名付けを間違えたのだな。居間のソファに腰をおろし、ぼうとシャンデリアを眺めている妻を見て思った。
窓から黄昏が忍び寄り、影を歪ませ躍らせる。一族の歴史を示すタペストリーを血をなすったように染めていた。
オリオンの双眸は、タペストリーに空いた真新しい穴を捉える。ぽつりとつぶやいた。
「……切り捨てたか」
ヴァルブルガ。呼びかけても妻は黙ったままだ。ブラックの血統を証す灰色を虚空に据えたまま。
「あれが出ていったのよ。家系図から己を消して」
何拍待ったか。ようよう返された答えにため息を吐く。ブラックの血を色濃く継ぐ息子――長男を思い浮かべる。やはり、オリオンは名付けを間違えたのだろう。灼き尽くす者なんて名を、輝ける星の名を冠させるべきではなかったのだ。
優秀だったことは認めよう。一度見た魔法はすぐさま使いこなし、応用までしてのけた。なんでもそつなくこなした。なにより華があった。
「もうあれはブラックにあらず」
妻にささやく。ソファに寄り、薄い肩に触れれば、かすかな震えが伝わってきた。
「わかっていますとも」
莫迦者、愚か者、面汚し。紅の唇から吐き出される言に、またも漏れかけたため息をこらえた。
息子の教育も、矯正も失敗したのだ。
『あんたたちはそのままでいればいいさ』
今更だ。道は交わらない。理解しようなんて無駄だ。息子はことあるごとにそう言った。すべては無駄だ。わかりあえない。
『レギュラスがいるんだからいいだろう』
俺は当主なんて向いていない。あんたらの期待するいい子ではない。
『とっとと俺を切り捨てることだな』
グリフィンドールに組分けされたことに後悔はない。あんたらが穢れた血と呼ぶように、マグル生まれを蔑むのも厭だ。
『ユスティヌと結びついても、泥沼だぞ』
やめておいたほうがいい。ましてや俺と婚約なんてさせてどういうつもりだ。
灰の眼を怒らせて、息子は言った。ついでに己が母に眼を向けた。
『出来損ないを放り出せば』
あんたも少しは楽になるだろうよ。せせら笑う息子の顔を、繊手が打った。鋭い音が響き、息子の頬が赤く染まった……。
そして、今日。オリオンが外出した隙を衝くように息子は出ていった。
――これでよかったのだろう
息子はオリオンたちと根本的に違っていた。あり方が違った。相互理解はありえなかった。息子に期待し続け、ヴァルブルガの精神はひずんでいる。そもそも、息子がグリフィンドールに組分けされた時、出来損ないを生んだやら、実はお血筋ではないのでは、と密かに噂が――悪意のある噂が流れたのだ。オリオンは即座に手を打って黙らせたが、ヴァルブルガの心に引っかき傷を残したのは間違いない。
オリオンはソファに腰をおろした。ヴァルブルガは呆としたまま。常の激しさはどこかに失せていた。
「私達の息子はレギュラスだけだ」
いいね。念を押すように言えば、ヴァルブルガは頷いた。
問題は片付いた――はずだった。
◆
「気をつけてね」
「早めに帰ってくださいね」
ダイアゴン横丁の大通り。闇色の外套を纏った魔女が、握手の求めに応じていた。
バグノールド顔負けの人気だな。オリオンはオリバンダーの店前から、魔女を窺う。
「あなたこそお気をつけて」
「――の町を救ったんですって?」
どれほどあなたに、あなたたちに励まされていることか。老いた魔女はそう言って、年若い――オリオンの娘ほどの魔女の手をとる。
「わたしたちにとっての希望です」
リーン・リアイスさん。
言われ、魔女――リーンは瞬いた。老魔女の背を軽くさすり、送り出す。おばあさん。気をつけて帰ってね。
見守るうちに通りにひとけがなくなった。今は闇の時代。外出は最小限で、昔のような賑わいは遠い。
行かねば。オリオンとて用は済んだ。オリバンダーの腕は健在だ。杖は美しく整えられた。つい、魔女を眼で追っていたが、無駄に時を費やしてしまった……。
杖を振ろうとして――眼が合った。黒髪の娘、その夕暮れまじりの群青と。
あ、と娘が声を漏らす。オリオンは杖を片手に立っていた。こんな娘相手に逃げたように思われるのは癪だった。
娘が通りを渡る。音もなく、軽やかに。
――アリアドネには似ていないな
まるで逆だ……と娘の母親を思い出す。白金の髪、性情は烈しく、正義に殉じて死んだ女。ヴァルブルガと同じく異端を生み――ヴァルブルガと違って、娘を憎んで憎んで、産まなければよかったとまで言った女。非情な『氷の心臓を持つ魔女』。
娘は黒髪で、オリオンの眼前に立っても、嫌悪など欠片もみせない。これがアリアドネなら、オリオンを射るように見ていたろうに。
「闇祓いは暇なのかね。知らなかったな」
「非番なんです」
オリオン。義父様。さらりと言われ、返答に窮した。
「……もう君のものになったのかね」
あれは。婚約したのかね、それかすっ飛ばして結婚したのかね。つまり……。潜ませた含みを察し、娘の顔が朱に染まる。ただの可憐な令嬢のように。誰がこの娘を闇祓い――マッドアイの弟子と思うだろう?
「婚約はしましたよ」
娘は視線をさまよわせる。ああ、とだけ返し、オリオンは娘の横をすり抜け、通りに踏み出す。軽い靴音がついてくる。す、と隣に並んだ。
一瞬にして眼を灰色に――ブラック家の色に変え、顔立ちもブラック家に寄せている。なんたる早業であろうか。これならば、ブラック家の二人が外出し、談笑しているようにしか見えまい。
――この娘に
あの息子は手を出したと。出したのだろうな。下手したら婚約前に。ヴァルブルガが聞けば怒り狂うだろう。なにせ娘――リーン・リアイスと勘当した息子が交際どうこうの噂が流れてきて、眼を血走らせていた。
リアイスのふしだらな女め。あれをたぶらかし堕落させた!
あれが出ていったのはあの女のせいではないか。
ふざけるな駆け落ちなど――!
期待しヴァルブルガなりにかわいがっていた息子が、よりにもよって敵手たるリアイスと結びつくなどありえぬと、ヴァルブルガは火を吐かんばかりだった。
オリオンは肯定も否定もしなかった。息子は出ていったのだから。どうしようがかまわない。息子は生まれる場所を間違えたのだ、と思うことにした。
穢れた血と結ばれるよりマシだ。それに義弟のアルファードは娘を気に入ったらしかった。
『ただの小娘じゃあないよ』
ひょいと手紙を寄越してきたのは、数年前のことだった。アルファードも家系図から抹消されたひとりだった。憎めない男で、気性の烈しいヴァルブルガの弟とは思えなかった。妙な愛嬌があり、ヴァルブルガに言わせれば「のらりくらり」だった。そんな彼はオリオンの息子にグリンゴッツの金庫をいくつかやり、ヴァルブルガは激怒した弟を家系図から消した。アルファードはなんにもこたえてないらしかった。
「君ならふさわしい男をほかに見つけられたのでは?」
なぜあれを。問いを投げれば、娘は肩をすくめた。
「捕まったんですよ」
そうしてまた赤くなる。死喰い人を冷酷無比に狩る娘は、可愛らしい一面もあるようだ。
――ああ
あれが押して押して押して押しまくってしまいに押し倒したか。良家の男にあるまじき暴走が想像できて、オリオンはげんなりした。
「厄介なのに捕まったな、君も」
「私こそ傷物ですからね。シリウスがもの好きなんです」
実にさらりと言われ、オリオンはまたも返答に窮した。誇り高きリアイスの娘。魔法騎士。希望をもたらす闇祓い。
血筋も名誉も実力も、なにもかもを手にしている、恵まれた娘――だが、組分けひとつで人生が狂ったのだ。
「あれほど慕われていてなにを言うか」
先の光景を思い浮かべ、つい口にする。厭々ながら、あれの心が――おぼろげながら――理解できてしまった。
わざわざリアイスの女を選んだわけではないのだろう。
放っておけなかった女が、たまたまリアイスの娘だったのだ。
そのまま連れ立って歩き続け、煉瓦の壁――出口へと至る。
す、と娘へと向き直る。決して娘と呼ぶことのない娘に。
「あれを選んで後悔しても知らないぞ」
「ご心配なく。二人で長生きしますから」
ね、お義父様。微笑まれ、調子が狂う。
「戦士の星に気をつけなさい」
ぶっきらぼうに言い、指を鳴らす。一輪の青い薔薇を、娘に差し出した。
「差し上げよう」
礼を言わせる間もなく、さっさと門を開き、外へ出た。
路は交わらない。理解もしあえないだろう。
だが。
幸運を祈り、茨の路をゆく者たちを祝福するくらいはいいだろう。