【完結】黄昏の輪舞   作:扇架

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二話

「――許さない」

「赦してなるものか……」  

 軋む女の声に背筋が冷えた。《ランパント》の居室は、紅と黄金の貴色はそのままに、無惨に荒れ果てていた。壁には亀裂が入り、窓は粉砕され、書棚は倒れ、天井は一部が崩れている。

 黄金のグリフィンの激昂の前には実弟たちはなすすべもなかったようだ。《クーラント》も逃げたとみえる。私は柱にもたれかかり、ランパントを眺めた。白い肌、白金の髪、群青の眼……と先代《ランパント》ディアドラの血が濃いにも関わらず、中身はまるで違う。周りをすべて焼き尽くす苛烈さと狂気を秘めた女だった。これほど箍が外れたのは、影である婿殿が殺されたからだろう。彼が逝ってから、ランパントの狂気は加速している。そして今――娘がスリザリンに組分けされ、発狂しているのだ。

 なんとおそろしいことよ、とランパントに聞こえないように呟く。危惧しているとおりの命令が出されるのか――と身構えた。道に悖ろうが、この上ない悪であろうがランパントはやるときはやる。ためらいなく、冷徹に。私とてかなり気は進まないが、この状態のランパントに逆らえば首が飛ぶだろう。文字通り。

 舌打ちしたランパントが、私を捉えた。群青の眼にぬめるような輝きがまとわりつく。

「イルシオン」

 乾いた声が私の名を呼んだ瞬間、扉が勢いよく開いた。

「アリアドネ」

 私もランパントも扉口に眼をやった。老いた魔法使いが眼光鋭くランパントを見た。

「お父様……」

 ふ、とランパントの眼に紗がかかる。ちらりと私をみやって、言った。

「イルシオン、《セイリャント》に伝えなさい。リーンを本家から締め出すと」

 最前に言おうとしていた命令とは異なるのだろう。予想はついたが、私は一礼し、踵を返した。さしものランパントも実の父の前では猫をかぶるつもりらしい。誰でも己のどす黒い一面など見られたくないだろう。繕う気もないほど壊れているわけではないようだ。私と入れ替わりに、アシュタルテ様が室に踏み込む。

 あとは父と娘の問題と決め込み、姿を消した。

 

 雛はホグワーツで一年を過ごし、ゴドリックの谷に戻ってきた。ただし本家――ランパント城への出入りは許されず、祖父であるアシュタルテ翁が住まう、パッサント城へ引き取られた。『谷』は広大で、ランパント城とパッサント城は離れている。もちろん姿現しでも使えば距離など関係ないが、外を不用意に歩いて望まない接触をする確率は減るだろう。

 目の前を娘にうろつかれれば、ランパントがどうなることかわかったものではない。アシュタルテ翁の判断は的確といえる。

 『仕事』の帰り道、夜の谷を行きながら、苦く笑う。良くも悪くも雛は物事の鍵となる存在だろう。たとえスリザリンに組分けされようと血は本物だ。アリアドネ・リアイスの胎とミスラ・リアイスの種から生まれた、リアイスとリアイスの娘……一族の中でも一、二を争うほどの血の濃さだ。つまり血筋自体に何の欠損もない。また、完全に《ランパント》の候補から外れたわけでもない。当代の《ランパント》は雛を見捨てたが、これをアシュタルテ翁が拾い、養育する――この意味は大きい。

 リアイス本家の頂点に立っているのは《ランパント》である。そして《ランパント》はリアイスの盟主でもある。いわゆる権威の象徴であり、旗印であるといえる。一方アシュタルテ翁はといえば筆頭分家パッサントの元当主。だが――その昔グリンデルバルドを倒した英雄であり、魔法界の尊敬を集める存在であった。

 だが当代《ランパント》――アリアドネ・リアイスは英雄として見ればいささか地味だ。地味どころか、ないといってもいい。彼女がしていることといえば、警備隊、機動隊、あるいは執行部隊と呼ばれるような省の組織をまとめあげ闇祓い局として編成。自ら局長の地位についた。そして闇の帝王率いる陣営と熾烈な争いを繰り広げている。未だに帝王の首を獲れていない現状では、父であるアシュタルテ翁に一歩劣る。少なくともリアイス一族内においては。

 さて英雄であるアシュタルテ翁が追放されたランパントの娘を保護する。これはランパントの意に真っ向から反対しているも同然だ。英雄アシュタルテが保護し養育する以上、雛から《ランパント》の継承権も、系譜からの抹消も不可能に近い。元《パッサント》にして最長老との間に軋轢を生みたいと思うほど、ランパントは壊れていないだろう。

 アシュタルテ翁はまともだから、と口中で呟く。仁道を知り、魔法騎士としての志は揺るぎなく。本家の姫君――先代《ランパント》ディアドラを敬い、支え続けた。ところがその魔法騎士と姫君の娘ときたら、まともではない。

 黄金の狂えるグリフィン……片鱗は幼年からあったのだ。人狼とはいえ、ためらいなく首を刎ねる娘がどこにいる。しかも、幼なじみの妹を……。

 まったく血も凍る光景だった。おびただしい血。転がる首。可憐な少女。呆然と立つ――幼い婿殿。

 影に潜んでいた私も、唖然としたものだ。生粋のリアイスであり、その魔力は折り紙つきとはいえ――あまりにも精神がゆがんでいた。

 結局、殺人は隠蔽され、婿殿の妹――第七分家息女の存在は抹消された。すべてはなかったことになり、現在に至る。

 ランパント城に到着し、転移魔法陣を踏む。淡い輝きが中空にちりばめられた。

「……妹の敵と婚姻し、支え、守った婿殿は……」

 いったいなにを思っていたのだろうか。天晴れというべきか、あんたも頭がおかしいというべきか、迷うところだ。まったく。あれほど不思議な関係の夫婦もいるまい。婿殿はランパントににこりともしないか、どこか冷ややかな笑みさえ浮かべていたものだ。あれも謎だ。少なくとも私が見ている限り、結婚前にはごく普通に笑みを浮かべ、穏やかな生活を送っていたものだ。そもそも結婚の『手続き』を踏んでいないだけで実質的には夫婦のようなものであったし。

 結婚してから仲が深まるどころかいささかぎこちなくなり――娘が生まれてからさらに顕著になっていった。仮にも黄金のグリフィンが育児放棄しようとは誰が思うだろうか。婿殿がいなければどうなっていたか怪しいところだ。

――わからない人だった

 淡々と妻を支え淡々と《ランパント》という存在に仕え、次なる黄金のグリフィンを育て――死んだ。謎ばかりを残して。

 ひとまず雛が筆頭分家の庇護下にある以上、身の安全は保証されるであろう。もはや婿殿という鉄壁に守りがいない以上、雛は誰かが守らなくてはならない。

 本来、雛がスリザリンに組分けされたからといって騒いでいる場合ではないし、ランパントは寛容さを見せ、娘をきちんと育てるべきだ。なにせ闇の陣営が力を増している。内輪揉めなど論外……一族は分裂を恐れ、各家の絆を深めようと奔走している。

――だというのに

「打算だけでは動けないのがランパントだからな……」

 これはもはや、生来の気質と割り切るしかない。ともかくもアシュタルテ翁がいれば多少はマシだろう。ランパントも。

 夜更けの城を進む。いまはもうランパントと仕える者しかいない城。弟君たちは他家へ婿へ行き、父たるアシュタルテ翁はパッサント城に詰めている。夫である婿殿は死に……娘である雛は追放された。

 孤高の黄金のグリフィンというべきか、孤独な黄金のグリフィンというべきか。確実なのは、もう誰もランパントを支える者がいないということだ。

――あまりに早かった

 城の奥深く《ランパント》の執務室に滑り込む。

「報告を」

 白金の髪に群青の眼の黄金のグリフィンが、私を見据えていた。一つため息を吐き、彼女を見つめる。容姿は先代によく似ているが、眼光は父親譲りだ、と毎度のことながら感心する。先視の魔女であった先代のような儚さなど欠片もない。

「裏切り者の闇祓い数名を処分……そうですねえ、適当に死喰い人のせいにできるようにはしておきましたよ」

「結構」

 ちかり、とランパントの眼が光った。

「内部の粛正に時間をかけている暇もないのだけど。どこにでも……異端はいるのだから面倒なことだわ」

 声に感情はなく、ただただ虚ろだった。私は眼を伏せた。

 さて、ランパントが言っているのは『誰』のことなのか。

 

 リアイス一族の歴史を語る上で避けて通れない名というものがある。例えばゴドリック・グリフィンドール。例えばネフティス・グリフィンドール・リアイス。例えばランパント・グリフィンドール・リアイス。例えば――裏切り者の九番目……。

「――ユスティヌが」

 深夜の執務室で、私は呟いた。陶器のごとき白い肌と輝く白金の髪を持つ黄金のグリフィンを眺めやる。

――老けたな

 ふと、そんなことを思った。無論、容姿は実年齢よりは若く見える。けれども確実に老いている……。ほんの幼い頃から知っているので、奇妙な気持ちになった。この猛々しい黄金のグリフィンでさえも一つ、二つと年を重ねるのだ。己の時計が狂ってしまっているので余計に感じる。

 そろそろこの時計もまともになってくれないものか、と嘆く段階は過ぎてしまった。行き着くところに行き着くだろう。その前に目の前の問題に対処しなければならないが。

「……とっくに断絶したと思っていましたよ。ランパント」

 キリ、とかすかな音が響く。我らがランパントの歯は損なわれていないだろうか。相当な回数摩擦に耐えているだろうに。まったく、この人は男に生まれるべきだったな……という思考は綺麗に押し隠した。

「私もそう願っていた……“紫薇戦争”の折に全員始末しておくべきだった」

「当時の状況からして困難だったかと」

 そっと言えば、群青色の眼がちかりと光った。眼光の鋭さで可憐さや淑やかさが吹っ飛ぶのは損だな、としみじみ思う。これでも先代に仕込まれて礼儀作法等は高い水準に達している。ちなみに父君であるアシュタルテ翁に防衛術等を叩き込まれてもいるので、そこらの魔法使いでは太刀打ちできない技量だ。その気になれば弟君のどちらかに《ランパント》の位を譲り、自分はどこかの魔法使いと結婚して平穏な暮らしを送ることもできただろう。本人が某夫人と呼ばれることよりも《ランパント》であることを望んだのだが。男だろうが女だろうがランパントはランパントであり、大した違いはないのかもしれない。

 さてランパントはユスティヌが生き残っていたことにも、再び表舞台に立ったことにもお怒りだ。なにせ数百年前に一方的に宣戦布告し、リアイスに甚大な被害をもたらした一族だ。怒るなというほうが無理は話だった。

 確か《ランパント》が複数人殺され、リエーフも少なくとも二人は殺されたと記録されている。ここまでリアイスに牙を剥いた一族も珍しい。それには理由がある。ユスティヌの系譜をたどれば、リアイス一族……ゴドリック・グリフィンドールの曾孫の一人に至るのだ。その名をペンドラゴンという。リアイス一族で初めてスリザリンに組分けされた『血を裏切る者』だった。あげくの果てに長兄であるランパントを殺害、逃亡したとされる。

 ともかくも、ユスティヌが表舞台に現れ――あまつさえホグワーツに入学したなど、一大事である。

「細々と陰で生きていればいいものを」

 温度のない声でランパントが呟く。輝けるグリフィンというよりも、冥府の女王というほうがお似合いだ。何事か動きがあれば喜び勇んでユスティヌの首を刎ねるだろう。

――口実さえあれば

 ランパントから視線を逸らした。うってつけの『口実』に成りうる要素はいる。ホグワーツに……。もし本当にユスティヌが敵であれば手を出さないはずもない。そうすれば大義名分を手にすることができるだろう。

 問題は、ユスティヌがホグワーツにいながらにして行動を起こすか。起こす気があるのか。

 私はため息を押し殺した。大義名分などなければつくるだろう。ランパントとっては一挙両得だ。出来損ないの娘と不穏分子を排除できるのだから。

――悪辣な方だ

 もし本気になれば私が頭の中に描いている絵図を実行に移すだろう。一度思い定めれば必ずやり遂げようとする人だ。さすがはグリフィンドール出身者だ。こんな魔女と同じ寮の出身、なおかつ血の繋がりがあると思うだけでげんなりだ。誰だこんな魔女を育てたのは。

 婿殿ならばどうしただろうか、と思考が遊ぶ。怒れる黄金のグリフィンと真面目に相対していてはこちらの身がもたない。ありえない仮定でもしたほうがマシというものだ。

 まず婿殿ならば、娘がスリザリンに組分けされたとしてもランパントやほかのリアイスのような反応は示さないだろう。せいぜい「私とランパントの娘がね……。いささか驚きだな」とでも言うくらいだろう。そして、ランパントの蛮行を諫める。黄金のグリフィンの輝きの前に、銀の蛇がいかほどのものか……とかなんとかもっともらしいことを並べ立て、言いくるめようとするに違いあるまい。対・ランパントに関しては婿殿は恐ろしく冴える。ここでランパントが退けばよし。退かなければ……雛を他家に養子に出すなり、第七分家の養子にするなりの措置を取っただろう。本家の籍から外し、雛の身の安全を確保したはずだ。そもそもランパントが雛へ向ける憎悪は異常だ。絶対に虎視眈々と機会を窺っている。黄金のグリフィンの癖に。

 面倒だな、と口中で呟く。ユスティヌなんていう爆弾が放り込まれたのだから。

――私の出番も近いだろうか

 正直、まったく気は進まないのだ。しかしながら私は狩人だ。黄金のグリフィンの仰せには従わなければならない。

 

 鋭い音とともに、細かな装飾が施された――その実、力ある紋が描かれた壁――の守りが崩れ、拳大の穴が開いた。

「……愚劣な者どもが」

 激しい唸りに、私は肩をすくめた。壁を破壊した張本人であるアシュタルテ・リアイスは穴から杖を引き抜き、流れるような身のこなしで鞘に納める。老いたとはいえリアイスの魔法騎士にふさわしい隙のない動きだった。なにせグリンデルバルドを倒した英雄だ。加齢による衰えなどたいしたものではないのだろう。

「ランパントは動かないようですが」

「動くまいよ」

 室に、笑声が響く。翁の底光りする眼が私を貫いた。

「アリアドネはリーンを認めぬ……」

 翁はただの父親にしか見えなかった。娘にどう接すればいいのかわからない、不器用な男にしか。私は淡々と呟いた。

「娘がスリザリンに組み分けされたから?」

「訊くが、娘がスリザリンに組み分けされて、あれが激昂しないとでも」

「いーえ。あのお方は昔から誇り高い方でしたからねえ……ディアドラ様に似ればよかったものを」

「仕方あるまい」

 うなだれる翁を見ているうちに、段々と哀れに思えてきた。妻には先立たれ、手塩にかけて育てた娘はあの有様。息子二人は『まとも』だが、いかんせん《ランパント》を諫めるには力不足。翁も頭が痛いものだろう。私が《ランパント》の父親だったら転がり回って呻いているところだ。なんなのだあの鉄の女は。おまけに激しすぎる反抗期に突入している。翁としてはやってられんというところだろう。ご愁傷様。

「どうなさるおつもりで?」

 先を促す。翁はにこりと笑んだ。寒気がするほど完璧な笑みだった。なんとなしに婿殿を思い出す。

「子の喧嘩に親が出るのはみっともないことが……今回は別だろう。あの者たちは私の孫に手を出した。幼い女子に暴力を振るい痛めつけ、髪を切るなど……グリフィンドール寮も堕落したものだな。首謀者たちの家とは手を切る」

 それだけではないだろうなあ、と私は予感した。翁は徹底的にやるだろう。叩いて埃を出し尽くし、あわよくば監獄にぶち込むくらいは。かわいいかわいい孫娘に手を出され相当にお怒りなのだ。

 母からは見捨てられ、一族からも爪弾き。愛してくれた父は死んで、頼れるのは祖父だけ……思えば哀れな雛である。スリザリンに組み分けされただけで人生が狂ってしまった。母親がランパントだったのも運が悪い。

 私は翁に許可を求め、煙草に火をつけた。肺を紫煙で満たしていると、翁がひらりと手を振った。どうやら翁も苛立ちが溜まっているらしい。老人が煙草を吸えば身体に毒なのだが……と思いつつ、煙草の箱を放り投げる。皺と傷だらけの手が危なげなく箱を掴み取った。かすかな音の後、紫煙がくゆる。

――どうするつもりなのだろう

 雛の後見となり、守ることはできるだろう。だがその先は? 雛の《ランパント》就任を後押しするのか。それとも。

 どちらにせよ実の母親は雛を嫌っている。《ランパント》の地位を継ぐことはまずない……のかもしれない。

 狂いつつある黄金のグリフィン。もうとっくにどこかが壊れているのかもしれない。鍵となるのは雛だ。あの存在が黄金のグリフィンの狂気を加速させる。

――翁はどこまで気づいているのか

 娘の破綻に。

 ゆっくりと眼を瞑った時、宙に炎が燃え上がった。紙片を掴みとり、すぐさま燃やす。「では」と翁に一礼して退出した。

『裏切り者をいつもの通りに』

 脳裏に《ランパント》の字が蘇り、杖に手を触れる。裏切り者の始末が自分の役目。今回は闇祓いだ。

「仰せのままに」

 所詮、私は汚れ役なのである。

 ランパントは日に日におかしくなっていった。表向きはまったくそんな風には見えないのが厄介なところだ。

――半端に理性など残っているからいけないのだ

 リアイス本家当主《ランパント》としてあらねばならぬという思いが、アリアドネ・リアイスに正気の欠片を残している。

 しんと冷えた夜。私は呼び出され、執務室の絨毯を踏んだ。

「お呼びでしょうか。ランパント」

 ランパントの眼差しが向けられる。燃えるような熱も輝きもなく、おっとこれは『正気』か。私と対面しているときは壊れていることのほうが多いのだが。

 僅かな安堵は、次の一言で打ち砕かれた。

「あの子を始末なさい」

 穏やかな口調で紡がれた命に、息を詰める。口の中が乾いていく。心すらも。

「……どなたのことを?」

 とぼけてみせれば、ランパントはゆるく首を傾げた。三つ編みに結んだ髪が揺れ、魔法灯に輝く。

「イルシオン。お前が言葉を解さないほど愚鈍だとは」

「これでも貴女様よりおいぼれですしボケも始まっているようでして。いやはや」

「イルシオン?」

 再度呼ばれ、諦めた。ああまったく。まったく……どうしてこんな壊れた女がランパントなのだ。誰かどうにかしてくれ。

「黄金のグリフィンの仰せのままに」

 結局そう応えるしかなかった。

 ◆

 数日後、私は筆頭分家の拠点・パッサント城にいた。気配もなにもかも慎重に消して。この城の主である筆頭分家当主《パッサント》も、アシュタルテ翁も、他の者も、私の訪問など知らない。目的を知られれば、殺されかねない。

 私の足は淀みなく動き、やがて目的の室へたどり着いた。扉に手のひらを当てれば、強い鍵の呪文がかかっているのが感じられた。

 庇護者の城ですら、鍵をかけなければならないとは雛も不憫である。やすらげる場所などどこにもないのではないか?

 杖を扉に押し当てる。小さく呪文を唱えれば、粘るような抵抗の後、呪文が解けた。扉をそっと押し開けてするりと身を滑り込ませる。青白い月明かりの下、雛は半身を起こしていた。侵入者の気配の頭を巡らせている間に、呪文ですぐさま距離を詰め、雛の喉元に杖を突きつけた。

――さて

仕事をせねばならない。そう思いつつ、しばらく雛の顔を眺めた。白い肌に黒い髪。群青の眸。次なる黄金のグリフィン――婿殿が愛した娘。

 情が薄いと思っていたのに、娘のことだけは愛していた。きっと彼は妻のことすらもたいして愛していなかったのではないか……あれはただの《ランパント》に対する忠誠心を持っていただけなのではないか?  私から見て、婿殿と雛は仲のよい親子だった。意外なほど、婿殿は雛を愛し、育て、知識と技と――心を与えていた。

――仕事だ、やらねば

 死の呪文ではなく、ほかの呪文で始末しなければならないだろう。術の痕跡を残さず……ただの急死に見えるように。

 雛は静かな眼差しで私を見つめていた。母親である《ランパント》とはまるで違う、どこか陰のある――なにかを諦めたような眼だった。

 雛は悟ったのだろう。私が『誰』の命でやってきたのか。だが、雛は怯えてはいなかった。悲しげではあったが、私をまっすぐに見つめていた。その様に興味をひかれる。

 迷って、迷って、私は杖先を揺らした。

――狂っているランパントよりはよほどいい

 だが……雛が《ランパント》の位に就く道のりは険しいだろう。生きている限り、どこまでも苦しい思いをし続けるに違いあるまい。

 腹を括る。命の危機を前にして、取り乱さない雛は気に入ったが、終わりにしなければならない……。

 呪文を紡ごうと口を開いたその時、かすかな衝撃が響いた。私の血が伝える響き――。やがて、中空に影が顕現する。私も雛も、影――炎を見つめた。

 その色は――凶事を伝える漆黒。

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