――忘却術士本部もてんてこ舞いだったろう
それほどに、被害は凄まじい。路面は陥没し、水道管は破裂。噴き上がる水は止まることを知らない。あたりを染め、痕跡を押し流す。
夥しい血などどこにも見られず、あるのはばらばらと散った躯だけ。
「……さすがやりおるわ」
こつ、と軽い音。当代一とも謳われる闇祓い、マッドアイ・ムーディは嘆息した。
「二人を暖かいところへ連れて行ってやれ」
マッドアイが口にするかしないかのうちに、数人の影が滑り出す。私はつぶさにあたりを観察する。
荒々しい魔法の痕跡。相手はビルの上から呪文を発射。ギデオンとフェービアンは不意打ちに見事に対応し、参開。呪文は市街の大通りを貫き、爆裂を引き起こす。夕暮れ時であってもとある州都のことだ。人は多い。
二人はマグル達を守る障壁をも築いたが、所詮とっさの対応だ。爆裂の前に虚しく引き裂かれマグルたちは絶命した。
さらに追い打ち、複数人による一斉掃射を盾の呪文で跳ね返す。通常のものはまさしく一枚の盾の形をしているが、ギデオンとフェービアンは球体状のものを展開。完璧に身を守った。
さてそこで……。
「ふむ。後は姿くらましの応酬か」
マッドアイの呟きに頷く。めまぐるしい戦闘が行われたのは間違いがない。ビルの窓は数え切れぬほど割れ、路面はきらきらと光っている。
マグルにはなにがなんだか分からなかったに違いない。最近恐ろしいことばかりが起こるとは感じているだろうが、それが何なのかは掴めない。自動車事故、橋が落ちた。とある家が竜巻に……。村がひとつ沈黙した……数え切れないほどに事件はある。
「ベラトリックスではない。あれは……」
星の名を冠して生まれた女は、魔力も技も飛び抜けている。闇の帝王の腹心、恐るべき女戦士。ギデオンとフェービアンを始末するのに、部下などいらない。路を丸ごと吹っ飛ばすくらいするし、そもそも斬る呪文に特化していたはずだ。下手をしたらビルを丸ごと両断しかねない。余裕があれば片方を捕らえて拷問するだろう。ブラック三姉妹でも随一の残虐性を秘めている魔女なのだ。
――次女のアンドロメダも三女のナルシッサも慎重に距離をとっている
特にアンドロメダは姉に見つからないように息を潜めていた。お嬢様の指図でリアイスもアンドロメダを支援していた。ベラトリックスがアンドロメダを襲ってくれれば好都合、という腹もある。お嬢様はアンドロメダに好意を持っているし、死んでほしいわけがない。だが、外戚に――伴侶の従姉を支援するにしても理由付けは必要だった。
『娘のことを考えれば……ええ、私たちは覚悟しています。けれど娘は……』
姉にとっては穢れ、とアンドロメダは呻いた。リアイス本家当主《ランパント》の居城でのことだった。
『一欠片の情はあるでしょう。ですから、私のことは殺さない……表立って反闇陣営の立場を明確にはしていない』
何事かあったとき、娘を……とアンドロメダは呟いた。
軽やかな笑声が立ちこめた暗雲を祓う。《ランパント》の側近くに控えていた伴侶殿は、にっと笑う。
『心配するなドロメダ。ベラトリックスが狙うのは……』
リアイスの伴侶であるこの俺だ。
お嬢様もよい騎士を伴侶に選んだ者だ。伴侶殿はベラトリックスを討ち取るつもりだろう。実力はほぼ互角だ。
「アリスに伝えねばな……」
「ウィーズリー家のモリー殿にも」
嫁いで姓が変わったとはいえ、プルウェットの娘たちである。
――プルウェットが絶えたか
フェービアンとギデオンはプルウェット本家の最後の人間であった。二人とも子はなく、これにてプルウェットは絶えた。
もちろんフェービアンとギデオンの姉であるモリー、従妹のアリスが女当主を名乗ることもできる。あるいはウィーズリー、あるいはロングボトムと統合させればよい。
死の悲しみを前にして、家系だのなんだのを憂える非人間など、リアイスや一部の純血家門くらいのものだが。
私とてマッキノンの姓を継いでいる。その気になれば息子に連絡をとり、マッキノンの姓を押しつけてもよい。息子は仰天するだろうが……。
マッドアイが杖を振ろうとして、銀の輝きが封鎖空間に飛び込んできた。
『――死喰い人出現』
『リーン・リアイスを派遣』
『マッド・アイ、現場へ急がれたし』
『闇の帝王が現れた』
◆
デボン州はオッタリー・セント・キャッチポール。マグルの村の名であるが、魔法族にとっては別の意味を持つ。ウィーズリーやラブグッド、少し距離があるがディゴリー家も住まっている地域なのだ。むろん村の中には住まわずにぽつりぽつりと居を構えている。
――燃え上がっているのは
オッタリーセントキャッチポール村ではなく、近くにある別の市街なのであるが。我々にとっては村の名前で通じるのである。
窓の割れた家々、陽炎の立つ路面。緋に染められた夜、鉄錆と濃厚な魔力の香。
死喰い人を容赦なく叩き潰すマッドアイを援護する形で、私は街へ入った。器物の損害は甚大であるが、マグルは誰も死んでいないようだ。ちらほらと赤毛の一族――ウィーズリー家の者達や、おそらくラブグッド、ディゴリーなどもいて、怯えるマグルたちを守り、落ち着かせていた。
「別の場所であればこうはならなかったろうな」
マッドアイの呟きに同意する。たまたま魔法族が集まる地域であったから犠牲者が出なかっただけだ。加えて、マグル擁護派のウィーズリー家、中立派の――とはいえマグルを守るだけの良心はある――ディゴリー家やラブグッド家がいた。戦えずとも共に守り逃げるだけの判断力はあった。
助かった、とマッドアイが吐息とともに漏らす。なにせプルウェット兄弟の死闘の現場、犠牲となったマグルたちを見た後だ。オッタリーセントキャッチポールで屍累々の有様も覚悟していた。
隻眼隻脚にも関わらず、マッドアイの動きは鮮やかであった。並の死喰い人では相手にならず、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。闇祓いとリアイス一族が追っていくが、何人捕まえられるか怪しいものだ。特にリアイスは捕まるより始末するほうが楽だと思っているし、他者を手にかけることへの躊躇がない。先代ランパント――アリアドネ様が暗躍し闇祓いの権限拡大、死の呪文などの解禁を進めてからはそれが顕著になった。マッドアイはアリアドネ様の弟子――直属の部下ではあったが、死喰い人はなるべく生け捕りにする主義だ。加減できるだけの実力の持ち主であり、殺してしまうより生かして利用するほうが有益だと考えている節がある。
――今は容赦ないが
ギリギリ死なない程度にしているが、常のような余裕はないらしい。闇の帝王が現れたとなれば至極当然だ。どうやら愛弟子が直接対峙しているとなれば尚更だろう。
路を切り開く、マッド・アイの背を守るように私も続いた。お嬢様のことも気がかりであるが、マッドアイに死なれるのも困る。闇祓いの志気に関わるのだ。
「マッド・アイ!」
闇祓いが二人駆けてくる。フランク・ロングボトムとアリス・ロングボトム――旧姓プルウェットだ。
「帝王は逃げました。ベラトリックスたちも。現在事後処理に当たり――」
ふわふわとした髪、えくぼが似合う柔らかい容貌から想像もつかぬ鋭利な口調で報告し始めた部下を、マッド・アイが片手を突き出して止める。
「アリス」
「マッド・アイ?」
ひた、とマッド・アイの片目がアリス――プルウェットの娘を見据える。
「ここにウィーズリーに嫁いだ娘はいるか。モリーとか言ったか」
「アーサーとともに救護を……」
なにか、とアリスが囁く。声はかすかに震えていて、戦の興奮も拭い去られたようだった。
「ギデオンとフェービアンがやられた」
「下手人は」
妻の肩に手を置き、静かに尋ねたのはフランクであった。
「アントニン・ドロホフ以下数名だ。今も何人か遣わせているが――」
「私が、」
「そのつもりだ。少し休め。話はそれからだな」
狩人となれ、とマッド・アイは告げる。
「モリーには僕が知らせましょう。マッド・アイ、リーンとジェームズ、シリウスは北区にいます。傷は負ってますが」
「ああ。アリスは待機を――」
と言いさして、眸に影をよぎらせた。私はすっと進み出る。
「ご夫君を差し置いてなんですが、この場はお任せを」
つい、とフランクの視線が私を捉えた。
「リアイスの……?」
見ない顔だなと思われたに違いない。お嬢様の結婚式の際には姿を変えていたし、面と向かって接触もしていない。私は軽く一礼した。
「いかにも。腐ってもリアイスです。奥方のことはお任せを」
「頼みます」
逡巡を振り払うように、フランクは黒衣を翻す。やがて闇へ溶けていった。
「モリーがどれだけ悲しむことか」
壁によりかかり、アリスが口にする。血の気の引いた顔のなか、眼だけが燃え上がっていた。戦う者の眼である。私の好きな眼だ。
「遺品は後ほど手渡されるでしょう」
亡骸も綺麗にしているところです、と続ければアリスの喉が鳴る。杖を持つ手に力が篭もった。
まだよい方だ、とは口にしなかった。兄弟は傷だらけ血まみれではあったが『揃っている』。空の棺を前にして嘆く遺族は数多い。リアイスなどこの戦争のせいで亡骸の修復技術を伸ばしてしまったほどだ。欠けている『部品』をつくり、傷を綺麗にし、葬儀ができる状態にまでもっていく。薬品は第七分家が、修復は第二分家が担っている。
――婿殿も酷かった
部品は揃っていたが、繋ぎ合わせるのが大変だったと死霊術士、マグルが囁くような死者の魂や肉体を操る呪われし者ではなく、死者の亡骸を癒す術者――がこぼしていたものだ。
「ありがとう、もう行きます。リアイスの方……。あなたもリーンのことが気になるのでしょう?」
私は肩をすくめる。
「さぁ。同じリアイスといっても、立場が違いますから」
血の繋がりも薄い。親子でもなんでもないのだ。私が気にかけるまでもなく、勁くなった。あらゆる意味で。
――闇の帝王と対峙して生き残れるほどに
アリアドネ様でさえ、婿殿でさえ殺されたというのに?
泡のように浮かんだ疑問。申し分ない実力があり、幼い頃から修羅場をくぐっている。だがそれだけが理由なのか。なにかほかにあるのではないか。
ホグワーツの祖の末裔、リアイスとリアイスの娘。ユスティヌを倒しし者だからか。
「あれはリアイスに執着している……」
正確にはアリアドネ様に、だろうか。輝ける者が憎かったのか妬ましかったのか。だからその娘が欲しいのか。胸の内は帝王に訊かなければわからないだろう。
フェンリール、捕縛! と歓声が夜を切り裂いた。捕縛、捕縛。あの獣をついに!
血に染まる雪、首斬られ、四肢を断たれた亡骸が脳裏に蘇る。人狼がまっとうに生きる権利を唱え、治療薬をつくり、保護に尽力していた婿殿。それを踏みにじり、密かに殺すように命じたアリアドネ様。裏切ったフェンリール。私が始末し損ねたがゆえに、婿殿に牙を剥き、アリアドネ様にも害を成し、数多の嘆きを生み出した存在。ようやく。ようやく捕らえたか……と天を仰ぐ。けれど、浮かされたような熱はない。
ただただ、虚しかった。
フェンリール・グレイバックは速やかにアズカバン行きとなった。だが、休む暇もなく、お嬢様は狩りへ出かけたのである。獲物はプルウェットの兄弟を始末した一味。アリス・ロングボトムと組み、何人かの麾下を引き連れてのことだ。
結果だけ言うと、お嬢様たちは見事に下手人を捕縛し、アズカバンへ放り込んだ。闇祓いの新星たちの名声が一段と高まり、ますます闇祓いの職務は忙しくなるはず――であった。
「……身重なんですから、内勤になるのは仕方がないでしょう」
ええ、と答える声は低い。せっかく本家へ帰ってきたというのに、眉間に皺を立てている。
「さあドロホフたちも牢屋に入れたし、アズカバンの独房全部埋めてやるなんて思ってないわよ」
「マッド・アイに任せておきなさい」
そもそもあんた、闇祓いになって二年かそこらで半分埋めただろう、とは言わなかった。ホグワーツを卒業、短い訓練を経て実戦投入、次々戦果を上げたのが新星たちである。通常ならば三年ほど訓練生として扱われるのであるが、戦時下ではそうも言っていられない。次から次へと戦地へ送られ、殉職率も高かった。しかし、生き延びる者はとことん生き延びる。お嬢様たちもその口である。
「――私とアリスが抜けてもなんとかなると思うけれど」
まさか同時期に、とお嬢様は天を仰ぐ。私は苦笑するしかなかった。こればかりはどうこうできないのである。お嬢様とアリス・ロングボトムの懐妊が発覚したのは先日のことで、両家に激震が走った。あげくにポッター家のリリーも懐妊。うちの伴侶殿は嬉しいやらなにやらで、ポッター家のジェームズは号泣し、ロングボトム家のフランクは「別に僕ら示し合わせたわけじゃないんだけどね」と宣っていた。
しばらくお嬢様たちは内勤だ。局長ルーファス・スクリムジョールの下であれこれと仕込まれるらしい。
しばらくゆっくりなさい、と言って茶を入れる。杖を振って卓へ飛ばそうとしたとき
「そういえばマグダラ家に令嬢が生まれたとか」
つ、と手が滑りそうになる。ここでそれを持ち出すか。
「めでたいことですね」
「クイン嬢と言うんですって」
お嬢様はにやにやしていて、群青の眼が私の表情をつぶさに見ている。そんなに楽しいか。
「そのうちお祝いのご挨拶にいくかもしれないけれど」
「第四分家と関わりは薄いので」
「……ねえ、孫だか曾孫だかでしょ。見に行かなくていいのあなた」
ちなみに曾孫――だろう。孫息子の娘のはずだ。
「私は妻を捨てたのですよ。お嬢様」
多少は気にもなるが、いまさら出て行ってなんになろうか。悲しむべきことにまったく爺らしくないのである。あんなに小さかったお嬢様が一人前の魔女になっても、私は年を食わないのだ。母方――マッキノンの血もつくづく厄介であった。
「いいんですよ」
椅子を『出現』させ腰掛ける。かつて己を殺そうとした暗殺者さえ受け入れる、心優しい魔女に告げた。
「私はまだお嬢様のお守りがありますからね」
結局、私はマグダラ家を訪ねなかった。お嬢様の護衛――付き人など他にいくらでもいるのだ。手が空いていれば伴侶殿に任せてもいいわけであるし。お嬢様の気遣いだとわかっていても、どうにもこうにも踏み切れなかった。
――捨てたのだし
どこにもいない男に扮しながら、村をそぞろ歩く。ゴドリックの谷は今日も平穏であった。さすがの闇の帝王も、敵の本拠にのこのこと現れるほど莫迦ではない。ただ時機ではないだけか、それとも他に理由があるのか定かではないが。
ここのところ妙に静かであっても、警戒はしておかなくてはなるまい。お嬢様からポッター家も気にかけておいてほしいと言われているので、時たま様子を見ているのである。
家々から炊煙が上がる。夕暮れ時の空に吸い込まれていく。家族の団欒。子どもたちの笑い声。どこからか魔法の火花が散っている。
とある邸の前で立ち止まる。ポッター邸だ。生け垣は整えられ、庭からは甘い香りが漂ってくる。煉瓦のひとつひとつに魔法が染み込み、蔦で身を飾っていた。古い魔法が重ねられ、そこに植物の守りも織ってある。ポッター家は薬学に秀でた者が多く、ジェームズ・ポッターの父の代までは会社も持っていたのである。非魔法族的に言えば大手製薬会社といったところか。今では会社をリアイス――第七分家にゆずり、ジェームズは莫大な遺産を継いで悠々自適の生活をしている。お嬢様と同じく、本来は働かなくとも食っていける人種である。
私は透明呪文をかけ、生け垣にぴったりと張り付いた。隙間からポッター家を窺いみれば、赤毛の魔女が杖を振っている。リリー・ポッターである。
今日も問題なし。悪阻やらもおさまったのだろう。よいことである。
かすかに聞こえてくる鼻歌は、幸福そのものの音色をしていた。そういえば妻も歌っていたな、と思い出す。皿を洗うときや、お腹を撫でながら、嬉しそうに。
影響されているな、と渋面になりかける。お嬢様の懐妊に引きずられているらしい。アリアドネ様の時には欠片も思い出さなかったのに。己が捨ててしまった幸せ。あったかもしれない未来。父と呼ばれる可能性……。
リアイスを捨て、妻を選ぶべきだったのかもしれないし、リアイスのまま、妻や子を丸ごと守るべきだったのかもしれない。ただ、若い――いいや幼い私は大変に視野が狭かった。捨てるしかないと思った。なにがあるかわからない。妻子を人質にとられるとか、色々。そもそも息子に汚れ仕事を引き継がせたくなかった。
――まあ、つまり
妻の方は腹を括っていたが、私はてんで駄目だったのである。やはり愛だけではいけないのだ。リアイスの婚姻は。
ぼうやりとリリーを見ながら、赤毛とは対照的な、黒髪のお嬢様を思い浮かべた。淡々として、何事か調べ物をしているお嬢様。伴侶殿のほうが浮かれ気味であり、まめまめしくお嬢様の世話をしている。その気になれば紳士然とするのだが、正直なところ意外であった。彼は戦場でこそ輝く男だ。内向きの、細やかなあれこれに向いているとも思っていなかった。
まあつまり愛なのだろう。妊娠期の妻に夫ができることなど下僕に徹することくらいである。妊娠出産は代わってやれないのだから。
ふう、と息を吐き、ポッター家を後にする。さてお嬢様は何をしているのやら。どことなく憂鬱で、不安げなお嬢様。立派な魔女になったはずなのに、昔のどこか弱々しく折れそうな少女の姿が透けて見える。
――何を思っておいでですか
胸中に影が兆す。じわりじわりと黒い水が染みていく。
当主としての務めも果たしている。淡々と日々を過ごしている。
だが、ちらつく影があるのだ。
狂気のグリフィンの影が。その翼を広げ、お嬢様を呑み込もうとしているのではないかと。
ここのところのお嬢様は。
――アリアドネ様を想起させたから
「――殺しなどまっぴらですよ」
いつか、未来の《ランパント》を殺せ、と命じられるのではないか。
そんな予感すらしてしまった。
◆
人間って変わるものだな……。
パッサント城の奥、一族最長老が居ます室の惨状は、そう思わせるに充分だった。重厚な調度品、紅の敷物。ゆらゆらと魔法灯が揺れる、伝統と格式ある一室は、今や玩具その他諸々に浸食されていた。
私は室の隅に眼をやった。白いぬいぐるみ。獅子である。ほかにはおむつやらガラガラやら、ごちゃごちゃである。
「爺が張り切ってどうすんですか」
ぱちり、と指を鳴らせばぬいぐるみが飛んできた。特大で、毛並みはふかふかで、たてがみは立派である。なんとなしに撫でてしまう。リアイスのごたぶんに漏れず、私も息子に獅子のぬいぐるみを買ってやったものである。懐かしい。
「誰が爺だ。お前のほうが爺だろう」
執務机の向こうから一族最長老――ということになっているアシュタルテ翁に睨まれても、痛くも痒くもない。威厳ある魔法使い、グリンデルバルドを倒した英雄ではなく、ただの浮かれ野郎である。
「見た目は若いですからね。誰も私が爺だなんて思いますまい?」
言って、ひょいとぬいぐるみを放り投げた。危なげなく荷の山に着陸する。
――アリアドネ様ご生誕のときは
目の前の爺――アシュタルテは、たいして気にかけていなかったように思う。もちろんしかるべき準備を整えていたし、妻たる本家当主ディアドラ様のことも気遣っていた。なにせ翁は多忙な身であったのだ。今よりももっと。だから子どもが――アリアドネ様が生まれても、そこまで手をかけなかった。かけずともなんとかなっていたし。
改めて奇妙な気分であった。父親だった男が曾祖父になるのである。感慨にふけりたいが、それは後だ。
「よほど曾孫のことが特別とみえる」
「可愛い孫娘の子だからな。私とて情はある」
「――七月生まれじゃなきゃいいですが」
ひくり、と翁の口端がひきつる。淡い群青の眼が魔力を灯してゆらめいた。
「油断も隙もない」
「影働きの者ですからね、私は」
七月の一日か、末日か。どちらかの日にお嬢様の子が生まれてしまえば面倒なことになる。なにやら闇の帝王を滅ぼすとかなんとか、左右するだとか。そんな預言がくだされたのだ。
今のところ、闇の陣営には漏れていない。リアイス、ポッター、ロングボトムの三家に子が生まれそうだというのは掴まれているだろうが、どうやら様子をみているらしい。魔法省や騎士団によって、相当数な死喰い人が獄へ送られたせいもあるだろう。こちら側もあちら側も損害はひどいものだが、決定的な王手をかけられないでいる。膠着状態だ。
「預言なんぞ――と言いたいところだが」
翁の声が沈む。なにせ彼はリアイスでも占を得意とする、筆頭分家パッサントの魔法使い。しかも妻は先視の姫君であったのだ。預言というものをよくわかっている。いやわかっていないというべきだろうか?
「下手に手を出して、預言が無効になるのかもわかりませんしね」
お嬢様の子を厄介な預言から逃れさせようと思えば、それなりに手はある。預言の日より先――たとえば今月に出産させるだとか。できなくはない。六月現在、臨月なのである。もうそろそろ出てくる頃合であった。
ただし意図的にずらそうとしたところで、なんらかの介入によってご破算になる可能性もおおいにある。預言や時間といったものは、未だに解明しきれていない領域なのである。
「……まだ何もわからん。帝王を倒す可能性がある者が生まれたとしても」
我らが帝王を倒せばいい。
決然とした眸は、お嬢様とそっくりである。不断の意志。たしかにお嬢様は翁の孫である。
どうせお嬢様も似たようなことを思っているに違いない。子どもたちに荷を負わせる前に、自分が倒すと。私も同感だ。
独りよがりの莫迦者のために、踏みにじられる者がいるなんて、もうまっぴらだ。
いい加減、飽きもするのだ。
「小うるさい爺どもめ」
女の声は、雷雲をはらんでいる。上等なソファに寝そべった、あられもない姿であるが、いささかも威厳を損なってはいなかった。リアイス本家当主《ランパント》――お嬢様は、大きくなった腹をさする。
「……城におられたほうが、なにかと都合がよろしいのも確かでは?」
ぐるり、とあたりを見回す。温かな色合いの絨毯に、品のよい調度。照明は柔らかく居間を照らしている。ランパント城と比べれば、ちっぽけな住まいであった。けれどお嬢様は子育ては外ですると宣言した。森の中の別邸ですると。出産も城ではなく邸でするのだと譲らなかった。
「ランパントが城で出産しなきゃいけないなんて決まりはないし、私だって喧噪から離れたい時はあるんだから」
仕事が滞らなければいいでしょうよ、と言い切った。ソファにのんべんだらりとしている姿は、優美な雌獅子を思わせる。野性的で、どこか愛嬌があり、けれども危険。
「どうせお産みになるのは貴女様です。口を挟みますまい」
「守りは任せたわよ」
お嬢様は膨らんだ腹を撫でる。そっと、静かに。相変わらず憂いが濃い顔のままで。
守りは任せた、と言われても私は警備責任者ではなかった。お嬢様の邸は分家の面々で囲んでいて、何事かあれば動けるようにしているだけだ。 なにせ臨月で、いつ生まれてもおかしくなかった。たいてい女当主は産褥で儚くなるか、出産時に隙を衝かれて殺される場合が多い。なので一族は神経を尖らせている。今崩御されるのは困る。混乱に付け入れられ、闇の陣営との戦いが立ちゆかないかもしれない。
お嬢様は邸と城を行き来していたが、六月も終わりに近づいて、伴侶のシリウスに代理を任せるようになった。伴侶殿でも決裁できるものはあるし、会議にも参加できる。《ランパント》が眼を通すべき書類は邸に持ち帰っていた。翁にも適時相談し、巧く回しているようだ。
一方、お嬢様はというと、邸にこもってなにやら調べ物や、おそらく遺書を書いているのだろうと思われた。私が気配を殺して入室してもさっと隠されるので、確かではないが。
七月一日も、私は邸の周辺を巡回していた。風に乗り、眼下の邸をみやる。昨日までぴんしゃんしていたお嬢様だったが、早朝にに産気づいた。邸内には夫君のシリウスと、友人のポッター夫妻、リーマス・ルーピン、それに忠実なる屋敷しもべが詰めている。
――聖マンゴで、とか城で、とか
やはり色々と意見はあった。しかしお嬢様は押し通したのである。屋敷しもべを産婆にするのは変わっているが。まあ、なくはない。アリアドネ様も屋敷しもべを産婆にしていたのだ。伝統的に、リアイスの――殊に八家の面々は、そうする傾向にある。しもべが主を傷つけるなどありえないからだ。しもべ――クラインはお嬢様をよく世話し、守っていたから適任であろう。
私の心は過去へ飛ぶ。
『令嬢でございます』
生まれたばかりのお嬢様を差し出され、恭しく抱いていた婿殿。本家令嬢の誕生に沸き立つ一族。あの日は確かに祝福されていた赤子。
『この子は清濁併せ呑み、いずれ我々の上に立つ者……』
小さく、頼りなく、守ってやらねば死んでしまう命を前に、婿殿は断言したものだ。誰よりも婿殿こそが、赤子を赤子としてではなく、黄金のグリフィンだとみなしていた。私の娘だと言いながら、もっと先を見ていたのだろう。まったく惜しい人を亡くした。
陽が昇り、段々と暮れていく。森の緑が燃えるような紅に染まっていく。お嬢様は初産だ。ならば、出産は明日――二日になるだろう。経産婦ならばともかく、初産は時間がかかる。どうやら小細工せずともお嬢様の子が預言の子になる可能性はなさそうだ。
はたり、と羽ばたいた時、邸の扉がぱっと開いた。私は一息に焦点を合わせた。伴侶殿である。鴉の優れた視覚は、彼に刻まれた喜びと――悲しみを残らず読みとった。なんとも嫌な予感がする。運命の女神とやらは、期待させて突き落とすのが趣味なのか。なんと悪辣な……。
黄昏の空を、声が渡る。
「生まれた――生まれたぞ! 男の子だ!!」
七月一日。夕暮れ時。後に《ランパント》となり、英雄となり、《黒獅子公》と呼ばれる魔法使いが誕生した。
その名をウィスタ・セイリオス・ランパント・グリフィンドール・リアイス。