアイスだ。どうしてスリザリンどもの心配をしてやらなくてはならない? 彼らの婚約はグリフィンドール派にとって脅威でもあり隙でもある。ならば、リーンはその隙が訪れることを祈るべきだった。

「まったく、スラグホーン先生の課題は難しい」

 レギュラスの声で我に返った。遠ざかっていた雑音が舞い戻ってくる。つい、彼の灰色の眼を見つめてしまう。兄であるブラックとそっくり同じ色合いを。

「先輩?」

「いいえ。そうね、そこはニガヨモギよ……面倒な課題を出してくれたものね」

 羽ペンのカリカリという音に耳を傾けながら、小さくため息をついた。

 今は特に動いていないユスティヌだが、それが目覚めたときはブラック一族は従うだろう。ならばホグワーツという箱庭で守られている仮初めの平和は崩れてしまう。そして――この後輩も敵になるのだろう。

――いつまでもこのままでいられたら

 それがいかに無駄な願いなのかは、リーン自身が一番分かっていた。

 

 季節は飛ぶように過ぎて、夏になった。パッサント城のありとあらゆる魔法がかけられ、快適に室温が調整された部屋の中、リーンは手の中の鏡に向かって話しかけていた。体調がよかったり悪かったりと安定しないので、声はかすれ気味だ。

「ブラックが家出したですって?」

「そうなんだよ! 今、僕の家にいるんだけどね」

 両面鏡の向こうから、ジェームズの楽しげな声が聞こえてくる。榛色の双眸はきらきらしていた。面白くてたまらないという風だ。反対に、リーンは顔をしかめた。

――大胆すぎる

 名門長子が家出なんてそうそうあることではない。いいや、あってはならないことだった。

「よく、それだけの資金があったことね」

 出てくるのはくだらない感想だ。ジェームズはリーンの困惑など知るよしもなく、弾んだ声で続けた。

「叔父さんが援助してくれたんだってさ。ねえ、それよりも今度ダイアゴン横丁に行こうよ。君、しばらく城から出てないんだろ?」

「……ブラックも一緒なんでしょ、どうせ」

「そりゃ僕とシリウスはセットだからね」

 凶悪なセットもあったものだ。どれほど価格が安かろうが、リーンなら絶対に買わない。手元に置いておくにはあまりにも危険すぎる。

「へそ曲げないでよ。僕とは買い物行きたいでしょ」

「ええ」

「じゃあいいじゃないか」

 なにがどう「じゃあ」なのか。自分の都合の良いように話を運ぼうとし過ぎだ。結局、リーンが折れた。

「分かったわよ」

 ひとしきり話し、両面鏡はただの鏡に戻った。ぱたんと閉じてポケットに放り込む。対はジェームズが持っている。ただ、分割して術をかけ直せば対象を複数にすることも可能だった。

――ブラックに渡すんでしょうね

 なんとなくむっとする。いつかの誕生日にジェームズに贈ったものなので文句を言う筋合いはないのだが、ことあるごとにリアイスだからといって突っかかってくるバカに渡さなくてもいいではないか。

「……シリウス・ブラックが――ご機嫌斜めですね、ランパント」

 堂々と入ってきたイルシオンはなぜか猫を抱えていた。三毛猫で鼻柱の強そうな顔つきをしている。

「その子は?」

「ランパントと猫について雑談するというのが、今日の名目でして」

「バカにされているわね、貴方」

 完全に可哀想な爪弾きもののお嬢様の話し相手に認定されてしまっている。つまるところ閑職だ。よほど無能だと思われているのではないか。

「バカにされすぎなんじゃない、貴方」

「そちらのほうが都合がいいです」

 猫がイルシオンの拘束からぬけだし、ふてぶてしい顔でリーンの膝に乗ってきた。重すぎるということはない。動けないので杖で紅茶を淹れるために必要な諸々を呼び寄せ、言われる前にイルシオンに注いだ。

――図太い人が多すぎないか

 ジェームズもそうだし、イルシオンはもちろんだ。ユスティヌも、そうだろう。ブラックはいうまでもない。もっとまともなのはいないのだろうか。

 うんざりしながら茶器を傾けた。イルシオンの視線がじっと注がれているのに気づいて、茶器受けに戻す。

「……何か?」

「味の好みが変わりました? 以前とは違いますね」

「いいえ?」

 もう一度紅茶を飲んでみる。別になにも変わった気はしない。たまに甘いものや辛いものが猛烈に食べたくなるのと一緒で、少し体調が変化しているのかもしれない。

「好みは変わりますしね……変わるには、貴女はいささか若すぎるような気がいたしますが」

 言って、イルシオンが紅茶を飲み干した。

「それで、ブラック家の一件はもう耳に入っていたのですね」

「さっきジェームズが」

 ああ、ポッター家に身を寄せているのでしたか、と呆れたような口調だった。

「これで彼が当主になる可能性は無きに等しいわけですか……今頃、大騒ぎでしょうね」

「どうかしら……」

 猫の首を掻いてやる。滑らかで気持ちよい手触りだった。

「レギュラスがいる……代わりが」

 口にしながら、苦いものがこみあげてくる。ふと、ブラックと自分が重なる。

――代替品がある身。異端であり必要とされない存在

 自嘲する。

 彼は家を棄てたつもりだろう。だが、本当に棄て去ることなどできはしない。リーンが群青色の虹彩を持って生まれたように、ブラックは一族特有の色彩を持って生まれ出た。どれだけ厭おうと血を抜き去ることなどできないのだ。

――自分からは逃げることはできない

 それを、彼は分かっているのだろうか

 

 思わず、手紙を二度読み返した。

「どうしたの?」

 母親の怪訝そうな問いかけも、意味を掴むまで時間が掛かる。

「ああ……ええと、シリウスが家を出たって」

「シリウス――というと、あのブラック家の?」

 日刊予言者を見るともなしに見ていた父親が顔を上げた。いつも穏やかな光をたたえている眼は、驚きに彩られている。

「そうか。お前の友人だったな」

 うん、ともう一度頷いた。父は新聞の端を綺麗に揃えて畳んだ。何かを考え込むように視線をさまよわせる。

「グリフィンドールに入ったというし、お前に偏見もない良い友人だからあの家には馴染まないだろうが……いままでいないわけではなかったのだし」

 彼の問いかけるような視線に気づいたのか、父が続けた。

「お前たちの世代より何代か前、追放された魔法使いがいたのだよ。できそこないだからといってね。名門にはつきものだった……そう、我々ルーピン家ももとは本家から弾き出された家なのだよ」

 初耳だった。

「理由は?」

 さあ、と父は言う。

「何代も前の話だ。それに、珍しくもなかった。名門は不要な枝を切り落として生き残る。どの家だってね」

 ブラック家を出たシリウスのことが思い浮かんだ。家を毛嫌いしていたシリウス。逃れたがっていた彼。そうしてマグル生まれと駆け落ちしたアンドロメダのことも思い出した。鎖を引きちぎって自由を手にした二人を。

 カタ、と窓が鳴った。リーマスは顔をこわばらせる。重なる羽ばたきの音。父が立ち上がりかけたが制した。ゆっくりと窓へ近寄って開け放つ。フクロウが何羽も飛び込んできて、荷を下ろした。

――差出人はリアイス

「いいのよ、私が開けるわ……」

 細い声で言った母に首を振った。

「いつものことだから、僕がやるよ」

 包みを開ける。指先が細かく震えているのに気づいて苦く笑った。そろそろ慣れてもいいころなのに。

 幾重にも巻かれた布を取り去ると銀色が顔を覗かせた。それは鎖だった。人狼を拘束するためのものだ。

 込められた呪縛の力が触れた手のひらを通じて伝わってくる。リーマスが人狼になってしまった時からリアイスに依頼している魔法具だった。長期間使える分価格は高い。そのことをリーマスはよく知っていた。

――武器もある

 両親は心ある人間だ。だから、リーマスを殺そうとはしない。けれど、いつか包みを開けた時、その中に剣があるのではないかと怖れていた。古代語が隙間無く刻まれた、人狼殺しのための魔法具はリーマスの命を速やかに奪うだろう。

――鎖と武器ならばリアイスに

 対巨人用の鎖、人狼用の鎖。あらゆる闇の生き物を縛るための鎖は、リアイスがつくっていると言われている。もちろん、武器も。そして――。

――殺せぬのならば、リアイスに託せ

 人狼の家族を持てば、繋がりが生まれる。噂はひそやかに流れる。

――堪えられぬのならば銀の手を取れ、と

 苦しむ家族を救う救済の手。人狼殺しの専門家はいるのだろう。リアイスは闇と戦う一族だ。いないわけがない。

 リーマスは包みを戻して鎖が見えないようにした。椅子に元のように腰掛ける。

「リアイス家の令嬢と友人だったか?」

「うん……」

 父は鎖から眼をそらせながら、つぶやくように口にした。

「確か、ミスラ・リアイスの娘だったか……皮肉だな」

 眼を瞬かせる。闇の帝王に殺されたといわれる、リーンの父。彼がどうかしたのだろうか。

「あの人は脱狼薬をつくっていたのだ。友人のためにと……」

 口調は懐かしむ色が強い。だが、すぐさま憎々しげなものに変わった。

「だが、その友人はミスラを襲った……人狼を救おうとしていた友を。リーン嬢は知らないだろうがね」

 問いかけるのが恐ろしかった。手のひらに汗が滲む。

「その人は誰……?」

 強い眼で、父がリーマスを見た。

「我々の仇敵でもある。フェンリール。フェンリール・グレイバック」

 ◆

 ダイアゴン横丁はあまり混雑していなかった。立ち止まって長話している人はおらず、いたとしてもそそくさとその場を離れてしまう。

――気が滅入るわ

 もっとも、原因は横丁の雰囲気ばかりではない。隣にいる魔法使いのせいでもある。

「わざわざリアイスを誘わなくたっていいだろ、ジェームズ」

「だって、リーンは僕の友達だし、シリウスだって僕の友達じゃないか。誘わない道理はないだろ」

 楽しそうなのはジェームズ一人だ。三段重ねのアイスをおいしそうに食べているせいなのかもしれない。リーンならおなかを壊すことは間違いない。ブラックはジェームズが手に持つアイスを見て「信じらんねえ」と呟いていた。気持ちは分かる。

「……まあ、いいけど。お前の家に厄介になってるわけだし」

 ぼそぼそっと言ったブラックに、ジェームズが笑う。

「そうとも。敬いたまえよシリウスくん」

「お前のその、すぐ調子のるとこが嫌なんだよぉぉ!!」

 くだらない争いがはじまった。通行人はちらちらこちらを見ているし、穴があったら入りたい気分だ。

――もう五年生になるのに

 いつまで頭の中はバカなのか。いっそのこと一人で行動しようかと思ったが、ジェームズにすかさず捕まえられる。

「どこいくのかな、リーン」

「単独行動したっていいでしょ」

「よくないね。物騒なんだから固まって行動すべきだよ」

 正論だった。素直に頷きかけたものの、ブラックがぶち壊した。

「お前なら襲撃受けたって返り討ちにするだろ」

 しれっと言われてなんとなく腹が立った。つま先をえぐるように踏みつける。悲鳴が上がろうと構わない。

「おまっ……」

「いきましょ、ジェームズ」

「つま先はだめだよ」

「そういう問題じゃねえよ!!」

 ジェームズがこらえきれずに爆笑する。リーンも小さく笑った。だが、壁に貼られた手配書に足が止まる。

 歯をむき出しにして唸る男――フェンリール。

――リアイスの敵の一人

 ジェームズとブラックも立ち止まり、鋭い眼で手配書を睨む。

「おい、ジェームズ、リアイス……たぶんこの中にベラトリックスもいるぜ。まだ手配はされてねえが」

 厄介なヤツだから気をつけろ、とブラックは続けた。

「ポッター家も、リアイス家も、俺も一緒くたに狙ってくるだろう」

 手配書に向けた顔を、ブラックに戻した。思わず息を呑む。青い炎が彼の双眸には躍っていた。

――数週間後、ベラトリックス・レストレンジとロドルファス・レストレンジが闇祓いと交戦、手配されることとなる。

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