お嬢様を一時的に帰還させたのは翁の指示であった。理由は二つ。一つはホグワーツから引き離すため。一つはお嬢様の今後について議論する必要が出てきたため。
ユスティヌがいなくなり、スリザリンは浮き足立っている。公的にはユスティヌは一身上の都合で退学扱いであるが、女帝を失った寮は、箍が外れているのだ。お嬢様にどんな累が及ぶか分からない。
そして。
「お嬢様を候補から外さなかったのは、こういった事態を想定していたからですか?」
翁、と呼びかける。一族最長老は鼻を鳴らした。
「……私は先視ではない」
大変苦々しい顔だ。百味ビーンズのゲロ味と鼻くそ味を一緒に食べた時のようだ。さあて、十五の娘が人殺しをした事実を憂いているのか、それとも闇の帝王に対峙し、生き残り……恐らく『眼をつけられた』ことを嘆いているのか、表情からでは量りかねた。
荒んだ眼をしたお嬢様を思い出す。ユスティヌをついに滅ぼした、と祝う一族を醒めた眼で見つめていた。眸に喜びもなにもなく、深い夜の色だけが渦巻いていた。
――少なくともお嬢様は
ユスティヌの滅びを悼んでいるように見える。人殺しを厭う『まともな』感性をまだ持っているようだ。あの白い手がユスティヌの血で染まったのだろうか、と疑問には思っていたが、お嬢様の眼を見てしまえば否定しきれなかった。深い怒りや混沌とした何かが揺らめく群青の眼は、アリアドネ様を彷彿とさせる。少なくとも、ユスティヌの死はお嬢様を変えてしまったのかもしれない。
「今のお嬢様ならば《ランパント》にして不足はありません」
変化があっても、精神を病んでいるわけではない。肚を括ったように毅然としている。何より一族を冷徹に見つめる眼差しは気に入った。上に立つ者は上に立つ者の視点を持たなければならない。アリアドネ様は圧倒的な苛烈さと敵を次々と葬った冷酷さで一族を導いたが、あれは一族をも燃やしかねない炎であった。お嬢様ならば違った形の当主になれるかもしれない。
翁が深く息を吐き、執務机で指を組んだ。
「《ランパント》の地位を望むなら、私はそれを叶えるまでだ。幸い、リーンの瑕疵など問題にならぬ。帝王と対峙し生き残り……ユスティヌを滅ぼしたのだから」
反対する者などおるまい、と皮肉気に言う。お嬢様と同じくどこか醒めた声で。
七分家による協議の結果は、もはや決まっているのだろう。前々から空席の本家当主の座を埋めるべきだと囁かれてはいた。そして、時期は整った。お嬢様に欠けていたのは、汚点を覆す実績だけ。ユスティヌ殺しの英雄の誕生は、天の配剤であろう。
「これでお嬢様に平穏はなくなりますね」
《ランパント》としての重責にさらされる。千年あまり続いた闇と光を引き継ぎ、一族を導いていくのだ。ユスティヌ殺しの英雄を、闇の陣営は赦さないだろう。お嬢様の前に残されているのは、茨の道一本きりだ。退路はなく、進むだけ。
「あれに平穏などなかった。ミスラが死んでからな。リーンは、どうあっても普通の暮らしはできん。本人もよく分かっている」
だから私は、と翁が震える声で口にした。
リアイスの権を持たせてやることしかできないのだ。
逃げても逃げても、闇は追ってくるのだから、と。
見る者の眼を射る紅と黄金が、リアイス一族の貴色だ。殊に重大な行事の際に、重鎮達は貴色を纏う。例えば、当主就任式のような式典で。
当代《ランパント》の座を埋める儀式は、重鎮――すなわち最長老並びに七分家の当主達が集う必要があるとはいえ、仰々しいものではない。長々とした挨拶はなし。祝賀会もなし。リアイスの名を誇り、グリフィンドールを始めとした創設者の血筋を誇るものの、無駄を嫌う一族らしい。さらにいえば今は戦時だ。《ランパント》就任が決まるや否や電光石火の早さで就任の日が決定し、第二分家の配下である服飾系統に強いリガーダントに命じて新たなる本家当主のための装束を整えさせた。翁も多少は口を出しただろうが、お嬢様が采配を振るった。療養という名目で帰還しているけれど、ホグワーツを長く開けていられない。ステータント、これくらいのガリオンがあればリガーダントの尻を叩けるでしょう、と宣って、机の上に金貨をどかんと載せて《ステータント》は眼を剥いていた。
ちなみに「先代のものを仕立て直せばもっと早いですが」と《ステータント》に提案され、お嬢様はにこりとしていた。それはもう婿殿に似た迫力があった。答えは決まっている。
「死んでも嫌」
《ステータント》は顔をひきつらせ、ため息を吐いていた。
「無神経なことを言いましたがお赦しを」
構わないわ、とお嬢様は手を振った。しかし《ステータント》が青ざめていたことだけは言っておかねばなるまい。合理的なお嬢様といえど、受け入れられる問題とそうではない問題があるのだ。私がお嬢様の立場ならば、先代の正装など燃やしているか、ばらばらに引き裂いているだろう。お嬢様にはその権利がある。
数日後、お嬢様は燃える色の衣を纏い、儀式へ臨んだ。私は第四分家に所属しているものの、当主でもなんでもない身。本家にあてがわれた室で、静かに時を過ごした。戦の時代に起つ当主。ならば、本家の秘宝冬の息吹はお嬢様の手に渡るのだろうかと思いを馳せる。飛び抜けた錬金術の才を持ったネフティス・グリフィンドール・リアイスのの手による魔法剣。魔法騎士たるリアイスの象徴であり、冬の息吹に認められた者は高貴高潔高尚、絶対的善として、一族から一目置かれる。何代も主が現れておらず、壁の飾りとなっている始末だ。お嬢様が手にすれば、これから先当主として楽ができるのだが。
――だが
冬の息吹を手にした者は、悲惨な末路を辿るとも、過酷な運命を科せられるともいわれている。清冽な輝きとは裏腹に、血に彩られた歴史を持つ魔剣でもある。
頭にかかった靄を散らそうと首を振った時『谷』に鐘の音が響いた。
◆
お疲れですねと言えば、《ランパント》は肩をすくめた。複雑精緻な刺繍が鋭く光を弾くが、群青の眼には喜びもなにもなく、淡い影だけが渦巻いている。
「当主になって仕事は増えるし、分家どもは曲者ぞろいだし。仕方ないわね。戦の時代に小娘が当主。いくらユスティヌ殺しといえど、不安で仕方ないはずよ。一族だって現状で一番無難な選択をしただけだし……」
猫足の椅子に腰掛け、どこか遠くを見ながら、紅い唇が言の葉を紡ぐ。
「一族はきっと、先代にまだ生きていて欲しかったでしょう。それが本音」
「死者のことはお考えにならず。もはや影です。実体などない。今生きているのは貴女ですよ」
お嬢様、と返しながらせっせと菓子を盛りつけていく。かつて私が殺そうとしたお嬢様が生きていて、娘を殺すように命令した先代が死んでいるのがなんとも奇妙な心地だ。
私は躊躇ったのだな、と改めて思い出す。スリザリンに組分けされたというだけの娘を殺すことに。明らかに害があればともかくも、先代は娘に怯えていただけだった。ありもしない可能性を勝手に見て、勝手に恐れ、不安を膨れ上がらせて、私に命じた。始末しろ、と。
唇が吊り上がる。せめて己の手で始末をつけようとすればよかったものを。直接相対もせず、私の手を汚させようとした。それもまた、私がお嬢様の始末を躊躇った理由なのかもしれない。
「……闇の帝王は憎いわ。私から父様を奪ったのだもの……きっと、それと同じくらい……先代も……」
憎い、とお嬢様は苦しげに吐き出した。
「あんな女が就いていた地位になんて、価値はない。私は先代のようにはなりたくない。一族の前ではいい顔をして、死んでも《ランパント》として惜しまれている……」
「お嬢様、貴女はお優しいですよ。先代の所行を暴露して、名誉を地に落とすこともできましょうに。地下廟堂の骸を掘り出して破壊することもできるでしょうに」
少なくとも、私ならばそうするであろう。お嬢様は憎しみや怒りに身を焦がすこともなく、未だに凛として在る。あるいは先代と――母親と同じになってたまるかという矜持なのかもしれないが。
お嬢様が茶器を置く。きつく眉根を寄せていた。
「優しくなんてないわよ。先代のことなんて大嫌い。あんなの親じゃないわ……私の親は父様だけ。善や愛や……色んなことを。先代は……憎しみや怒りや、暗いものしか私に与えなかった……でも、思うのよ」
ああ、あの人はなんて可哀想な人だったんだろうと。
小さな小さな声で、お嬢様は呟いた。
その手を血で染めているという実績は、お嬢様の地位を手堅いものにした。また、お嬢様自身もお飾りの当主に徹するつもりはなかった。その上筆頭分家、第二分家、第三分家、第七分家が周りを固め、年若い――最年少の《ランパント》への不安や不満の声は小さくなっていった。
学業と当主の兼業はいかにも骨が折れるであろうが、お嬢様にとってさほど苦でもないらしい。
「スリザリンの女皇……か」
あちこちで集めた情報を献上すれば、翁は指を組み、顔を伏せた。
「ホグワーツで煩わされたくないのでしょうね。スリザリン寮を早々に掌握してしまったようで」
「さすが《ランパント》の血統よのと言うべきか」
「ユスティヌがいなくなった間隙を巧く衝いた模様です」
「学校のことは、まあいい……」
翁が首を振る。孫娘にあまり嬉しくない異名が定着したのが嫌なのか、早々に話題を変えた。
「あの子の婿選びのほうが大事だ」
「お嬢様にそのあたりの認識があるのか疑問ですがね」
ホグワーツとゴドリックの谷の往復で大忙しですしね、と続ける。己の結婚のことなど頭からすっぽりと抜け落ちていても驚かない。先代のアリアドネ様のように幼い頃から婚約者が決められていたわけでもないし。
ふと、喉に小骨が刺さったような違和感を覚えた。
――アリアドネ様は、娘に婚約者を用意しなかった
慣例に則れば、ホグワーツ入学前には決めておくのが普通だ。お嬢様に瑕疵などなかった。スリザリンに組分けされなければ瑕疵など生まれようがなかった。お嬢様がどの寮に入ろうとも、アリアドネ様には関係なかったのではないか。たとえグリフィンドールに入っていたとしても、なにか理由をつけて《ランパント》の位を継がせなかったのではないかとすら思う。いいや、アリアドネ様はお嬢様に愛情深い眼差しを向けたことなどなかったではないか。婿殿と違って……。
「第三分家の子息や第七分家の子息あたりなんてどうですかね。年は少し離れていますが」
ホグワーツ入学前の少年達であるが。ひとまず十も離れていないし許容範囲であろう。血も近すぎない。
「リーンの騎士になれる者ならばいいがな」
翁が鼻を鳴らす。《ランパント》の配偶者になってくれと要請するのは、いざとなれば死んでくれと言うのに等しい。半端な覚悟でなってもらっても困る……と言いたいのだろう。
「リアイスの名にすりよる馬鹿よりはいいでしょうよ」
「うむ」
翁の顔色は冴えない。お嬢様の地位を脅かさず、騎士として守り、いざというときは命を懸け、名門独自の慣習にも強いなんて人材を一族外から探すのは困難だろうか。別に結婚なんてしなくていいわとお嬢様は言いそうであるし、結婚が必須というわけでもないのだが。
「……あの子には支えが必要だ」
否定できなかった。《ランパント》を継ぎ、茨の道を歩むことになるお嬢様。たった一人で歩ききれるほど強くないだろうと私も感じる。
存在自体を踏みにじられ、どこか欠けたままでは保つまい。たとえ闇の陣営への怒りと憎しみがあろうとも。
「お嬢様と似た立場の者ならいいのかもしれませんがね……例えば――」
おやと首を傾げた。いるといえばいる。お嬢様と鏡写しの境遇の、毛並みがいいが爪弾き者が。
「ブラック家のシリウスとか?」
「冗談もほどほどにしろ」
ですよね、と肩をすくめた。
まさか冗談が現実になるなんて、と翁と私で唖然とすることになるとは、そのときは夢にも思っていなかった。
◆
ホグワーツ六年生で希に開講される講義がある。その名も錬金術。魔法薬学を始めとした学問の祖ともいえる存在だ。希望人数が一定数を越えれば開講され、講師はもちろん錬金術師が招聘される。常ならばリアイス家の者――中でも第二分家の者――が呼び寄せられるのだが、今年は違うようだ。
ニコラス・フラメルとは大層な人物を呼び寄せなすったな、と呟きながら、私はお嬢様の居室へ向かう。お嬢様は講義の合間を縫って帰還しては仕事をするという、並の大人より忙しい日々を送っているのだ。そして私は眼をつけられて、暇なのでしょう。じゃあ本を持ってきて頂戴といいように使われている。
暗殺や他の物騒な用事を言いつけることなく、雑用を押しつける様は婿殿に似ている。お嬢様は私の本来のお役目をお忘れではなかろうか……と思うものの、それもまたよしと思えた。
居室の前に立てば、何を言うまでもなく扉が開く。リアイスには時折直感に優れた者が生まれるが、お嬢様もその類のようだ。
「歴史書ばかりお求めで、どういった心境の変化です」
魔法史はお嫌いだったでしょう、と問いかけながら、宙に浮かせた本を着地させる。深い紅の絨毯は本の重みを余さず吸い取り、音一つ漏らさなかった。
机に向かい、山のような書類に眼を通しながら、お嬢様は私を見上げた。
「先代から教育を受けていないもの、私。一族の歴史だってあまり知らないわ」
「愚問でしたね。お赦しを。ランパント」
頭を抱えたくなった。そういえばそうだった。本来《ランパント》が受け取るべきあらゆるものを、お嬢様は与えられてないのだ。魔法族としての教育は十分であっても、不都合はあろう。
「フラメル先生とリエーフに親交があったことも知らなかったし」
「あまり知る者はいませんがね」
返し、杖を振ってお嬢様に茶を注いだ。立ち上る湯気の向こうで、群青の眼が細められている。
リエーフ家はいわばリアイス家の麾下である。本家の嫡子にリエーフの嫡子が仕えるという習わしもあった。
「当主にお成りになったのです。リエーフの者を呼び寄せてもよろしいのでは」
お嬢様は黙って書類に捺印し、ため息を吐いた。
「ここ数代リエーフを側につけてないわ。先代は配下なんていらない人だったし、先々代は先視の姫君で……あまり俗世のことなんて干渉しなかったようだし。私もあえて欲しくないわ」
お嬢様が杖を振る。現れた椅子にありがたく座り、物憂げな《ランパント》を注視した。
リアイスへの忠義は篤く、戦の折にも恐ろしいほどの屍を積み上げたと言われる一族だ。味方につければ心強い。しかし。
「血族婚が盛んで、次期当主は精神を病んでいるという噂じゃない」
白い手が書類の山から一通の封書を探り当て、私に放る。難なく掴み取り、中を改めて天を仰いだ。
「見目はよろしいかと。愛人にでもすればいかがか」
いわゆる見合いの釣書だ。お嬢様は舌打ちした。
「悪趣味よ。私に取り入ろうって魂胆が見え見えよ。病んでいる息子を生け贄にするなんて鬼かあのバカ当主は」
「数代遠ざけられているから焦っているのでしょうねえ」
釣書を指で弾く。灰に一滴の緑を垂らしたような虹彩の青年こそが次期当主であろう。見目こそいいがどこか人形めいた男だ。
「……リエーフはこの際どうでもよろしいが、伴侶はどうなさるおつもりで、お嬢様」
「そうねえ、父様のように穏やかで素敵な人なら最高ね」
平坦で薄っぺらい言に、笑いが漏れる。ちっとも乗り気でもないし本音でもないであろう。
――婚姻する気なんてないな
端からない。翁が必死に婿を捜しているようだが、無駄に終わるかもしれない。公的配偶者が無理ならば、やはり内縁――つまり愛人――を作らせてもいいのではないかとも思うが。ひとまずお嬢様の盾になって死ぬくらいの覚悟を持つ者が側にいればいい。
「ジェームズ・ポッターは」
「ふざけてるのイルシオン」
陽炎が生じる。お嬢様から生じた魔力が起こす揺らぎだ。怒らせたか、と思ったが言葉を止めない。
「どなたかを側に……私から申し上げるのはそれだけです。ポッターでは不服ですか」
「大事な幼馴染みに……」
お嬢様が顔を歪める。呻くように続けた。
重い荷を背負わせるわけにはいかないもの、と。
「私は大事なものを側に置いてはいけないのよ」
ぽつり、とお嬢様は呟いた。
この調子でいけば、お嬢様はつつがなく六年生の課程を終えられるだろう、と私は思っていた。一年生の時からあれこれとごたごたしていたので感慨深い。魔法界の情勢は悪化しているがそれはそれ、これはこれだ。
「――まったくお嬢様に休暇も与えないとは」
鋭く息を吐く。お嬢様に報せを飛ばした。
『ホグワーツ特急、急襲の恐れあり』