数日間、リアイスは浮き足立った。なにせ本家当主の婚姻だ。ここ十数年は戦ばかりで明るい話題も少なかった。リアイスとて祝いで気をゆるめたくもなる。しかし、お嬢様と伴侶殿は違った。此度の慶事の主役であるというのに誰よりも忙しかった。次々に運び込まれる贈り物、そのリスト作成を命じたり、夫妻であらためたり。礼状をしたためたり。結構な量であった。慶事故に屋敷しもべに新たなお仕着せを与えたり、祝いの名目でお休みを一日増やしたりした。リアイスは屋敷しもべを大切にする。給金も払うしお休みも与える。新年や慶事に新しいお仕着せも支給するのだ。どうも他家では珍しいようで、伴侶殿も最初は戸惑っていた。リアイスのこの姿勢は、一説には祖たるヘルガ・ハッフルパフの影響が強いらしい。彼女は薬草や植物に飛び抜けた才を持ち、また魔法生物に対しても公正明大であった。英国でもっとも屋敷しもべがいる場所といえばホグワーツが真っ先に挙げられるが、彼女の人徳によるものらしい。お仕着せの支給も彼女の発案である。
「鞭打ったり、罰で言うことを聞かせるなんて誰でもできる。屋敷しもべにだって心はあるのよ。あなたも実家が嫌いなら、実家と同じ眼で屋敷しもべを見ちゃだめよ」とお嬢様は懇々と伴侶殿を諭していた。とはいっても効果のほどは不明だ。
「糖蜜パイはいかかですか」
屋敷しもべに問われ、それより紅茶をと返す。たいした仕事もなく、自邸でのんべんだらりとくつろいでいるところだった。リアイスの婚姻について、大々的に広げてはいない。なるべく伏せてはいるが、一部は知っているだろう。そして闇の帝王の耳にも確実に入っているはずだ。ならば、この機を逃さず攻勢をかけてくるかと思えば静かなものだった。
――ちょうどいいわ。私たち新婚旅行に行ってくるから
お嬢様はさらりと言い、この戦時に正気かと訴える伴侶殿を丸め込み、しかも。
「囮の名目でアンドロメダ夫妻も旅行に引きずり出すんだからな……」
いわゆる影武者だ。アンドロメダとテッドはいわゆる駆け落ち婚で旅行に行く余裕もなかった。それに娘も生まれていて、育児に忙しい。だが、お嬢様が「ご息女はこちらで面倒を見るし、旅行は好きな場所を選んでもらっていいし、手配も全部するから」と掛け合った。アンドロメダ――トンクス夫妻はお嬢様と伴侶殿に化け、お嬢様とは異なる場所へ旅行へ行く手はずとなっている。もちろん私が派遣する優秀な護衛が陰から守るのだが。
旅行は今日から。腕利きの闇祓いとその伴侶のことだ。影武者も立てている。なにも心配などしていない。いつでもどこでも姿くらましできるようにはしているけれど。私はお嬢様からの頼まれごとをこなさなければならない。新居の守りの検分である。それはいい。多角的に物事を見るのは重要だ。
「……昔の当主が愛妾に贈った邸を新居にするか、普通」
さすがお嬢様としか言いようがない。ため息を吐く私の前に、湯気の立つ茶器がそっと置かれた。
お嬢様と伴侶殿の新居候補は『谷』の外れにある。つまりリアイス本家の勢力圏内だ。深い森の中にある一軒家。ランパント城に住まうのが通例であるが、お嬢様は「世間じゃ新居に越すものって聞いてるわよ」と押し切った。あれこれと見越してのことであろう。守りはランパント城の方が堅いが、あそこにいては当主業の重圧が常にのしかかる。分からないでもない。
なにも私に検分させずとも、とは思うが。命令なのだから仕方がない。まずは庭を一周する。手入れはされているようで、雑草が茂っているなんてことはない。一つ一つ守りを見ていけば、古い術がいくつもいくつも重なり見事な調和を見せていた。特に基盤となった最初の術が繊細かつ強靱だ。守りを破るのに、幾人の手練が必要であろうか。
――力ある魔法使いだったのだな
外壁からなにから、魔法の香りがするようである。本家がいくつか所有する邸の中の一つにすぎないが、とある逸話があるのだ。いわく、時の《ランパント》が愛妾に贈ったものなのだ、と。最近といえば最近だ。百年か二百年前だったか。もちろん公式な記録には載っておらず、あくまで噂である。男でも女でも《ランパント》や分家当主は妾の類は持たない傾向にある。しかし、何事も例外はあろう。どうやらその妾はリアイスの配下リエーフの娘であったという説が有力で、真偽は不明だ。
ともかく、《ランパント》が妾に向けていた愛情が見えるようであった。何年も何年もかけて整えたのであろう術式には情熱すら感じられた。
玄関から中に入る。がらんとした屋内を歩き回り、どこにも瑕疵がないか検分する。
『戸棚はここに』
『食器はねえ……』
ふ、と足を止めた。私以外誰もいない邸。らしくもなかった。
――とっくの昔にいなくなったというのに
楽しげな声、明るい笑顔。敷物はどうしよう、食器はダイアゴン横丁に一緒に行きましょうね、お客様が来たときのためのものと……。
『庭にたくさん薬草を植えるからね』
薬をすぐに煎じれるように、と歌うように呟いて。
はあ、とため息を吐く。どうにもこうにも、お嬢様と伴侶殿を見ていると思い出してしまうらしい。さてはて、自分たちと同一視し、若い二人に重ねてしまっているのか。私は彼女を幸せにはできなかった。最後は泣かせた。どうして、と言われたものだ。私はかまわないのに。家も名も捨てたのに。
妻子に惨い死に方をしてほしい夫がどこにいる。少なくとも私は違った。たとえ大勢殺している非人間であっても。せめて私を選んだ女くらいは――まっとうに、生きてほしかった。
そう確かに思っていた。だが――掴んで引き留めようとする手を振り払って、別れて、彼女は幸せになれたのだろうか? どんな終わりを迎えようとも共にいるべきではなかったのか。結局看取ってもやれず、葬儀に忍び込んだだけ。棺の中の彼女は老いていて、彼我の隔てを感じたものだ。喪主である彼女の――彼女と己との間にできた息子に、軽く挨拶をしてその場を去った。
ああ、穏やかに死ねたのだ。安堵とともに苦い感情が押し寄せた。どこかに黒い固まりがあった。どうせ互いの時間は違ったのに。彼女の方が先に逝っただろうに。捨てずともよかったのでは。愛していなかったわけではなく、むしろ愛していたからこそ手を離した。けれど。
『母はどこか寂しそうで』
時折西の空を見ていたのです。
聞いた瞬間、思ったのだ。
私の決断は間違いではなかったが、真の正解でもなかった。
――互いの杖が折れるまで、添い遂げればよかったのだ
遅すぎる悟りであった。
もう彼女はあちらへの門を一人でくぐってしまったのだから。